9.
***
真っ赤なオーブンが低く重く唸っていた。
この古めかしい食堂には似つかわしくない新しめの家庭用オーブンレンジは、食器棚隣の作業台に置かれていた。他のものとの配置のバランスを考慮した様子もなく、まるで今日だけ特別にそこに居座っているような不自然さがあった。
だがいい仕事をしているようだ。
扉のガラス部分から焼き具合を確認していたサエはにんまりしている。ついでに、くんと鼻先を上げ匂いをいっぱいに取り込むと、さらに笑顔をふくらませた。
「そんなに顔近づけなくても、ここまで匂い来てるよ」
サエの様子を見て崕が笑った。
「見てると飽きないでしょ?」
間髪を入れずに篁が問う。
崕は柔らかな表情を見せながら頷いた。
「なんか、知ってるヤツに似てて。あんな風に真剣な顔したり、かと思えばこれでもかってくらいに喜んでみたりしてさ。そうやってお菓子とか作るんだけど、いつも出来が微妙なの。んで、それをヘンなゆるキャラの袋に入れて配るんだ」
サエと似ているらしい誰かの姿を思い浮かべながら崕は微笑みをこぼした。
しかしその笑みは徐々にこわばり、やがて悲しい色を帯びた。
サエと篁がああでもないこうでもないと口論している間に崕少年はぽつりとこぼした。
「一生懸命で、キラキラしてたな」
その台詞の端が耳に入ったようで、篁が崕の方へと視線を流した。鋭い眼差しで崕をとらえそっと口を開く。
篁の口が何かしらの言葉を発する前に、オーブンレンジの電子音が焼き上がりを知らせた。
崕はとっさに表情を繕おうとする。うまくできずに気まずい空気が流れたが、サエの弾んだ声がすべてをかっさらっていった。
「できたよ! みんな、準備して! オーブンを開けたら、匂いがぶわーって広がるからね!」
「だから、さっきからもう十分おいしそうな匂いがしてるってば」
そう言った時には崕から悲しみの気配は消えていた。
サエのもとへ駆け寄り、無邪気に笑ってみせる。先ほどの告白と直前の顔つきのせいで、その笑顔は作り物のように見えてくる。隣に『本物』があれば尚更だ。比べものにならないほどに晴れやかで、純粋に嬉しさだけを表したような顔で、サエがオーブンの天板を運んだ。
「じゃーん」
と口で効果音をつけて披露する。
クッキングシートが敷かれた天板の上に渦巻きの形をしたパンが整然と並んでいた。そこから立ちのぼる熱気と匂い。
サエの言葉通り、オーブンを開けるやいなや、食堂内はかぐわしい香りで満たされた。
美味しそうなパンの匂いだ。
パン屋の前を通れば似たような匂いが漂っているが、『目の前で、たった今』焼き上がったパンの匂いというものは別格だ。
加熱された穀物の甘い匂い。
焦げ臭くなる手前の、良く焼けた香ばしい匂い。
それらの匂いがほんのりとした熱をともなって、じんわりと鼻腔に染みこんでくる。
それだけでも幸せだと思うのに、サエが焼いたパンにはそれ以上の香りがあった。
甘く、刺激的で、そして爽やかな不思議な香り。
崕は天板に顔を近づけて、その辺に充満している匂いを体いっぱいに吸い込んだ。
ああ、やっぱりいい匂いだ。
崕は目を輝かせパンを見る。
こんがり焼き目のついた渦巻きのパン。内側の螺旋に縁取りをしたように焦げ茶の蜜らしきものがある。その焦げ茶が何ものなのかは知らないが、しっとりと生地に染みこんでいるようで、そこがずいぶんとうまそうに見えた。
崕はゴクリと唾を飲み込んだ。
だが、食べたいという気持ちと同じくらいに、疑問が頭を占拠しようとしている。
『あなたの思い出の料理』
サエは確かにそう言った。
それなのに、崕はこの渦巻きのパンに見覚えがなかったのだ。
「俺、このパン知らないんだけど」
そう伝えてみてもサエはまだまだ自信たっぷりに「大丈夫」という。
そう言いながら、こそこそと何かをしている。
えいっと背伸びをして、食器棚の高いところから何かを取り出そうとしているようだが、崕の意識は渦巻きのパンへと向いていた。
自分の思い出の料理などではないが、美味しそうなのは確かだ。
すっかり匂いに魅了され、つい手を伸ばしてしまった。
まだしっかりと熱いパンを一つ掴み、顔のすぐ前まで近づける。小麦の匂い。香ばしい匂い。甘い匂い。そして最も少年を惹きつける匂いは、香辛料のようにピリッとして、ハーブのように華やかで、蜜のように甘く甘く彼の心を絡め取る。
疑問が消えたわけではない。
だがもう我慢できなかった。
「食べていい?」
そう尋ねながらも、答えを待たずに口に運ぼうとする。
「ちょっと待って!」
慌てて振り返ったサエは食器棚から取り出した何かを落としそうになる。うまく受け止められず、『何か』はサエの腕の中でお手玉のように何度か跳ねた。
その様子を横目で見ながら、崕はもう渦巻きのパンにかぶりついていた。待てと言われたが間に合わなかった。
怒られるかな。
そう思いながらパンにかぶりついていた。
口いっぱいにあふれた香りと甘さが鼻に抜けていく。その最中にサエのお手玉が止まった。『何か』の正体が崕の目にはっきりと映った。
見覚えのあるキャラクターがプリントされたラッピング袋。
「……どうして」
パンを噛みちぎりながら、言葉が漏れた。
その問いに答えが返ってくる前に、ラッピング袋は崕の前から消えた。
袋だけではない。
サエも篁も、食堂も何もかもが消えた。
代わりに崕の前に現れたのは、彼が見慣れた風景だった。
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