現在
「説明してくれ、どうしてあいつがいる?」
「声を荒げないでまずは落ち着いてくれないか」
「荒げていない」
実際のところ結城は声を荒らしていた。まさか一年前、何も言わずに去った朝陽が目の前にいるなんて信じる事が出来ない。言いたいことも文句も沢山あったのに、どこかにすっ飛んだ。そのくらい驚いているし、困惑する。
「今度は道端で倒れてはいなかった。僕の家に来た」
「何故」
「結城に会いたいって」
「……どうして」
「それは教えてくれなかった。本人に直接聞いてくれ」
結城は朝陽を見た。彼女はショルダーバックを肩からかけていた。それ以外は目立つ物はなく、特徴というべきものも無い。ただ立っている。
「結城、またもう一度預かってみないか?」
「冗談か? あいつに振り回された上、何も言わずに去ったんだぞ」
「そう子供みたいなことを言うなよ、とりあえず話を聞いてくれ。一年前みたいに」
何を言えばいいのだろう。今になって、どうして今更目の前に現れるのだ。結城はとにかく朝陽と向き合い、見下ろした。一年経っても背丈は伸びていないように思う。痩せっぽっちな小さな子供、朝陽はこちらを見ずに地面の砂粒を数えているように見えた。
「何しに来た」
朝陽はやはり答えない。反応速度が遅いのか、言葉の意味をその小さな頭で考えているのだろうか。
「答えろ」
「人を刺した」
息が詰まった。事実よりも、その朝陽の口調に鉛がのしかかる。一年前の努力が泡になったような気もした。少なからずこの少女は一年前、あの抑揚のない娘――日暮に逆戻りしている。
「床に刃物がおちていた。だから刺した」
教科書に書いてあることを淡々と読み上げているようだった。内容は子供が言うからさらに残酷なものとなって、結城の首筋から嫌な汗が噴き出る。
「誰を刺した」
「お母さん」
「そうか。で」
「刺して、家を出た。足が震えていた、けど、私はやはりあの家に戻るべきだと思ってしまった。気がおかしいのかな」
「気がおかしいよ、馬鹿」
朝陽を抱き寄せた。大の大人が出来る事なんてこれくらいしかなかった。辛かったのか、苦しかったのかさえ聞けず、ただ腕の中に閉じ込める。一年間どんな気持ちでいたのかこいつは何一つ知らない、だから苦しくなるまできつく抱擁する。それでも棒立ちのままの朝陽は耳元で力なく言った。
「おじさんは静かだ、いつもいつも――」
その後、朝陽は腕の中で目を閉じそのまま魂が抜けたように倒れた。何も食べていないのか酷く衰弱しているようにも見えて、痛々しい傷も増えている。馬鹿みたいだ、こんな子供がどうしてそんな目に遭うのか。
中条はすぐに草壁に連絡をした。腕の中で眠る朝陽を抱き上げて事務所に向かう。一年越しでようやく思い出していく、朝陽に触れ合うこの暖かくてむず痒い感覚を。
草壁は結城の知人であり、医者だ。昔は大きな病院で勤務していたらしいが、今じゃ小さな診療所を開いている。なんせ個人経営であり、小さな病院だと儲からないので気分で開けたり閉じたりを繰り返す。元々天邪鬼というか、気分屋の性格で治すか治さないかもあやふやに決める。
「人の命が掛かっている、治すんだってよく医療ドラマで言うけれどね、そんなもん腐るほどつまらない。医者である以前にあたしって人間だからさ。やっぱ心のままに動きたいんだよね」
「使命感とかは無いのか?」
「無い。だって必要に迫られて、たまたま医療系に来ちゃったっていう感じだしね。全てはお導きのままにだった。けれど、神様やそういう崇高な存在は人の心まで導かない、だからみんな怪我してやってくるし誰かを刺したりするんだよ、結城さん」
朝陽に服を着せながら草壁は言って、医療道具を仕舞った。朝陽はぐったりしているものの、ベッドで眠っていた。
「かなり衰弱しているけれど大丈夫、生きてる。まあ、心臓が動いているからって生きているかどうかは不思議なところだけど奇跡的に生きている」
「ありがとうね、草ちゃん」
「結城さん、ご飯は作れる?」
「作れるよ。卵焼きとか」
