12.

     ***


「さあ、召し上がれ!」

 元気いっぱいにサエが炒飯を手渡した。

 受け取り、テーブルに置く。

 香りだけでもたまらなかったというのに、盛り付けた皿が我が家の皿とまったく同じものであったせいで、加須美はもう堪えられなくなった。

 ぽろりと、涙がひとしずく落ちた。

「どうしたの? 何か違った? 旦那さんの炒飯じゃなかった?」

 突然のことにサエがオロオロとうろたえる。

 加須美は首を横に振って涙を拭った。

「ちょっとだけね、寂しくなっちゃったのよ。でも大丈夫。これを食べたら、三途の川を渡れるんだものね」

 さっきサエがしたように、加須美も大きく息を吸った。

 威勢のよいかけ声の代わりに、

「いただきます」

 としっかり言って、一口目を口に入れた。

「どうかな?」

 口に入れたのとほぼ同時。せっかちに問いかけたのはサエではなかった。

 こちらを覗き込むようにして、感想を待つ夫の姿がそこにあった。

「これは……、私ったら」

 寂しさのあまり幻でも見ているのだろうかと、加須美は自分の頬をつねった。驚きと頬の痛みで、一口目はよく味がわからなかった。

 それでも夫はたっぷり期待して加須美の言葉を待っている。

「ああ、ええと」

 早く答えなければと、戸惑いながらも二口目に手をつけた。

 懐かしい味だった。

 しかし懐かしいと思うのと同時に、こんな味だったかしらと首を傾げた。

「なに? 美味しくなかったか?」

 夫が心配そうな顔を見せる。

「そうじゃないんだけど……」

 言いながら、加須美は「そうだ、こんな味だった」と思い出した。

 久しぶりの料理だったせいで、一回目の主夫デーの炒飯はたしかそれなりの味だった。二回目も三回目も、しょっぱかったり味が薄かったり安定しなくて、ご飯がべたっと固まっていたこともあった。

 感想を言うまでになんだかんだと説明のような言い訳のようなことを述べていた夫の様子を思い出し、自然と笑みがこぼれた。

「にぎやかな旦那さんだね」

「え?」

 サエの声が聞こえたことで加須美は慌てて立ち上がった。現実に引き戻されてしまったのだと思った。

 しかし夫の姿も、そのまわりにある我が家の風景もそのまま加須美の目の前にある。どうやらサエが景色に侵入してきたということらしかった。

「私は、夢を見ているのかしら」

 夫の幻を見ながら、現実のサエと話をしているという不思議な感覚にまだ馴染めずにいた。

「これはね、旦那さんの炒飯が加須美さんに見せている景色なの」

 三途の川のホトリ食堂で食べられるその客だけの特別メニューは、料理に関係する思い出の景色を見せてくれるのだとサエは続けた。

 そしてそれは、三途の川を渡るために必要な景色なのだと言った。

「この景色が……?」

 加須美は目を大きく見開いて、思い出を凝視した。

 夫はスプーンを持つ手を止めることなく、次から次へと炒飯を口に運んでいる。

 不意に顔を上げるとそのたびに、

「悪くないだろ?」

 と『美味しい』の一言をねだった。

 過去の自分と話しているとわかってはいても、何か言わなければいけない気がして、加須美はもう一口二口と続けた。

 口の中に押し込んだ米粒は、特製ダレのおかげでしっとりと舌になじんだ。その脇で炒飯の具にしては大きめの鶏肉がぷりっとした気持ちいい食べ心地を連れてくる。

 続いてしめじが歯に触れる。しんなりしすぎず、ほどよい火の入り方。軽快な歯触りに爽やかさえ感じる。そこへニンニクの芽の強い芳香が混じった。たったひと噛みだったというのに、口の中はニンニクの芽の風味でいっぱいになった。

 そこでふと気づく。

 炒めているときは、細かく刻んだニンニクとショウガの匂いが強烈でどんな味になるかと心配だったのに、ここに至るまで悪目立ちしている様子はない。程よいアクセントに思える程度の存在感で、それぞれの素材の影にうまく潜んでいた。

 お米と、鶏肉と、しめじとニンニクの芽。玉葱とにんじんは甘みもさることながら、コリッとシャキッと野菜らしい食感が好印象だ。

 自己主張の激しい面々が、口の中でうまく混ざるのはやはり特製ダレのおかげだろう。馴染みのある焼き肉のタレの風味が鼻に抜けると、なんとなくホッとした。

 しかしオイスターソースを強く感じる、あとに残る濃厚なうま味は年をとった味覚には少しもったりと重く、スプーンの動きを鈍くさせた。

「駄目だった?」

「そうねえ……」

 焦らして、感想はもう一口食べてから。

 濃いめの味付けの中、豆板醤の辛みがピリッと舌に届いた。その刺激が、鶏肉はどんな味だったかしらなんて物忘れをさせるから、ついもう一口食べてみたくなる。それがなかったら完食できなかったかもと、心の中で苦笑いした。

