現在
喫茶店を出た後、自宅に戻ろうとして階段を昇ると事務所の前の扉に立っていた中条と出くわした。
「どこに行っていた? 連絡したが出なかった」
「火星倶楽部の一人に会ってきた」
結城は先ほど副部長と話した内容を自宅に戻りながら話した、リビングには朝日の姿はおらず寝室の扉は閉め切ったままだった。まだ眠っているのだろう。
中条は昼休みの時間を削ってまでここに来た、朝陽の様子も気になっていのでケーキを持って来たそうだ。しかし朝陽がケーキを食べた事があるのか、好きかどうかも分からない。
「問題はその部長だが、副部長自身も分からなかった。悪いな、収穫はなかったよ」
「いや、いい。こちらも分かった事がある。稲雲さんの事だが、今病院で意識不明だそうだ」
「そうか」
「どうやら、突然誰かに刺されたらしい」
思わず笑ってしまった、一体どんな刺され方をしたのだろう、自分の娘に刺されましたって言えばよかったのに。
「笑いごとじゃないぞ、もし起きたらどうする。また朝陽ちゃんを探しに来るかも」
「起きないでくれることを祈るけどな」
「結城……」
「平気で子供を殴りつける親の肩を持つのか?」
「持たないけど、それでも相手は人だ、そうだろ。どんなことであれ死んでしまうのは良い事じゃない」
どこか堅苦しい中条に対し、結城は無造作に身体をソファに落とした。ケーキを冷蔵庫に仕舞い、溜息を吐きながら中条は足を組むと重々しく口を開く。
「不思議だ」
「何が?」
「俺たちは今の今まで夜犬なんかに視点を向けてはいなかった、しかし今、こうして夜犬を追いかけている。いつ現れるのかもわからない怪奇現象、または幻覚に囚われている」
中条は服の裏から折りたたんだ書類のような紙の束を広げた。
「火星倶楽部の奥付、メールアドレスと印刷所があっただろ。そこの印刷所に尋ねたところ、アドレスを教えてくれてそこから住所も特定した。恐らくそこが火星倶楽部の部長が住んでいる住所、だと思う」
「ほう、で、誰なんだ」
「それがな、一人暮らしをしている老人なんだ。そんな老人がこんなものを書くと思うか?」
「火星倶楽部のメンバーかもしれない」
可能性はゼロではない、副部長が曰く火星倶楽部はチャットで知り合ったのだから、学生だって社会人だって十分考えられる話だ。
「久万というご老人だ。すぐに会いに行ったが――アドレスを使われたのかもしれないと言っていた、パソコンは最近使っておらず棚にしまったままらしい」
「パソコンは確認したか?」
「一応回収はしている」
中条は深々と頷いた。
「ほかに何か気になることはなかったのか?」
「パソコンの横にイルカの人形が置いてあったのが妙だとは思った、一人暮らしには不要だろう?」
結城は一年前、朝陽にイルカの人形を渡したことを思い出した。あの人形は、もともとはカエデのために買ったもの、ただのイルカの人形だが――今はどこにあるのか思い出せない。
あのイルカは、一年前朝陽が持ち帰ったのか。
身体中の血液が凍るような思いがした、どうして、どうしてここでそんなことを思い出すのだろうか。
「そのイルカの人形だが……どんな形か覚えているか?」
「青い身体をしていて、目は閉じてた。眠っているイルカだ」
何故だ。
眠っているイルカの人形など、そうは存在しないだろう。
心臓の音が鼓膜を突き破るくらいに騒がしくなる。
「結城? どうした」
突然、腹に重い痛みが走った。それは昔の傷、治っているはずなのに痛みで眠れなかったこともあった深い傷は再び蘇ったように結城は腹を抑えた。激痛と眩暈、息が出来なかったあの冬、寒くて冷たくなって、あたりが一瞬無音になった。副部長が言っていたメッセージならば誰かに伝える意思がある、それは無造作にいる人々に向けた物ではない、結城自身にあてられた復讐なのかもしれない。
「結城。どうした、結城」
中条の声が聞こえるが、反応出来ない。視界は既に真っ白で、次第に血の匂いが漂ってきた。思い出さなければいけないことを、思い出さないと、あの時、視点が違っていたらと思うと、どれだけ自分が救えたことか、朝陽に陰を作らずに済んだのに。
結城は崩れるようにしてその場でうずくまった。
「そうだ見たいテレビがあった。ああ、そうか、火星にテレビなんて無いのか」
火星倶楽部 引用
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