一年前
結城は一人外を歩き、買い出しを済ませつつ自宅へと戻っていた。日暮は冷凍ピザがお気に入りのようで、最近はピザをねだることが多かった。コンビニで冷凍ピザを数枚と、アイス、そして飲み物を買いつつ冬の風を逆らっていた。
「そういえば……」
店の前で立ち止まった。そこは雑貨を売っている小さな店で、窓ガラス越しには動物の人形や動物が描かれた食器などが置かれている。
イルカの人形も眠っている。
日暮はイルカの人形が好きだった。眠る時はいつも横に置いて落ち着くようにも見えた、あんな寝顔を見ると――こちらまで笑みがこぼれてしまった。
そう思っていると、結城は我に返る。
「ちょっとあの子に依存しすぎているかもしれないな」
あの子はカエデでもない、自分の子でもない。
いつか、いつかは……と思っている内に、すでに一週間は経とうとしている。まるで捨て猫を拾って、野生の世界に帰せない動物学者みたいだ。名前をつけると愛着は湧く、天女のような女と別れてから一人だったから尚更かもしれないが、いつしかは朝陽を自分の物にしてしまおうと言う気があるのかもしれない。
そんな今に甘えている。
すこし寄り道しようと駅前のショッピングモール施設へと足を向け、子供が好きそうな玩具屋や、雑貨店などを見て回った。しかしなかなか見つかる物ではなく、小一時間も掛かって店を巡ったが無駄足になってしまう。
――まあ、また今度にすりゃあいいか
結城は自宅へと向かった。雪が降っている中、日暮と同じくらいの子供たちが走り回っている。本来なら日暮だってはしゃいで、友達と走り回っていたのだろうと思うと胸が痛くなる。
あまり外に出たがらないミハルを連れて、公園や川沿いを歩いてもいいかもしれない。本人は嫌がるかもしれないが少しくらいは外の世界を知るべきだ。走り回っているところも見てみたいものだ、風になった子供はきっと誰よりも速い。
結城は歩きながらそんなことを考え、ようやく自宅のビルまでたどり着いた。一階の喫茶店から数人ほど客が出て行くのを横目に脇の階段を昇ろうとした時、ふと、誰かに見られているような気がして立ち止まった。
「こんにちは」
結城の視線の先に女が立っていた。長い髪を結び、背中に垂らした細身の女、化粧をしており距離が離れているにも関わらず香水の匂いが彼女からだと分かった。
彼女はにこやかに笑って歩いてくる。
「こんにちは」
どうかしましたか――と言おうとした時、結城はコンビニで買った袋を落としていた。
まず、衝撃があった。
どすり、といった音には誰かの腕と何かの先端、そして内臓を抉るような鋭い痛みが含まれていた。一体何が起きたのか、理解はすぐに出来た。
「あなたが、娘を……奪ったのね」
誰が奪うかと思ったが、思考はどこまでも冷静だった。
耳元に入り込んでくるその女の声、聞き覚えも無いし刺される理由も無い。しかしすぐに誰なのかを理解した。朝陽の母親だ。ここまでどうやって調べたのかは知らないが、わざわざ自宅の前で待ち伏せてどこで隠していたのかナイフを持ってきて殺しに来たのだ。
「死ね」
やけに香水の匂いがきつく、そのせいなのか頭がくらりとして視界が反転した。一瞬で刃物が引き抜かれたと思うと自分の血であろうか赤い水滴が視界を横切って地面に広がった。
結城は仰向けになって倒れ、灰色の空が映る。
「よくも……よくも私たちの娘を」
女の冷たい目、ああ、確かに女ってこういう一面あるよな、と思った。明るいと見せかけて、ひっくり返せば冷酷だ。だが刺されるほどの恨みを買った覚えはなかったように思う。
女は執着と怨念の塊のような目線を結城に向けた。
「娘を返してもらうわ」
「は……」
思わず笑うしかなかった。散々拷問じみたことを子供にやっといて、好き勝手遊び道具にした少女を今更娘と言うのだから、腹を抱えて笑ってやりたかった。
「なにを笑ってるの? きもちわるい。そうやってあの子を抱いたの? 最高に気持ち良かったでしょうね。でもね、あの子は私たちのモノ。貴方のモノじゃないわ」
その言葉に結城の頭は真っ白になった。
「誰のモノでもねえだろうが!」
今すぐ立ち上がってこの女を刺し殺してやりたい、殴って、海にでも放り投げれば朝陽は本当に朝を見る事が出来る。こんな親の勝手で陰に隠れて、めそめそ泣いて、苦しいとも言えないような朝陽を見たくない。カエデだってそうだ、太陽を浴びたかったはずだ。しかし、なんの運命か一生朝日を拝めなくなった。朝陽もカエデも暗がりを好み、一生朝日を知らないまま生きてしまう。
身体に力を籠め起き上がろうとしたが、全身に力を入れる速度と血が溢れる勢いは止まらなかった。女はもう一度ナイフを振りかざそうと準備をしていた、体勢を硬く引き締め、何時でも刺せるようにしている。凶器を用意しながら、刺す方法をずっと考えてきたのだろう。
「おじさん」
その声は朝陽だった。
階段を下りて、呆然と突っ立っている朝陽はこの状況を理解出来ていなかった。タイミングが悪すぎる。どうしてここで結城が倒れているのか、そして母親がナイフを持っているのか困惑した表情で見まわしている。
「探したわよ、日暮」
結城は悟ってしまった。
ああ、どうやらお別れの様だ、諦めてはいけないはずなのに母親を見た朝陽はもう――陰に隠れる日暮だった。彼女は項垂れ、どうしようもなく身を投げ出そうと言わんばかりに脱力している。