「それはご飯っていうのかな?」
「さあ」
草壁は黒い髪を一つに結んだ美しい女だった。冬らしいカーディガンを羽織り、浅い化粧で朝陽を見下ろしている。
事務所の上は結城の自宅だ。朝陽は結城がいつも使っているベッドで眠っている。ごちゃごちゃとした物はなく、結城は部屋の隅で朝陽の診察を眺めているところだった。草壁は器用な手つきで朝陽を診て、それからすぐに大丈夫だと判断した。医者の判断力はどこまでも潔さを感じる。
しかし朝陽は死体のように動かず、草壁はまるで死体を解剖する準備をしているようで背筋が震えた。朝陽は息をしているはずなのに、どうして今になってカエデの死を思い出させるのだろう。
「食べ盛りだから沢山食べてほしいね」
部屋を出てリビングに行く、結城の家は最低限の家具はあるが殺風景だ。先に椅子に腰かけた草壁は床に鞄を置いた。
「一年ぶりに朝陽ちゃんを診たけど、不思議なくらい変わっていない。変わったとすれば怪我しているところが増えたってことかな。強いて言うなら胸が大きくなった、きっとまだまだ成長する。結城さん好みの女性になるかもしれない」
「草ちゃんのそういう趣味、わかんない」
「趣味っていうのは誰にも理解できない世界を言う」
どこかの偉人が唱えた格言のようだった。
「コーヒー飲むよね、インスタントでいい?」
「もちろん」
草壁はこだわりがないのか、冷凍食品やインスタント食品を好む。どんなに高級品があってもおそらくこの美人医師は安っぽい物を選ぶだろう。
結城はキッチンに向かい、インスタントコーヒーをカップに入れた。お湯を沸かしながら草壁と話す。
「中条さんはどうしたの?」
「中条クンは警察署に戻った」
「夜犬騒ぎで警察も大変ね」
もう街では夜犬の件で一杯に染まっている。夜しか現れない夜犬が真夜中に人の腕を千切ったなんて、誰も思わない。草壁は特に不安も見せずに滑らかな指を組んでこちらを見た。
「今まで夜犬はただの通り雨みたいなものだった、本当に突然だった。青空から雷が落ちてきたみたい」
「俺も驚いたよ、一番最初に見つけたんだ」
「貴方が第一発見者だったの? 本当に運が悪い」
「本当にそう思う、死体なんて見るもんじゃない」
お湯をカップに注ぐと、粉は溶けていった。草壁の前までカップを置いて、反対側の席に腰を降ろした。
「ねえ、どうして朝陽ちゃんは戻ってきたの?」
「戻って来たんじゃなくて、いきなりやってきたんだ」
「連絡が来て驚いた。一年ぶりに結城さんの口から朝陽という名前を聞いた。そして診てみたら酷い有様だった。とても子供が浴びる量の暴力じゃない」
結城は朝陽が眠る部屋をちらりと見た。こうして見ていない間に彼女が死んでしまうのかとよぎってしまう。
「この後はどうするの?」
「どうもない。あいつが決めることだ」
「随分と冷めてる。嬉しくないの?」
嬉しいよりも信じられないという方が大きい。朝陽のいない一年、あの娘の事なんて忘れていたと言ってもいい。風が右から左へと吹いていくだけで、あっさりとしている。なのに、どうして穏やかな風を荒らすような真似をしてきたのだ。
「面倒な奴がまたやってきて、憂鬱なだけだ」
「結城さんは面倒な事が大好きじゃない」
「そんな物好きに見えるかな?」
二人はコーヒーを飲んで息を吐くと、草壁と結城は扉が開いた音に気付いて視線を向けた。眠そうに眼を擦る朝陽が立っていた。結城の服を貸したせいか、どこまでも小さい子供見える。
朝陽はようやく目が覚めたのか草壁を凝視する。
「久しぶり、朝陽ちゃん」
表情一つ崩さず、眉をひそめてこちらに助けを求めている。朝陽は草壁の事が苦手なのだ。
「調子は? どこか痛いとかあるかしら」
「無い」
言葉遣いが堅すぎて、早く帰れと言わんばかりだった。ここはお前の家ではないぞと思いつつ、席から立ち上がった。
「何か飲むか」
