現在

 次の日、ソファの上で目が覚めると、寝室の扉をゆっくりと開けた。そこには半分身体を起こした朝陽がじっとこちらを見つめている。いつから目が覚めていたのか、それともずっと起きていたのかもしれない。

「おはようさん。眠れたか?」

 朝陽は声も出さずに、すっと下を向いた。一年前と変わらない、いつもの癖が今にもこうして見えてしまうとまるで一年前から時間が動いていないと思わせる。

 昔、どうして下を向くんだと聞いた事があるが結局答えてはくれなかった。元々無口な性格だ、内気であることは察しがついたが、結城は一年前出会い、ほんの数日過ごしただけで本当のところは朝陽の事は何も知らないのだ。

「今日、少し外に出る。午後には戻ると思うが……お前はどうする」

 朝陽は無表情だが、何か思うところがあるようで眉をほんの少しだけ動かした。

「もし何かあったら、一階にいる志波さんに声かけな。昼飯は冷蔵庫にあるピザを焼いて……って、トースターの使い方、教えたよな? 覚えてるか?」

「うん」

「なあ」

 朝陽は視線をそらさずに真っすぐ見てくる。

「なに」

「いや……」

 なんでもないと言って、そのまま寝室の扉を閉めてから外出の準備をした。

 結城はまだ朝陽と出会ったことに信じられなかった。結城の服を貸した朝陽は一年前も同様に服を着て、死んだように眠っていたような気がする。だがこうしてこの家にいることが一年前から変わらずそこにあったように、既視感とズレが混ざり合っている。

 中条の連絡によれば、朝陽の母親を刺したことについては連絡や情報は出回っていないらしい。なので、生死不明だが、病院に行ったかもしれない、もう少し詳しく知る必要があるだろうとすぐに電話を切った。夜犬騒ぎで忙しいというのに、中条も苦労が絶えないと思いつつ、服を脱いでソファに投げ捨て、クリーニングもしていないままの皺の多いスーツとズボンを拾ってさっさと履いた。

 二人目が死んだと聞いて、すぐに調べると相手は女性だった。女性には家族がいて、その娘にあたる人。それ以外やはり狙われるべき理由も怪しい点も無く、ただただ偶然の産物――いや、火星倶楽部を持っていたがために狙われてしまったのだ。

 一体なんだと言うのだ? たかだが、ただの作り物。素人が書いた小説には呪いでも掛けられているのか? 

 そんなことを考えつつ、今日は火星倶楽部の作者に会いに行く。

 先日メールを送った後、そのアドレスから返信が来たのだ。返信内容は「駅前の喫茶店、コーヒーフロートを注文」とたった一文しか書いてはいなかった。どうやらこの街に住んでいるらしい、その駅も結城の自宅から最寄りの駅だった。

 自宅の扉を開けて鍵を閉めると目的地へと向かった、立地条件の良いこの建物は駅からはそれなりに歩くが決して遠くない距離だった。橋を渡り、河川敷で暮らすホームレスに挨拶をしつつ商店街の中を縫うように歩いていくと、人と車が散らばったように見えてくる。

 結城は喫茶店の扉を開ける。

 明るい声でいらっしゃいませ、と聞こえた。店員に二人だと言ってから広めの席に案内される。結城は喫茶店の存在を知らなかった。駅前とはいえ、建物が多く並んでいるのでひっそりとたたずむような一軒家の店を知らず、案外雰囲気は落ちつける場所だ。

「コーヒーフロートをひとつ」

 何故この飲み物なのかは知らないが、言われたまま注文すると店員はお辞儀をしてから厨房の奥へと消えて行った。客の数も少なく、若いサラリーマンや私服を綺麗に着こなした老人が各々の時間を楽しんでいる。結城は煙草を吸おうとしたが、ここは全席禁煙だと知り少し肩が落ちた。

