一年前

 日暮は少しずつこの家にいることに慣れているように思えた。最初はどこの子供かもわからず、とばっちりに思えたが日暮も結城もすれ違いながらも少しずつすり合わせて行くように馴染んでいた。

 そして日暮と会話が増えた。好き嫌い、暑い寒いがちゃんと言えるようになって数日、ようやくかと結城は本当に安心した。徐々にではあるが、生気を取り戻している。ついこの前まで見た生きたゾンビが嘘のよう。草壁も定期的に見に来てくれるが、個室で何をされたのか、日暮は草壁を嫌っているようだった。草壁は特に何もしていないと言っているが、多分嘘だと思う。それでも、彼女が意思表示をはっきり出来たのは大きな進歩だと言える。

「やっぱりお前に任せて正解だったよ」

 と、事務所の外で様子を見に来た中条が言う。

 否定も文句も言わず、黙って煙草を吸おうと箱を取り出して、日暮が事務所の中にいることを思い出しすぐに仕舞った。最近外でも関係なく癖になって、煙草をすぐにポケットに突っ込む。

「女の子のために禁煙とは良い心がけだな、結城」

「中条クンも一緒に住んでみるかい? 一緒に禁煙頑張ろう」

「結構。僕は独身がいい。誰かと暮らすのは苦手だよ」

 中条は昔からずっと独身であることを望み、そして誇りに感じている節があった。今時珍しいのか、誰かと一緒にいるよりも一人を愛している。結城とは正反対の男なのに、どこか気が合うのだから不思議だ。

「日暮ちゃんの事だけど、一応身元を調べてみた。隣町の署に知り合いがいてね……どうやら、彼女はとても有名な心理学者の元で産まれたお嬢様のようだ」

「お嬢様がこんなボロボロの家で満足するかな」

 と、苦笑いしたが心の中では驚きと困惑で混ざり合っていた。金持ち生まれの女の子が、こんな境遇に陥るなどあまりに想像しがたいと思った。しかし中条はつられて笑いもせずに続ける。

「稲雲日暮、それが彼女の本名。稲雲先生って言えば、あの山のふもとに住んでいる先生だねってわかるくらい、それだけ隣町では有名な人だ」

 結城は稲雲という名前に聞き覚えが無かった。

 そして同時に心の隅に奇妙な感情が湧いた、そいつらが日暮を酷い目に遭わせた張本人でもあるのだ。

「へえ、そんな有名な先生の娘が失踪したら大事なんじゃないか?」

「それがな、娘がいるってことはひた隠しにしているようだ、聞いたそいつも娘がいることは知っていたがどんな娘で、顔も名前もよく知らないという」

「隠し子とでも言うのか?」

「そうだったらまだいいよ、どうもその先生は数年前引退してそれからは個人的に研究しているらしい」

「何を研究しているんだ?」

「感情測定、だそうだ」

 中条は煙草を取り出して、先端に火を点けると街に向けて煙を吐いた。そんな学者である両親が日暮に虐待をするというのもあまり信じられない話だ。だが日暮が嘘をつくはずもなく、身体中の傷が証拠だろう。

 この時、結城の心の中には日暮を想いたいという気持ちが勝っていた。拾った猫に愛着がわいてしまったのと同じ気持ちで日暮をまさに――自分の娘の様に思ってしまっている自分がいた。

 自惚れか、甘えなのか日暮は自分の娘ではなくあくまで他人なのに、どこからそんな感情が湧いてくる。

「なんにせよ、日暮ちゃんを探しているかもしれないな」

 中条は煙草を灰皿ケースに詰め込んでから、ふらりと階段を下りて行った。

「また来るよ。今度は日暮ちゃんの好きな物聞いといてくれ」

「分かった」

 結城は階段を昇り、三階の自宅へ行くと扉を開けた。するとリビングのソファに腰掛けテレビを見ていた日暮が振り返っていた。服は相変わらず大きくて、更に身体が小さく見えつつ勇気も靴を脱いで日暮の隣に座る。テレビはバラエティ番組で、どこかの有名なレストランのシェフがスタジオでタレントらに料理を紹介しているところだった。

 日暮はテレビ画面を見つめていた。聴覚過敏を持っていながらも今は落ち着いているらしく膝を抱え、動く映像を静かに追いかけている。

「面白いか?」

「あんまり」

 タレントが料理を試食して美味しいと甲高い声で称賛する。視聴者を笑わせているが、見ている日暮はつまらなそうに眺めていた。家でもテレビを見ていた事があるのか、あまり質問しづらい空気を纏っている日暮はふとこちらを見上げた。

「おじさんは私を殴るかと思った」

 話の筋道が全然掴めず、日暮の瞳に吸い込まれるように座ったまま動けなくなった。

「でも、何故か殴らなくて。どうしていいか分からなくなった」

「普通、人は誰かを殴ったり、怪我を負わせたりはしない」

「振ってみようとは、思わないの」

 耳を疑った。

「……なんだって?」

「殴ってみたい、って思わないかって」

 自分自身が幼い子供、もっと言うなら無抵抗で、無防備な少女に乱暴をしてみたいかという質問を向けられている。

 結城は考えてみた、強姦や性的暴行などを加えたことは一度も無いし、合意の無い行為もいまいちだ。そもそも異性と夜を過ごしたのは天女のような女くらいなもので日暮を性的な目を向けた事など無かった。