一度手放したものは取り戻せない、取り返せない。カエデだってそうだったように、天女のような女も離れた。全員、結城の所から離れて行った。
青ざめた顔なんて見た事がなかった、諦めたように結城を見た日暮は困惑し身体を震わせている反面、どこか耳を塞ぎたそうにしていた。
見ていればわかる、ほんの一週間程度でも彼女のほんの些細な気持ちくらい。
「――……どう……した……?」
喉が潰れてしまったのか声が出ない。
日暮の目の前にいるのは――母親。そして持っているナイフに見た事も無い色をした血液がべっとりと付着している。
「日暮……」
口端から血が零れながら、結城が手招きをする。どうしていいのかも分からず、日暮は結城の前に近づいてしゃがみこんだ。
それでも結城は笑った。腹の傷も抑えず手を伸ばす。日暮が持ってきていたのか、イルカの人形が少しずつ血に染まって、まるで怪我を負ってしまっている。
「うるさい、か……? 耳、ふさいで……やる、から……」
日暮は荒い呼吸を上げながら首をぶんぶん振った。そんなに振ったら首外れちまうぞ、と冗談も言えない。身体が冷えて行く中、喉がおかしくなっても日暮に言った。
「おいで、世界はうるさいだろ……?」
「だめ……」
「おいで、日暮」
「やだ」
結城の手が日暮の両耳を塞いだ。
うるさかったはずの音が一瞬で静かになる――まるで、心臓が止まったようだった。出来るだけ強く押さえつけて、もう何も聞こえないようにすると日暮は血の気を失って揺さぶった。
「やだ、やだよ。おじさん、こんな静かなの、いやだ、おじさん、おじさん」
今更静かになるのが怖いなんて、変な奴だ。
何も聞こえない。おじさんの声もいつも一緒にいてくれた優しい人の声が遠ざかっていく。嫌だと首を振っても、目の前の結城は笑うだけだった。これから死ぬような顔ではない、何故か嬉しそうで愛しい眼差しだ。
「おじさん、おじさん……」
後ろにいた女――日暮の母親が鼻で笑う。
「ずっと探してたのよ……こんな男を相手にしてたのね」
「どう、して……」
「金を積めばあんたなんてどこにいたって探せるのよ」
母親に腕を掴まれ、無理矢理立ち上がらせようとするのを抵抗した。しかし、女の力がありまに強くどうしようもできなかった。
「離して」
「何抵抗してんのよ! あの久万のジジイが変な事吹き込んだのね!」
「やだ、おじさんが」
「やめろ」
結城の手が離れ、力なく落ちて行く。日暮の頬に熱い痛みが走った、思い切り殴られたのが本当に久しぶりで重い涙がぼろぼろ落ちても結城のところに向かおうとした。もう来るなとは言えない、でも言いたい。言わなきゃこの子が傷つく、でも離れても傷つく。
日暮は母親の腕に噛みつき、緩んだところで自由になるとおじさんのところに抱き付いて叫んだ。微かに息をしていることが分かって、更に胸が痛くなった。これが悲しいということで、つらいということだ。なあ、日暮、お前はようやくその感情を――知る事が出来たのか?
「ごめんなさい……全部、ぜんぶ、私のせい。わたしが、おじさんに甘たから、自分自身を許してしまったから――許して、離れたくないと思ってしまった私をゆるして、凪正おじさん……」
呂律が回らず何を言っているかもわからないまま、朝陽は腹を蹴られたと思うと無理やり引きずられた。手を伸ばしたが全てが遅く、結城はようやく痛みを感じることは無くなっていった。
意識が薄れ、目の前が真っ暗になりつつある。どこかで悲鳴が聞こえ、サイレンが鳴って、結城の周りに人だかりが出来ていく。
なんて言ったか覚えていない、お前はそれでよかったのかなんてことを思ってつい安心してしまうと、もう意識はどこかに消えて落ちる。不意に視線の隅に黒い何かが覗き込んでいた。
身体は知らないどこかに横たわっている。
夜色の身体、黄金の瞳。
ゆらゆらと輪郭が歪み続けながら、獣はこう言った。
「コップに水が入っているとしましょう、コップにギリギリの水が満たされていて、そこに一滴の水滴が落ちて来たらどうなると思います?」
いきなり問う獣は闇の底から引きずり出すような声がした。結城は言えているかどうかは分からないがなんとか声を絞り出した。
「……零れるだろうな」
「その零れたもの、それがわたくしです」
それは言葉をつづけた。
「わたくしが生まれた要因、それは貴方にもあります。彼女にとって、貴方は大きな存在であり、害だったのです」
「どういうことだ」
「彼女は常にコップにぎりぎりの水が入ったまま生きています。感情はそうやって満たされていました。感情は量なのです。そして、貴方が感情を一滴、与えたのです。結果、貴方のお陰でわたくしは生まれたのです」
「そうなった理由は何だ? どうして、どうしてあの子は壊れた」
「貴方が耳を塞いだからです」
夜犬はすっと煙のように消えて行った。気づけば周囲の声、そして遠くで聞こえるサイレンが近づいてくると、ようやく腹の傷を押えたが血の匂いがどんどん強くなった。
結城は静かに目を閉じた。
それでも生きろと言うのだから、生きなきゃ。
復讐をしろと言うなら、復讐をしてやりたい。
それでも無抵抗で、銃弾が入っていない鉛を抱えるぼくたちは、
やはり火星がお似合いだ。
火星倶楽部
結城凪正に捧げる物語 vol.1火星倶楽部 文月文人 @humiduki727
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