 二人目が死んだのは白昼堂々、商店街を歩いていた大学生の女性だった。首を噛みつかれ、そのまま多量出血で死んだ。鞄の中にはもちろんあの小説が入っていた。人が多い時間帯だったので、目撃者は多数。夜犬は朝も夜も関係なしに行動を始めたのだ、皆は一斉に外出を控え始め、ラジオ、新聞、テレビまでもがこぞって夜犬の実態に迫ろうと躍起になっている。

 もちろん、警察も大慌てで今更になってパトロールを強化したと中条は呆れながら電話をして来た。中条は事件の方を追いかけているが、頓挫し、今にも倒れそうだとこぼしつつ、火星倶楽部の作者にもメールをしたが返信は無かったらしい。

 それで、こうして結城は火星倶楽部の作者に会おうとここで待っている訳だが、どうして警察ではなくこちらを選んだのかが不思議だ。まあ、どちらにせよ待っていればすべてが分かるのだから、気長に待てばいいだろう。

コーヒーフロートが来てスプーンを手にアイスを削ろうとした時だった。

「あなたがメールを送った人ですか」

 顔を上げると、若い学生がいた。高価な日本人形のような顔立ちに、真っ黒な髪を切りそろえ青いフレームの眼鏡をかけている。学生だと分かったのは街にある公立高校の制服を着ていたからだ。

「すみません、ちゃんとした格好が分からなくて学生服しかありませんでした」

「いや、いい。気にしないよ」

 女子高生は緩やかに破顔し、席に座った。店員が来て、注文を尋ねると女子高生はアイスティーと言った。小さな口が出る言葉の数々に妙な違和感を覚えながらも、結城は溶けているアイスを眺め、そして前を向いた。

「来てくれてありがとう、メールでも名乗ったと思うが改めて。俺の名は結城凪正」

「凪正、というのはどういう字を書くんですか?」

「正しい凪で、凪正」

「不思議な名前ですね、誰がつけたんですか?」

 結城は少し考えて、

「おそらく両親だが、直接聞いたことは無い。あまり話をしなかった」

「じゃあどんなことを話しているんですか?」

 女子高生は不思議そうに尋ねる。

「隣の家が飼っている犬が吠えてうるさいなとか、屋根の雪かきを誰がやるかやらないかとか……どうしてそんなことが気になった?」

「家族って家族の話をするものだと思ったので」

「じゃあ聞いてもいいかな」

「はい」

「君の名前は?」

 女子高生は深々と頭を下げた。他の人では見られない誠意が籠った、とても綺麗な礼だった。

「名前はすみませんが……お答えは出来ません。なので、副部長と呼んでいただければ」

 女子高生は目元にあった黒髪を払い、眼鏡をかけなおしてから背筋をきゅっと伸ばした。

 子供の遊びに付き合えとでも言うのか女子高生――副部長は真面目な顔をして言った。

「分かった、じゃあ副部長。どうして会おうと思った? メールは沢山来ていただろう」

 女子校生前にアイスティーが置かれ、ガムシロップとストローも用意されると店員は去っていく。

「メールが沢山くる中、貴方の文章に感じるものがあました。言うならば、他の方のメールよりも視点が違ったと感じました。一度部員で話し合いをしました、会うべきかどうか。部員の中には反対する者もいましたが、私は会ってもいいかもと思いました、どこかで、誰かに思いを聞いてほしいと思いました。だから部の代表として会うことにしました」

 また視点という単語を聞いて、眩暈がしそうになった。一体どこから間違っていたのだろうと過去を遡っても朝陽の事しか浮かばない。

「夜犬の件で数百件以上の連絡が来て部員は戸惑い、夜犬の存在を知らない者は外に出ないで隠れて過ごしています、外部の人と関わってしまうと部の崩壊にもつながりかねません」

「火星倶楽部は何人いる?」

「五人です、部長、副部長、書記、会計、補佐」

 女子高生はアイスティーにガムシロップを流し込み、ストローでかき混ぜた。結城のコーヒーフロートのアイスが小さくなっていくまえに口に運んだ。甘くて、喉が渇きそうになるアイスは舌の中で沁みるように溶ける。

