3.

 男は仁山にやまと名乗った。しがないサラリーマンだという。

 五十手前で独り身で、田舎に両親はいるけれど基本的にはひとりだった。

 職場の仲間ともそれほど深い仲ではなく、学生時代の友人たちも、年に一度連絡を取り合うかどうかというくらいで、かといって一人で楽しめる趣味をもっているわけでもなく、本人曰く『本当につまらない人間だ』ということだった。

 仁山は混乱を解消するために、サエの助言に従って食堂を見つけるまでのことをたどりはじめた。

 それは、篁が思わず「今日はもう何回目さ」とこぼしてしまうような話で、つまり、この場所を訪れる人間はだいたい同じようなことを言うのである。

 自分が何処にいるのかわからなくなって、誰ともわからぬ声に川の渡り方を指示されて、そして今に至るのだと。

 そして目の前の川が『三途の川』だと知り、自分の身に起きたことを、全てでないにしろ理解するのだ。

「みんなそうやってここに来て、まあ、大抵はご飯を食べて出発していくよ。そういうわけで。山水瀬を渡る前に腹ごしらえでもいかが?」

 サエが腕まくりをしてみせると、男は困ったような表情を見せた。口も閉じきらず目を泳がせて何か思考を巡らせたのち、まことに言いにくそうに切り出した。

「ここから引き返すということはできないのでしょうか?」

「引き返すというのは、現世にってこと?」

 サエが聞き返すと仁山は真面目な顔で頷いた。それを見てサエと篁は顔を見合わせた。

「だってよく聞くじゃないですか。三途の川まで行ったら、死んだばあちゃんが対岸から『まだ来ちゃだめだ』って。それで目が覚めたら病院でした……みたいな」

 言いながら、仁山の顔色はどんどん青ざめていった。それは、二人の反応が芳しくなかったからであろう。

「難しいですか?」

 仁山の問いにサエは口ごもりながらも答えようとするが。

「難しいんじゃなくて無理だね」

 篁は気遣う素振りも見せず、平然と言ってのけた。

「さっき、ここに来る前に山水瀬を渡るよう言い渡されたと言ったでしょう。それは十王の一人目、泰広王のお沙汰が下されたってこと。十王の審判が始まった証拠さ」

「それはつまり……」

「死の淵を彷徨っているんじゃなく、完全に死んだんだよ、あんたは」

 篁の言いぶりに、サエは目をつり上げて激怒した。

「言い方ってものがあるでしょ!」

 箸やら皿やらを投げつけようと身構えたがそのあとの損害を考えて思いとどまる。やり場のない怒りをどうしてやろうかと悩んだ結果、結局ものに当たった。厨房に積んであった使用済みのおしぼりをぶつけることにしたのだ。

 きれい好きの篁は思いのほか応えたようだった。

 べえっと舌を出してとどめを刺すと、サエは篁を蚊帳の外に追いやって、仁山と話を続けた。

「残念だけど、そういうことなの」

「そうですか」

 仁山は肩を落とした。だがある程度返答について予測はついていたようで、ひどく落胆したという風ではなかった。

 そういった表情は、この三途の川のホトリ食堂ではよく目にするものだったが、それでもサエは仁山のような人間と出会うたび、胸をぎゅうっと締めつけられるような気持ちになった。

 なんとかしたい。

 そう思ってしまうのだ。

「お腹空いてない? なにか作るよ! なんでも作るよ!」

 サエはそう言って勢いよく席を立った。

「食べたいものですか? そうは言っても……そう言われてみれば、こちらに来てからはお腹が空いた覚えがないなあ」

「そうね。そういうものだもの。でも、ここでしっかり食べていけば、川を渡るのも楽チンになるよ」

「本当ですか? それなら、なにか頼もうかなあ」

「よし! 私に任せて!」

「でも、残念ながらなにを食べたいかがわからないんです」

「それも任せてくれて大丈夫!」

 サエは元気よく胸を叩いた。そうして篁の方に視線を送る。

 篁はまだ不機嫌さが残っている様子だったが、「仕方ない」とわざとらしいため息を付け加えて言ってから、一枚の書類と一本のペンを取り出した。

「あんたの思い出を覗くことを許可してくれ」

 さあ書けと、仁山の真向かいに移動して書類を突き出す。

「なんですか?」

「いいから書いて」

 トントンと、署名欄を指で指示しながら急かす。

「でもこれ、文章が難しくて何を承諾するのかまったくわからない――」

「いいから書きな」

 最終的には無理矢理ペンを握らせた。

 言われるがままに名前を記入し拇印まで押してしまった仁山は心配そうな顔で事の行方をうかがっていた

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