8.
***
お湯が沸くのを待つ間、サエと樽前はカウンターを挟んで思い出話に花を咲かせる。
篁はまだふてくされているようで、横目でちらちら様子をうかがいながらも決して会話には入ってこなかった。
「奥さんは長年の経験。娘さんはタイマーを使ってきっちり。下の息子さんはお母さんと一緒で一本食べてみて好みの茹で加減で。あれ? 一番上の息子さんは?」
「つけ麺風にしたり冷やし中華風にしてみたり、ヘンな作り方しかしない奴だったよ」
樽前は思い出し笑った。
「今日は誰の作り方で作ろうかな?」
サエが腕を組み考え込む素振りを見せると樽前はすかさず「家内のやり方で」と言った。このラーメンはそれでなければいけないのだという。
とはいえ、あくまで普通のインスタントラーメンを、普通に作るだけの作業だった。
ぐつぐつとお湯が沸いたら麺を入れる。
触りたくても少しのガマン。
ひたひたと浸みてきたように見えたらひっくり返して一呼吸。そしてようやく箸を入れる。優しくほぐして、また見守る時間。
湯気と一緒に、お世辞にもいいにおいとは言えない油のにおいがにじみ出す。だけどだんだんと麺らしいにおいも立ちのぼってきて、それはもちろん『ラーメン』という完成品のかぐわしいにおいにはほど遠いのだけれど、インスタント麺独特の味わいが思い出されて不意打ちで食欲を刺激した。
サエはゴクリと唾を飲み込んだ。
口の中を麺の風味で満たしたい!
だけどまだガマン。
ここだと思うところで一本だけすくい上げて加減を見る。
麺のみの味気なさに気分は一瞬沈むけれど、それは跳躍の前の『ため』のよう。粉のスープの素を投入すれば、もう飲み干したあとかと錯覚するほどに鼻孔を、体全体を、美味しいエキスの芳香が駆け巡る。そのにおいはお店で食べるようなラーメンのにおいとは明らかに別物で作り物的なのだが、これはこれでたまらなく『旨さ』を感じさせる魅力的なにおいなのだ。
上る湯気を残さず吸い込むくらいの勢いでにおいを堪能したら、サエと樽前は顔を見合わせにんまりと笑った。
なんの変哲もない塩味のインスタントラーメン。付属の切りごまを振りかけてあっというまに完成だ。
「あ! 丼の準備を忘れてた!」
せっかく絶妙な茹で加減だったのにと焦るサエだが、食器棚の前でピタリと動きが止まった。
「どうしたの」
ラーメンのにおいにつられてか、ようやくサエたちの行為に興味を持った篁が声をかける。
「どんぶりが、ない」
サエの顔が青ざめる。
和洋中、あらゆるメニューに対応した食器がそろっているはずのこの食堂から、なぜかラーメンどんぶりだけが忽然と消えていた。
「その代わり、こんなものが」
サエは代わりに置かれていたものを作業台の上に運んだ。
「ああ。それでいいんだよ」
と樽前が笑う。
それは使い捨ての紙コップだった。
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