「じゃあさっそく聞こうか、どうして火星倶楽部を書いたのかを、部長が来ない理由も教えてもらえるとありがたいね」

 女子高生のストローを持つ手が離れ、眼鏡のフレームをさすってから話し出す。まるで儀式の前準備のような手つきだった。

「結城さん、まず一つ誤解を解いておきます。奥付にもあったと思いますが火星倶楽部を書いたのは私ではありません。火星倶楽部の部長が書いたものです」

「部長が来ない理由は?」

「私も他の部員も、部長の正体を知らないからです」

「知らない? 部活なら顔をくらい見るだろ」

「まずは火星倶楽部が何かを説明する必要がありますね」

 さて、いよいよだ。このくだらない物語を作り、果ては夜犬に関わる原因が分かるかもしれない。

 副部長は語りだす。


「火星倶楽部は元々、学校にあるような部活でもサークルでもない、知らない人同士が集まったコミュニティです。最初はただチャットをするだけだった、一つの共通点を持った者たちが集まるチャットルーム、そこに集まったのが私達です」

「共通点とは?」

「文字を書くことが好きという点でした、ネット上で発表するのが主で私たちはネットだけではなく、本を作ってもっと人に見てもらいたいと思いました、そういう気持ちで立ち上げたのが火星倶楽部です」

 喫茶店にはいつの間にか数人の客が入ってきて、それぞれ席についてコーヒーを頼んで新聞紙を広げていたり、子供がパンケーキを頬張っている光景が見られた。雑音が増え、その中で女子高生の声は艶があり目立つように聴こえる。

「じゃあネットの友達で、本名も住所も知らないってことか」

「はい」

「結成しようと言い出したのは部長なのか?」

「結果的にはそうですね。最初はただの仲良しで、実は文章を書く事が好きだと言うことも知って、お互い小説を見せ合いっこするうちに隣町のイベントに参加しようという話になりました」

 アイスティーを飲んで喉の渇きを癒していた。結城が言った。

「イベントってことは、顔合わせしたんじゃないのか?」

「それが火星倶楽部を書いた張本人である部長が来なかったのです」

「来なかった? 何故?」

「イベントに出ようと提案したのは部長です。部長は理由もないまま突然行けないとだけメッセージを残し、そのまま連絡がつかなくなりました」

 それでは――火星倶楽部の真意がつかめないではないか。深々と思案の海に沈もうとすると、副部長が突然訪ねた。

「『火星倶楽部』は読みましたか?」

「ああ」

「どう思いましたか?」

面白かったですか? ならわかるが、どう思うと言われても今一つ言葉が浮かばない。

火星に放り投げられた子供たちの哀れで、愚かな群像劇。それとも喜劇といえるのか、結城にはどう言っていいのか分からない。

「俺は評論家じゃないから小難しい評価は出来ないが、あえて言うならどうにもただの文句を垂らした子供の我儘にしか聞こえない」

 副部長は満足そうにうなずいた。

「正直、部長の考えはみんな不思議に感じていました。チャットでしかやりとりはしていませんが妙に言葉に惹かれるものがありました、そしてそのメッセージには微かではありますが怒りと動揺が隠れていると思いました」

「どういうことだ?」

「ここからは、部員としてではなく私個人の感想です」

「聞かせてくれ」

 副部長はまっすぐ結城を見た。

「部長が書いた文章には根強いメッセージ性を感じるのです、例えば火星の中心で一人の男の子が『五千年前から知っていたよ、君と僕は会うべきして会う存在だった』と言いますよね、ただのロマンチストな一文に見えますが、これは――直感的なものですが、この台詞の裏には深い怒りがあるのではないかと感じてしまうのです」

 結城は聞き続けた。

「部長の文章には理解できないところが多々あったんです、不快なものではなく、素晴らしいと唸るような不可解な表現がありました」

 副部長はガムシロップの端をなぞった。指先が綺麗な女の手つきが微かに震えているようにも見える。

「部長はこの火星倶楽部を書いた事で何かを伝えたかったんです。有名な小説家もメッセージ性の強いものを書きますが……部長の場合は違う、メッセージという生半可なものではなく、おそらく警告であり宣言をするようなものを書き上げた」