「お前はマゾなのか?」

「マゾ」

「殴られたりすると気持ちがいいのかってことだ」

 日暮は目を伏せ、テレビ画面をぼんやりと見た。もう料理を食べ終え、次の話題へと移っていく番組はエンディングへと向かいつつある。

「どうだろう……考えた事、無かった」

 そう言って日暮は耳を塞いだので、結城はいつもの様に日暮の耳に触れるとそのまま包み込む。冷たい耳たぶが手のひらにあると分かるとちょっとだけくすぐった。

「っ、へ、へんな感じ」

「嫌か?」

「……わかんない」

「気持ちに正直になってみたらどうだ。好きか、嫌かくらい言ってくれ」

「変かもしれない、もしかしたら、わたしの言ってることは頭がおかしくて……」

「そりゃあ聞いてみないと分からない、でも言ってくれたらわかる」

 意地悪く言ってみると、日暮は――顔を赤くした。どこか震えているようにも見えた、こうして親の前で怯え、口を開くのさえも億劫になってしまうのだろう。

 日暮は唇を噛みしめる様にして顔を上げた。

「う、嬉しい。と、思う」

「嬉しい?」

「周囲はあまりにうるさくて、耳が痛くなるくらい嫌な音ばかりなのに……おじさんの側は、静かで落ち着く」

「……」

「おじさん?」

「え、あ、ああ……」

 日暮が初めて笑った。ぎこちなくて、造られたばかりのような堅苦しさはあるものの、一生懸命に見せてくれた表情は結城の娘でもないのに嬉しくなった。こんな気持ちは何時以来だろう、カエデが死んでから子供に近づくことも話しかけることも無かったのに、日暮を見ていると辛かった記憶を忘れそうになる。

「なにか、変な事言った」

「可愛い奴だなって思った」

「どういうこと?」

「俺もきっと娘を持ったら、こんな気持ちになっただろうなってことさ」

 日暮から離れると、いつの間にかバラエティ番組は終わっていて次の番組が始まっていた。床に落ちていたリモコンでテレビの電源を落とし、日暮を見ると眠そうに目を擦っているので寝室へと連れていった。

「少し眠った方が良いな……あ、そうだ」

 寝室のクローゼットを開けると、収納ケースを開けた。もう数年以上も開かれていない箱の中には小さな人形があった。取り出すと他の物で潰れていたため、埃をはたき広げた。

 青い体に黒い目をしたイルカの人形だ。肌触りが良く、サイズも丁度いいかと思ってカエデの為に買った物だった。結局はあげることもできず、捨てようかと思った物で半年前程天女のような女が郵送で送ってきたのである。

 どうしてあの女がいきなりこの人形を箱に詰めて、この家まで送ってきたのかは分からないがとりあえず収納ケースに仕舞ったままだったのを思い出した。

「日暮、これをやるよ」

「なに」

「寂しいと思ったら嫌だろ」

 日暮は仰向けになった身体を起こし、イルカの人形を受け取ると不思議そうにイルカの顔を覗き込む。

「寂しくない。おじさんがいるよ」

「子供には人形が必要だって時があるんだ」

「そうなのかな」

 人形を抱きしめると、イルカの頭に顔をうずめた。埃臭いかもと日暮は少し嫌な顔をしたがすぐにふわりと笑う。見た目は中学生程ではあるが、中身は世界も世間も、愛情も知らない子供のままなのだ。

「それ抱いて寝てみろ、きっといい夢が見れる」

「おじさんも」

 結城は苦笑しながらネクタイを外し、シャツのボタンを一つだけ外すとベッドの中に潜り込んだ。せっかく人形を渡したのに、これでは意味が無い。イルカはベッドの壁際に置かれ、眼前に小さな日暮がいる。

「おじさん、本当に冷たいね」

 日暮が言った。

 否定も肯定もせずに、心の中で「ああ、そうかもな」と思った。今まで誰にも言われなかったのに、ある意味、価値をつけられた気がした。

三十年近く生きてきて、自分は一体どうして生きなければいけないのかずっと考えてきた。朝起きて、ご飯を食べて陽の光を浴びながら、夕方になるのを待って夕飯を食べてから風呂に入って寝るだけの生活だった。カエデが死んでからはかなり荒んで、酒や煙草に熱中したこともあった、適当な女を捕まえてベッドに押し倒そうと想像したこともあった。今ではもう、過去の事になったが――天女のような女も冷たいと思っていたのかは分からない。

「どうしておじさんは笑うの」

「笑ってない、いつもこんな顔だ」

「凄く好き」

 好きと言われて悪い気はしないのに、どこか皮肉めいたものを感じた。生を捨て、世から離れ、寒気を含んだ瞳が結城には怖いと思った。だが――今は日暮の指す冷たさに感謝をしていた。

「それは告白ということか?」

「ほんとうのことを言っただけだよ」

 結城は驚いたが、何も言わずに目を閉じた。日暮のために何が出来るのか、自分はカエデを重ねている――そう思っていてもなお、日暮を我が子のようにして抱き寄せ日暮の匂いを感じた。

「もう日暮って名前、止めちまえ。子供が陰に居ても何一つとしていいことがない。だから、朝陽って呼びたい」

 


「ああ! つまんないの! どうしてこんな事ばっかり! もうちょっとさ、考えてみない? だってぼくたち一人なんだよ? もうどんな束縛も受けない自由な子供なんだよ? どうしてもっと楽な生き方をしようとしないの? どうして帰ろうよなんて言うの? どうせ帰る場所なんて無いのに、どこに帰るの? 帰ったら地獄、ここにいると孤独ならさ! 孤独の方がマシだと思わない? ねえ?」

火星倶楽部 より






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