第5話

 気付くと暗い闇の中にいる。

 こそこそと人の囁き声がするが、言葉の意味まではわからない。

 自分の身体が立っているのか座っているのかすらも定かではない。


 あぁ、また倒れちゃったのか・・・。


 自己嫌悪で胸が一杯になる。僕だって倒れたくてこうなっているわけじゃない。身体の摂理だから仕方ない。


「・・・ってんのよ、もう・・・」


 近くで聞きなれた声がしたような気がした次の瞬間、僕はベッドから引きずり落とされていた。


「いててて・・」


 ふかふかのカーペットの上だとしても、顔から落ちたら痛いに決まってる。


「お兄ちゃん!何度も呼ばせないで!ご飯だって言ってるでしょっ!」


 人の部屋の中でわめきながら腰に両手を当てて仁王立ちしているのは、妹の芽衣である。小学六年生なので、来年からは同じ中学に通うこととなる。

 彼女はまだ何か言おうとしていたが、慌てて制服に着替え始めた僕を見て、軽く舌打ちしてそのまま退散した。


 台所に入ると母がいつものようにおっとりと食事の用意をしている。


「おはよう、将人」


 台所のテーブルにはタバコを吸いながら新聞を読んでいる父の姿があった。


「おはよう父さん。帰ってたの」


「おう。最終電車に間に合ったからな」


 地方に出張していた父は予定よりも早く我が家に帰って来たらしい。


「お父さん聞いてよ、もうお兄ちゃんたら・・・」


 父が不在の間にどれだけ僕が不甲斐無い兄だったかという話を、まるで機関銃のようにまくし立てるのが、この妹の日課であった。

 それを半分聞き逃しながらたまに相槌を打つのが父の日課で、二人の様子を目の当たりにしながら朝御飯をかき込むのが僕の痛ましい日課だった。


 そう僕は学校では問題を抱えた保健室登校生だけど、家では普通の中学生なのだ。

 他の誰でもそうかと言われたら言葉につまるけど、とりあえず僕の場合はそうだ。


「そういえば、私、今度中学校の保護者会に行かないといけないんですって。」


 父に味噌汁を出しながら母が言った。


「えっ、何の保護者会?お兄ちゃん部活やってないじゃん」


 口とがらすな小学生め。


「不登校とか保健室登校の生徒の保護者の会合みたいなものだって」


 同じような境遇の親を集めて、解決の手がかりを見出したいんだろう。ただ、僕の場合は他所とはかなり状況が違う。

 第一に家族全員が割り切っている。


「それにしてもすまんかったな。まさかお前に遺伝するとは思わなんだ」


 とても謝っているようには見えないすました顔で、父は眼鏡を外して味噌汁のお椀を手に取った。


 そう、このいきなり正体をなくすという症状は父からの遺伝だった。この父も思春期の頃からしばらく、人前で倒れてしまわないように苦労をしていたそうだ。

 貧血でも立ち眩みでもない。

 たとえば、血液とか傷口とか、写真はおろか話に出ただけでも、気分が悪くなる。そして意識をなくす。

 精神的なものが関係しているらしいが、どの程度だったら倒れそうになるとかの基準がなくて、もう倒れる時には倒れる、としかいいようがない。

 本人が気をつけて回避するしかないのである。


 僕が最初に倒れたのは中学一年の保健体育の時間だった。先生が教科書を読みながら怪我をした場合の応急処置の仕方を説明しているのを聞いているうちに気分が悪くなった。

 そういえば最初に倒れた時、気付いたら保健室だったな。あれ、あの時はどうしてどこも痛くなかったんだろう。


「お兄ちゃん、何ぼーっとしてんの。遅刻するわよ」


 すでに食べ終えてランドセルを背負った芽衣が上から見下ろしていた。


「ヤバイ、ごちそうさま」


 かじりかけのパンを一度にほおばると、ドタバタと玄関から外に出る。僕らの家は小さな一軒家だけど、その周りは同じような一軒家に囲まれている。

 家族構成も似たり寄ったりなので子供達は皆同じ時間に家を出る。そこここで朝の挨拶を交し合う声がしている。


「来年は私も中学生だからさ」


「え?」


 憎まれ口しかきかないと思っていた妹が、普通にしゃべりかけてきたのに多少驚いて、僕は聞き返した。


「お兄ちゃんの面倒見てあげるからね」


片手を握り締めて、お前鼻の穴おっぴろがってるぞ・・・。


「あ、おはよー!」


友達が手を振っているのに気付いた妹は、そのまま駆け出していった。

その様子を唖然として僕は見送る。


このままじゃ、ちょっとまずくないか。

ちょっとどころか、非常にまずくないか。


その日は妹から構われる兄の構図が頭からはなれなくて、僕は久しぶりに熱を出して保健室のベッドで休むことになった。


ーーーー次回予告・明日の友

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