2.

     ***


「名前は樽前たるまえ、年は七十。二度目の退職もとっくに済ませて、家内と二人静かに暮らしていたんだ」

 四人掛けのテーブル席にサエと向かい合わせて腰かけた樽前は、一言一言をはっきりとした調子で発した。

 年齢から思い描く『老人像』よりはだいぶ若い。

 いや、若いというよりは『くたびれていない』と言うべきか。失礼な表現かもしれないと思いつつも、サエはそう思った。

 渋い色合いの開襟シャツとしっかり折り目のついたスラックスは彼の体の線に比べて幾分かゆったりしていて、老いた肉体というものを想像させたが、けっして悲観的な印象は与えなかった。

「じゃあ、あらためて聞くけど、おじいさんは自分がどうしてここにいるかわかっているの?」

 尋ねるサエに、樽前は穏やかな表情で頷いた。「俺は死んだようだ」と自らの死を自覚し言葉として発した人間とは思えない落ち着きようであった。

「何日か前のことだ。いや、数時間しか経っていないのかもしれない。よくわからないんだが、ちょっと前にヘンな奴らに会ってな。うん。『会って』というか、『そいつらの前に突き出された』というか」

 記憶をたどり、うんうんと頷きながら、樽前老人は続けた。

「偉そうにふんぞり返った奴と、そのまわりに……ありゃ鬼か? まったくおとぎ話や何かでみたようなまんまの、こんな奴がいてさ、」

 両手の人差し指を立てて立派な白髪頭の上に持っていく。

「睨まれるわ、なじられるわ、罵られるわ。それが延々と続いてさ。そりゃあもう、生きた心地がしなかった」

「そりゃそうだ。死んでるんだもの」

 しれっと吐き捨てたたかむらの言葉が樽前の耳に届いていたかはさておき。彼はわははと笑って続けた。

「だけど、あれだな。会社のお偉いさんに怒られている時と一緒でさ、『はい、はい。申し訳ありませんでした!』って頭下げとけばなんとかなるもんでさあ、そのうちあきたのか、ため息ついて『もう行っていい』ってよ」

「十王審判って、そういうもの?」

 との問いはサエから篁へ。

 篁は「さあ」とだけ返してすっかりぬるくなったお茶をすすった。

 それで樽前も自分の喉の渇きに気がついたようで、目の前に置かれていたお茶をぐいっと飲みほした。

「美味しいお茶だね」

 樽前はにんまりと笑った。

「ありがとう。でも、ええと、」

 答えに困るサエの代わりに篁が口もとに笑みをのせながら返す。

「産地もはっきりしない安物だよ」

樽前のものとはまったく違う意地悪な笑い方だ。それはもちろん、老人へのイヤミなどではなく、少女をからかうつもりで吐いた言葉。案の定、サエは敏感に反応してみせた。

「たしかに安物なんだけど、でも篁さんに言われるとなんだか、こう、」

「腹が立つ?」

「うん。なんとかしてやり返したくなる」

 ううっと唸りながら両手の握りこぶしを高く上げたサエ。しかしその握りこぶしが何かしらの行動に出るのを、老人の笑い声が止めた。

「そうじゃない。お茶っ葉の良し悪しなんかじゃないんだ。うん。丁寧に淹れた美味しいお茶だよ。うちのお茶も安物だったけど、ちゃんと美味しかったよ。ああ、でももう飲めないんだな」

 そう言って、空になった湯呑みを両手でしっかりと包み込んだ。

「そうだ。話を続けようか。それでな、なんだかこわい鬼を連れたやつにあっちへいけと言われてな、それでここまで来てみたら、大きな川がある。……あれは三途の川だろ? ってことは、やっぱり俺は死んだんだな」

 樽前は照れたような表情を見せるだけだった。

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