風が吹くと桶屋が儲かる世界で。

紫縁

〔第壱章〕箪笥・ミーツ・ガールの物語は斬新ですか?

箪笥が喋ってはいけないのですか?

 筆が、一向に進まぬ。

 

 道具がないのか。そんなことはない。


 私がいま臨している小ぶりの文机にはやや色せてはいるものの、二十マス×二十マス規格の原稿用紙が敷かれており、私の右手には私の敬愛する作家が用いているものと同じ万年筆が握られている。猫をモチーフにした文鎮は原稿用紙の両端をしっかり押さえており、その脇に控えさせたオー・ド・トワレの香水瓶の中にはペン先を浸すためのインクがたっぷりと詰まっている。


 では気分が乗らないのか。そんなことはない。この数日、私は血に飢えた獣のごと、執筆の欲に飢えている。部屋は窓から差し込む春先の陽気にあふれ、座椅子に着いた私の視線の先では物干し竿の端に掛けておいたタオルケットがちらちらと挑発的に翻っている。

 背後の柱時計がぼーん、と、正午の鐘を鳴らした。時間もまた、腐るほどある。


 本来であれば机に敷かれた白紙の原稿用紙など筆一閃いっせん、鮮やかな墨色に染め上げることなど容易い環境であるはずなのだ。


 そう、本来であれば。


「先生」


 ところで、六畳一間の我が仮住まいには、必要最低限の家具一式しか揃えていない。それは私がいま面している文机と座るにはやや固い座椅子、卓袱台ちゃぶだいのたった三点に過ぎぬが、私にとってはこれが生きるための必要十分なのである。


 しかしながら、つい先日、我が仮住まいに新たな家具がやって来た。


 忘れもしない四月一日の出来事である。私が出先から帰って来たとき、見覚えのない箪笥たんすが私の住まいの一角を占拠していた。

 三尺五寸ほどの小柄な、観音開きの扉と抽斗ひきだしが付いた一般的な桐製の和箪笥である。


「絶筆の御覚悟は出来上がりましたか」


 この箪笥が、よく喋る。

 筆が乗らぬ原因の全てはこの桐箪笥にあった。悲しいかな、四月馬鹿の悪戯だというような連絡はいまだ私の元には届いていない。


「――声はすれども姿は見えぬ。君は、といったところか」


「流石は先生。『山家鳥虫歌さんかちょうちゅうか』の一節でございますね」


であったならば風情があったものを」


「生憎、人間様のような風情は持ち併せておりませぬ故……如何でございますか、筆を置く心積りの程は」

「ない」


 私はすっぱりと言い切って、万年筆を握り締めたまま我が右方に佇む桐箪笥に向き合った。何の変哲もない家具から、如何なる仕組みで若い男の声が聞こえてくるのか。


「いい加減、そこから出てきたらどうなのだ」

「それは叶いません」

「ならば引っ張り出すまでだ」

「残念ながら、それも叶いません」

「なぜだ」

「何度も申し上げました通り、手前は逃げも隠れもしていないからでございます」


 ふん、と私はわざとらしく鼻を鳴らしてみせた。このやり取りはこれまで幾度も繰り返されてきたものだ。「手前」と自称する桐箪笥は、自身が本当に桐箪笥そのものであると言ってはばからない。


 私だってそんな訳の分からない主張をああそうですかと鵜呑うのみにするほどの馬鹿ではないので、桐箪笥が届いたその日のうちに抵抗を示す彼(?)の言葉にも耳を貸さず、その観音扉を開け放ってやった。


 中には、確かに誰もいなかった。しかし人間が隠れているのでなければ、どこかにマイクの類が仕込まれているに違いない。私が躍起になって箪笥の中に広がる空洞を眺め回しているうち、それまで「お止し下さい! 破廉恥ハレンチな!」と悲痛な声で叫んでいた桐箪笥がついには「これではもう嫁入り道具になれぬ……」などと訳の分からない文句と共にシクシクと情けない声で泣き始めるものだから、こちらもなんだかかわいそうになって、以来、そのままにしている。



 阿呆か。

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