「『火星倶楽部』は何かを警告している?」

「それが夜犬に関わっているかは分かりませんが、少なくとも言いたいことは確かです。それを大声で言えず、火星倶楽部と銘打って製本した」

「君は驚いたか? 自分らのサークル名がまさか本のタイトルになるなんて」

 そう言いながら、コーヒーを飲み空になったグラスを横に置いた。

「いいえ。もしかすると部長は私たちを実験材料にしていたのか思うのです。まるであの最初に出会ったチャットから、火星倶楽部という小説を書こうと計画していたのではないかと……そう思わずにはいられないくらい」

 結城は部長のイメージを働かせた、男か女か、どういう気持ちでこの火星倶楽部を書いたのか、副部長の言う怒り、メッセージ。

 メッセージ?

「夜犬は何故か火星倶楽部を持った奴らに襲っている。偶然とは思えないが、どうしてだと思う?」

「夜犬は火星倶楽部に惹かれていた、ということはあるかもしれません」

「惹かれていた? 人が書いた小説に動物は惹かれるのだろうか」

「結城さん、視点を変えてみてください」

 結城は押し黙る。

「夜犬は果たして犬なのか、動物だと言えるのか? 動物って本能で動くって言いますよね、そもそも、四足で、真っ黒な何かと目撃されているだけの不可思議な存在が本能に従って人に襲うなんてことあるのでしょうか? そして犬と名付けたのはどうしてでしょう?」

「それは」

 彼女の言う通り夜犬はどんな学者でも、マニアでも誰も分からない生命体なのだ。そもそも、生命を持っているのかさえも分からない――夜犬とは何だ? あれは一体何故この街に現れ、人々の生活を眺めるのには理由があるはずだ。犬がワンと鳴いて、猫がニャアと鳴くように、夜犬だって何かのメッセージを残そうとしていた。

「きっと、夜犬はこれからも人を襲うと思います。それも、火星倶楽部を持っている人を狙うでしょう、ですが……それには必ず理由があるはずです。これを」

 副部長は一枚のメモを結城の前に差し出した、そこには名前が書かれこの駅の裏側である住所もあった。

「この人も火星倶楽部を買っていただきました、もしかしたら狙われるかもしれません」

「何故これを?」

「この方もイベントに参加していて、本を出していたのです。その時、名刺を交換しました。」

 結城はメモをつまんだ。名前から察するに女であることは分かった。しかし、腑に落ちないことばかりで思わず尋ねる。

「どうして俺に?」

「貴方ならきっと必要になると思います。だって、貴方は火星倶楽部に興味を持ってくれたから。そして貴方は何より、火星倶楽部の共通点に近い物を知っている」

 共通点、しかし結城は今まで創作活動はおろか、紙に絵さえも描いた事が無い。

 副部長は鞄から財布を取り出し、小銭を丁寧に置くと立ち上がり結城の前でお辞儀をするとすぐに顔を上げる。

「結城さん。私たちの代わりに火星倶楽部を読み解いてください。貴方なりの解釈が、火星倶楽部を変える……そう思います。何より、部長を変えてくれると思います」

 副部長は優しく言ってから店を出て行った。姿が消えるまで、見届けて結城は全身の力が抜けて行った。気づけばグラスの氷が解けていて、温くなった水を胃に落とすと大きく息を吐く。

 なんにせよ、また火星倶楽部を読まなければならない。今度は視点を変えて、彼女の言葉を受けた今の自分自身でページをめくる必要があるようだ。



「ぼくたちは思想もなく、自由も無い制御された存在だ。制御装置を外せない哀れな子供なのだ。

立ち上がるには足が必要だ。

僕はその足で生きて、歩いて行かないといけない。

歩かされていると知りながらも、歩かなきゃ。

生かされていると気づく前に、

引き金を引く」


                       火星倶楽部 引用



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