12.

 強くまぶたに力を入れて、そのちからをほどくようにして再度目を開けた時、彼はふたたびキャンプ場の夜の景色を見ていた。

 満天の星空の下で涼やかな風を感じる。

 それは変わらないのに、彼の目に映る何もかもがさっきとは違っていた。

 瞬時に、時代が変わったのだと彼は察した。

 湖畔の景色ではなく、草や木のにおいに包まれた森の景色に変わったというわかりやすい変化よりも先に、樽前はそう感じた。

 同じように、暗闇の中にテントがたち並び、そこかしこにやわらかな灯りが灯っていたが、それは彼が良く知る幸福な夜の風景ではない。

 ロッジ型ばかりだったテントはほとんどがドーム型のものに変わっているし、外で焚き火を囲むような家族の姿も少ない。

 道具が変わり時間の過ごし方が変わったキャンプ場の中で、ようやく、見慣れた景色を見つけた。

 ひそひそと会話する子どもたち。

 それを笑顔で見つめる父と母。

 彼らの手には紙コップがあり、そこからはあたたかな湯気と美味しいにおいが立ちのぼっている。

 塩味のインスタントラーメンのにおい。

 樽前は恐る恐る彼らのもとに近寄った。

 近寄ると、彼らの会話がはっきりと耳に届いた。

「え? お父さんも星を見ながらラーメンを食べてたの?」

 嬉しそうに笑う子どもには、樽前老人の思い出の中でオリオン座について説明していた少年の面影があった。

「そうだよ。ジジが作ったラーメンを、こうやって紙コップに入れてね」

 父親が眼鏡を拭きながら言う。あごには無精髭。体つきこそ中年太りをなんとか回避しているようだが、フェイスラインにはたるみが見え始めている。

 働き盛りの父とまだまだ無邪気な少年が顔を見合わせ笑う。そして一緒に紙コップのラーメンをすすった。

 サエは、その姿を何も言わず眺めていた樽前の隣りに立った。

「巣立っても同じことをしてるなんて、ステキね」

 フフと笑うサエ。

篁は「仲良し家族の典型だな」などと意地悪に言ったが、口もとにのせた笑みはやわらかだった。

その中で樽前だけがこわばった顔をしていた。

「これは、幻影だろうか」

 戸惑った様子でそう言った。

「小さいころだけのイベントだったと言ったろ? それはさ、大きくなるにつれて参加してくれなくなったからなんだ。部活が大事だ、友だちとの約束が先だと。それでも強引に連れていったことがあったから、あいつらにとってはいい思い出なんかじゃないと思っていたんだけどな」

 樽前は苦々しく笑った。

 仕事ばかりの毎日で子どもたちと向き合う時間なんてなくて、それでも夏休みくらいは何かしなければと思い行っていたキャンプ旅行だった。それくらいしか自分にはできないのだと思っていた。

 それすらもいつしか受け入れられなくなると、自分は家族のために―子どもたちのために何かできているんだろうかと考えるようになった。

「わかったよ。現世に未練はなかったけど、気になってはいたんだ。俺は何か残せたのかなって」

 樽前はそう言ってうつむいてしまった。

 心なしか肩が小さく震えて見えた。

「そんなことを気にしていたから、こんなおあつらえ向きのまぼろしを見ているんだろ?」

 もういいよと、樽前は言った。

 もう大丈夫だからと、とても大丈夫だとは思えない声色で言った。

「俺だって馬鹿じゃない。さっきの契約書みたいのに、のぞけるのは本人の思い出だけだって書いてあったのをちゃんと見ている。……これは俺の思い出じゃあない」

 ありがとうと言い残してふたたび立ち去ろうとする。

 だが、彼は食堂の出口にはたどり着かなかった。森の中の景色は彼の前から消えようとしなかった。

「まあ、落ち着きなさいよ」

 そう言って樽前の前に立ったのは篁だった。

「あんたは、死んだ。それで死後の世界には十王審判っていうのがあってね、十人の王様が……まあ、簡単に言うと、あんたが天国に行くべきか地獄に行くべきかお沙汰を下す」

 閻魔大王とか聞いたことあるだろ、と念を押すと樽前は戸惑いながらも頷いた。

 その様子を見届けて篁は続ける。

「その十王の中に、とんでもなくお節介な王がいてね。死者が不利にならないようにと、遺族の記憶までのぞいて、死者の善行を一つでも多く拾ってやろうとするんだ。本当は初江王しょこうおうのお恵みを受けられるのは川を渡ってからなんだけどね」

 篁は呆れたようにため息をこぼした。

 青鬼を使いに出したことでお節介な王様の耳に入ったのだと、そこまで聞くと樽前はようやく何事か悟ったようで、驚き大きく開いた目にはやがてじわりじわりと涙がにじんだ。

「それじゃあ、」

「夢まぼろしなんかじゃないってことさ」

 篁はもう一度ため息をこぼした。

 しかし億劫そうにふるまいながらも、小さく震える樽前の背中をぽんぽんと優しく叩いてやった。

 樽前は今一度、しっかりとキャンプ場の家族を見た。

 少年が名残惜しそうにスープの最後の一滴を飲み干したところだった。彼は空になった紙コップをまじまじと見つめた。

 そして視線を上げると屈託ない笑顔で強く宣言する。

「僕も大きくなったら、お嫁さんとかと一緒にキャンプに来てラーメン食べるよ!」

 それを聞いた父親はまずは驚いてみせたが、すぐに優しい顔つきへと変化する。

 我が子の頭をわしわしとかき回し、かつての少年は嬉しそうに笑った。

「そうだな。もうこれは、樽前家の伝統みたいなものだから、絶対に頼むぞ」

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