4.

 小さな小さな青鬼がふたたび食堂に現れたとき、彼はやはり何かしらの書類を抱えていた。

 しかし今度は一枚の紙切れなどではなく複数枚のものであったため、彼はよろよろと倒れそうになりながら篁の前にたどり着いた。

 篁はそれを受け取り簡単な言葉で労うと、書類に書かれていた事柄を淡々と読み上げていった。

 そこに書かれていたのは樽前の生前のこと、そして死に際についてのことだった。

 樽前は、まったくの健康体というわけではなかったが、生涯で重たい病気を患うようなこともなかったし、事故で亡くなるような痛々しい最期を迎えたわけでもなかった。

 ある日の朝、ただ目覚めなかっただけだという。

 平均寿命からいくと若いし、あまりに突然な最期ではあったが、樽前は自分の死に不満はないと言った。

「でもそういう人はここには寄り道しないでまっすぐ三途の川に向かうものよ」

 青鬼にご褒美のお菓子を与えながらサエが言った。

 それでも樽前にはやはり思い当たる節がなくて、代わりに答えを探すように篁がさらに書類を読み進めた。

「子どもや孫と別れるのが辛い?」

「生きてたって年に一度会うかどうかだったからなあ」

 そう言って簡単に首を横に振る。

「それじゃあ、奥さんのことが心配だとか?」

 これには少し考えたが、答えはかわらなかった。

「三人のこどもの誰とも同居しないみたいだけど? それに病気も抱えている。本当に心配じゃない?」

篁の問い詰めるような言いぶりに、樽前ではなくサエが噛みついた。

「そんな言い方したら、逆に気になって川を渡れなくなっちゃうじゃない!」

「そうしたらサエちゃんの出番じゃない」

「そ、そうだけど……」

 自分の出番を作るために不安をけしかけるだなんて気が引ける。そう思いながら、サエはちらりと樽前の様子をうかがった。

「いやいや。女ってもんは強いもんだよ。周りを見ても、亭主が死んだって元気な母さんたちばっかりだ」

 サエの心配をよそに樽前は声を上げて笑った。

 どんなに書類をめくってみても、樽前の表情を曇らせるような事柄は出てこず、最後の一枚の最後の一行を読み終えたところで篁はお手上げのサインを出した。

 サエは複雑な顔をしていた。

 未練がないのは良いことだ。だが納得しないまま彼を見送るのでは、サエ自身に未練が残る。

 どうしたものかと考えあぐねていると、ぐうっと誰かの腹の音が鳴った。樽前の方から聞こえたようだった。

「ありゃ、腹が減ってるわけでもないのに、立派な音が鳴ったな」

 本人が不思議そうに腹をさすったが、確かにそこから音が聞こえた。

「死人が腹を空かせるなんて聞かないよ」

 篁もそう言って訝しがったが、サエだけは待ってましたと言わんばかりに嬉々とした表情を見せた。

「やっぱりここに寄ったのには理由があるのよ! おじいさん、三途の川を渡る前の腹ごしらえはぜひ当店で!」

 立ち上がり樽前にぐいと顔を寄せた。

「そ、それじゃあちょっと食べて行こうかな」

 迫力に気圧されて樽前はこくりと頷いた。しかしいざ注文しようと思っても、メニューのようなものが見当たらない。壁に貼られている、本来は料理の名前でも書かれていそうな短冊にも文字は見当たらないのだ。

「何が食べられるんだろう」

 苦笑いで問いかける樽前に、サエは満面の笑みで答えた。

「この『三途の川のホトリ食堂』はすごいのよ! お客様だけのスペシャル料理をお出しするんだから! 思い出のメニューを作れば、おじいさんがここに立ち寄った理由もきっとわかるはず!」

 そうと決まればと、サエは例の短冊の前に立ち身構えた。

「さあ! 篁さん、早く」

 待ちきれないといった様子で篁を急かす。

 篁は「はいはい」と気のない返事をしながらあらためて鞄の中を探っていた。

 一枚の書類を樽前の目の前に差し出し、長ったらしい説明文のあとの署名欄を指差す。

「はい、ここ。サイン」

「ええと、これは?」

「おじいさんの思い出をのぞくための許可が必要なの」

「俺の思い出? そんなものどうするんだ」

「思い出をのぞいて、おじいさんのためだけのスペシャル料理をつくるのよ!」

「そんなことができるのかい」

「ふふふ。任せといて!」

「なんだかよくわからないが、ここに名前を書けばいいんだな?」

 樽前に戸惑う様子は見られなかった。「何かの縁だ」と流れに身を任せたようでもあったが、それよりはむしろ、これから何が起きるのかと楽しんでいるようだった。

 鼻歌交じりで、樽前が記名する。

 書き終えるなり、篁が書類を手に取った。

 青鬼の時のように何か合図があったのかもしれない。しかしそれは誰にもわからないタイミングで実行されたようで、たった一度の瞬きの間に紙切れはどこかに消えてしまっていた。

直後には篁の右手が何かをつかんでいたような形でとどまっていたが、それが解かれてしまうとなんの名残もなくなってしまう。

 いや。目を凝らしてよく見ると、空中に黒い糸くずのようなものが浮いていた。

 それは樽前の書いた名前そのものだった。彼の筆跡がそのままその場に浮かんでいたのだ。

「死後の世界ってのはすごいな」

 感心しながら樽前が自分の名前に手をのばす。だが指先が触れようとする前に文字はほどけてしまった。

 一本一本の細く短い『線』になってしまった彼の名前は、頼りなく宙を泳ぎ、やがて何も書かれていない短冊にたどり着いた。そこで新たな文字となって彼らの前に現れる。

「ええと、」

 最初に声を発したのはサエだった。

 声を発するなり、すかさず首を傾げる。

「これは困ったなあ」

 腕を組む。

 ふたたびサエは重たい唸り声を響かせることとなった。

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