朝陽は安心したように頷いた。肯定か否定かが分かるくらいまで成長しただけ少女は大きくなった。まだ警戒しているのか、結城と朝陽の幅は一年前に遡っているように見えた。朝陽は適度な距離感を保ちながらキッチンまで後ろについてきて、結城は冷蔵庫を開けた。子供が飲むようなジュースなど用意しているはずもなくお茶、酒、水くらいしか置いてない。
「お茶でいいか」
「うん」
草壁と同じカップを用意してから麦茶を注いで朝陽に渡す。その場で飲もうとしてので、席に座ってからと促すと言う事を聞いて、結城に座っていた席へ向かった。
おそるおそる口につけた、毒なんて入ってないのに警戒心だけは解いていない。
「本当に久しぶりね、朝陽ちゃん。一年会っていない内に胸は大きくなっていたわ、それ以外は良好ね」
飲んでいる時に草壁がそんなことを言うから、机にお茶が飛び散った。慌てて布巾を持ってきて吹いてやると朝陽は思わず椅子を引き下げ、出来るだけ距離を取った。しかしその姿を見てどこかほっとする自分がいた、昔の朝陽なら裸なんて当たり前だったし、恥じらいがなかったのだ。
「医者として言っただけよ」
「いやいや……草ちゃんの言い方、かなりマジに聞こえるよ」
「そうかしら? 聞こえた?」
朝陽は何も言わずぎろりと睨んでいる。
「ごめんなさいね、医者としては人の裸を見るのは宿命だし」
「そういう事じゃないと思うけど……わざわざ言わなくてもいいんじゃない?」
朝陽は罵るわけでもなく、文句を垂らさず渋々半分になったお茶を少しずつ口の中に含みながら草壁をじろじろと観察していた。
「どうやら私は邪魔ね、朝陽ちゃんも色々整理つけたいところがあるでしょうし、私は一度帰るわ」
鞄を手に取って玄関に向かおうとするので、草壁に上着を渡すとありがとうと言って綺麗なお辞儀をしてから廊下を歩いていく。
彼女は靴を履いて、結城を見て突然、
「ねえ結城さん、きっと貴方は幸運よ」
などと言うのだ。
「どういうこと?」
「またあの子に会えたこと、それはきっと貴方に巡って来たラストチャンスじゃないかなって思うの」
そうすると結城は今までのチャンスを見逃していたということになる。今までのチャンスは何時、どういうタイミングで訪れていたのかも知らないまま気づけば戻れないチャンスにまで至っている。しかし、そのラストチャンスというのはどういうことか結城には分からない。
「どうかな、俺は心の底から困惑している。今更再会した小娘一人にどんな言葉を掛けていいかまだ分からない。どうしてあいつが現れたのか、俺は何も言えない」
草壁はくすくすと笑った、まるでおとぎ話に出てくる小人の様に。
「私は今になって思うんだ。あの時、結城さんが別の視点を持っていたのなら、何かが変わっていたんじゃないかって。きっと一年前にターニングポイントを置いてきたんだよ」
「俺は何かをすべきだったのか? そのために焦点を変えるべきだった?」
「そうだよ。だからこれはラストチャンスなんだと思う、ここが分かれ目だとしたらきっと貴方は別の視点を掲げてみないといけない気がするの」
草壁はじゃあね、と言ってから扉を閉めた。携帯電話が鳴って、現実に呼び戻されるとズボンのポケットから携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。相手は中条からだった。
「結城、二人目だ。二人目が出てしまった」
結城は再びその名前を聞いた。それはどうしてもズレを引き起こすような心にひっかかる単語だった。
「またあの冊子が落ちていた、火星倶楽部だ」
「五千年前から知っていたよ、君と僕は会うべきして会う存在だったの」
「そんなはずない、だって、五千年前から待ってたってことでしょう?」
「そうだよ。だって、そうしようって約束したじゃない」
「してないよ」
「そんなことない、だって君の音が聴こえた」
「だって五千年前なんて生きている訳ないじゃない」
「うそつき、君はうそつきだ。君の愛しい音はもう星になってしまうんだね」
「火星倶楽部」引用
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