 だけど加須美は、嬉しそうに笑って

「おいしいわ」

 と伝えた。

 一回目の主夫デーのその時も、まったく同じように言っただろう。

 その証拠に、目の前で最後の一粒をぺろりと舐めた夫は、安心した顔を隠して、

「ほらな。意外とできるもんだろ?」

 などと得意げに言ってみせた。

 散らかった台所はそっちのけでふてぶてしく笑った。

 そうなのだ。

 任せてみれば意外とできたのだ。

 その証拠に、二回目の主夫デーはもっと手際が良くなったし炒飯も美味しくなった。

 三回目には「あれはどこ?」と呼ばれる回数が減った。四回、五回と回を重ねるごとに、シンクの荒れ方はましになったし、後片付けは楽になった。レパートリーも増えて炒飯の出番はめっきり少なくなった。料理にかかる時間が少なくなれば、他の家事にも手を出し始め――

「少しずつだけど、ちゃんとできるようになっていたわね」

 それは加須美がいなくなってからも続いていくのだろうと思った。

 ひとつずつでも、ちゃんとできるようになっていくのだろう。

「信じて、任せてみたら? 旦那さんだって、いろいろできるようになったんだもの。きっと加須美さんがいなくても大丈夫だよ!」

 だから安心して川を渡っていいんだとでも言いたかったのだろう。サエははじけるような笑顔で加須美の手をとった。

 しかし加須美は、サエの言葉に「そうね」と言いながらも、首を縦に振ることはできなかった。

 夫は一人でもきっと大丈夫なんだ。

 そのことはもちろん加須美を安心させた。

 だけど同じくらい、いやそれ以上に寂しくさせたのだ。

 その気持ちに気づいたら、足を止めた理由がはっきりした。

「私がこのお店に導かれたのはあなたのことが心配だったからじゃなかったのね。一人じゃ駄目なのは、私の方だったみたい」

 加須美はそう言って笑った。

 笑ったはずなのに鼻がツンと痛くなって、目には熱いものがこみ上げてきた。

 夫が何かひとつできるようになって自分の手間がひとつ少なくなれば、その分だけ加須美は寂しくなった。料理中の姿が頼もしく見えれば見えるほど、胸がきゅうっと苦しくなった。

『私がいなくちゃ駄目なんだから』

 そう言えることが、加須美にとっては歓びだった。そう言うことで自分の居場所はここにあるのだと胸を張ることができた。

 だというのに、

「俺だってやればできるんだよ。だからさ、お前もたまには友達やなんかと遊びに行ったりすりゃあいいんだよ。家のことは俺に任せてさ。なに、お前がいなくたってなんとかなるよ」

 思い出の中の夫は加須美の気持ちなど知る由もなく、あっけらかんとそんなことを言う。

「馬鹿ね。私がいなくてもなんとかなるなんて、……そんな寂しいこと言わないでよ」

 言い終える前に涙が一筋こぼれた。

 こらえようとしてみたが、最初の一滴が落ちてしまったらあとは抑えようがなかった。次から次へとあふれ出して、胸の奥に沈んでいた、加須美自身が気づきもしなかった感情まで道連れにする。

「私は、まだまだあなたの世話を焼いていたかったのよ。もっともっと頼りにしてほしかった。『ああ、やっぱりお前がいなくちゃ駄目だな』って、なんならお墓の前でだって――」

 そこまで言って、加須美はやめた。

 ぶんぶんと首を横に振って、その先の言葉を飲み込んだ。

「違うわね。そんなんじゃない。私のお墓の前であなたが言うのはそんなことじゃないわね」

 涙でぐちゃぐちゃになりながら加須美は何度も否定した。

 墓前で手を合わせる夫の姿を思い浮かべてみれば、自分が望んだ言葉ではしっくりこなかった。

 もっと夫が言いそうな言葉が浮かんで、その姿がありありと浮かんで、加須美は泣きながら笑った。

『意外とできるもんだろ?』

 得意げな顔をして言う姿が愛おしくて愛おしくて思わず顔が緩んでしまうのに、どうしても胸はぎゅっと苦しくて、加須美の涙が止まることはなかった。

 それでも加須美は首を振って自分に言い聞かせる。

「これでいいのよ。これで、いいのよ」

 そう言って、その場に泣き崩れた。


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