一年前

 少女が雨の中倒れていて大変だからお前の家に今から行ってもいいかと言われて結城は焦りも無ければ動揺も無かった。むしろどういうことかをあらかじめ知っていた様に、ああ、どうぞと言って事務所に迎えると中条の腕の中に納まっていた少女は痛々しい姿となって目を閉じていた。

 ぎょっとした。まるで死体を担ぎ上げているようで、昔を思い出す。

「生きているのか?」

 思わず尋ねると、傘もささずスーツを雨で重たくさせた中条は頷いた。

「さっきまで意識があったが、気を失ってしまった」

「普通は病院に連れていくだろう、どうしてここに来た」

「お前の家の近くを歩いていたということと、それと彼女が誰も呼ばないでくれと頼むからだ」

「子供の言う事を聞きいれたって?」

 中条は少女をソファで寝かせた。今更自宅に連れていかないで結城は三階にあがり自宅へ行ってからタオルを取ってきてから中条に渡し、少女の顔を拭いた。見たところ少女は十代くらい、顔立ちは綺麗な物の着ている服は小奇麗に見えて所々がボロボロになっていた。靴は履いておらず、素足には皮膚がめくれて血が固まっている。

「身元が分かる物は一切ない。ただちょっと気になることがある」

「なんだ」

「腕や首に大きな痣や火傷の跡がある」

 中条が言うので少し服の裾をめくってみると、焼けたことがない白い肌には子供が負うようなものではない大きな傷があった。

「虐待か」

 仮眠に使っていた毛布を少女にかけると、反対側のソファに中条が無言のまま座る。何とも言えない空気だった。まずいものを拾ってしまったという顔、複雑そうだ。

「とりあえずコーヒーを飲むか、中条クン」

「すまない、頼む」

 結城はコーヒーを淹れながら考えた。この子供は一体どこから来たのだろう、どうして傷を負って雨の中倒れていたのか、少女は全体的に痩せこけている。栄養がなく、萎れた植物と同じだ。あまり想像はしたくないが、いつも最悪なことばかり浮かんでしまう。子供のことになるといつもそうだ。

 結城は数年前、ある女と結婚し子供を産んだ。しかし、子供は死産した。女は子供の姿を見ていないが、結城は僅かな瞬間に見てしまった。蛙の死骸のような、その潰れた何かがそこにいて、指先を通っていた血液が止まってしまい冷たくなっていく。それからというもの、子供を見ているといつも死んでしまったカエデを思い出してしまう。

「行方不明になったとかそういう通報は来ていたのか?」

「いや、何も聞いてない」

 中条の前にカップを置くと、礼を言ってから飲んだ。結城も同じものを飲み、死んだように眠る少女の顔を覗き込むと額に触れるとほのかに暖かかった。

「見覚えはあるか?」

「あるわけないでしょ、俺はもう子供という存在から離れている」

 しばらくして少女の瞼が震え、うっすらと開かれる。結城と目が合うと、驚きもせずに瞳孔がすっと細くなった。血が通っているのか事務所の電気に晒されて顔全体が真っ白に見えて、生気が無い。

「目が覚めたみたいだぞ、中条クン」

 後は任せたと中条の隣にソファに座り、足を組んだ。警察に行くなり、保護者を呼ぶなり好きにしてくれればいい。しかし少女の綺麗な瞳が結城を見逃さず捉えている。

「どうしてその人は静かなの」

 開口一番に言ったのがそれだった。

 結城と中条は互いに顔を見合わせ、中条がどういうことだ? と無言で尋ねてくる。当然わからないのでコーヒーを飲みながら肩をすくめた。

「君はどうして倒れていたのかな? お母さんとお父さんはどうしたの?」

 少女は答えず、こちらを見詰めてくる。もしかしてどこかで会ったかもしれないと記憶を探るが全く覚えがなかった。

「静かってどういうことか、教えてくれるか?」

 淡い色をした唇が閉じる。

 中条は結城に言った。

「結城、お前が話してみてくれ。俺は草壁さん呼んでくる」

「俺は子供と話すのが苦手だ」

「でもこの女の子は君と話したい様子だ。それに事情を聞くなら子持ちだった君が適任だろう」

 中条が真面目な顔をして言うので肩を落とす。

「皮肉だな、俺が子持ちって言えるか?」

「一瞬でも息をしていたなら君は子持ちだと言えるさ、結城」

「どうかな、俺にどこまで聞き出せるか分からないぞ」

「大丈夫だ。お前ならきっと出来る」

「どうしてそこまで自信があるんだよ」

「お前の友人だから、この子見た目で判断してはならない、この子は必要以上に賢い。刑事の目で見てそう思った。だから結城が話してくれ」

 少女は顔色を変えて中条の方にぐるりと視線を向けた、刑事という単語で過剰に反応したようで瞳の色が警戒色に変わる。

「警察」

「確かに僕は警察の人間だけど、通報は一切していない。帰り道の途中だったからね。警官であることはそうだが、君の話次第では黙っておく事も考える」

「おいおい」

 中条が手で制す。

「でも、君を見て思う。君は子供の見た目をしているが、他の子供とは何か違う慣性を持っている。だから君の願いを聞いた。警察を呼んで保護者を呼ぼうとするのをしないでここに連れてきたんだ。だから今度は僕らが頼む番だ、是非ともこのおじさんに話をしてほしい」

 そこまで話すのならお前が相手をすればいいじゃないかと思ったが、中条は結城の肩を叩いてから部屋の電話を借りるぞと言ってから三階の自宅へと行ってしまった。とうとう二人きりになって口を閉ざしてしまう。何を言えばいいか、まずは名前? 出身――? と色々考えている内にとにかく何かを言わねばと言葉を探す。

「ここは俺の事務所だ。現在休業中で、一応言うと風水師なんだ」

「ふうすいし」

 疑問に思わず、感情のない声で首を傾げる。関心はなさそうだった。

「ざっくり言うと占いをしている。色々な場所を見て、気の流れを良くする仕事」

「人は見ないの?」

「それは占い師。だけど、たまに人を見る時もあるが本当に稀だ」

「どうして」

「どうして?」

「どうして、風水師じゃなきゃいけなかったの」

 思わず両手を上げて降参だと言いたくなった。どうしてか? 必要に迫られて風水師になったわけじゃない、もし他の風水師がいたらきっと怒鳴られ、侮辱だと罵られるだろう。

「どうしてだろうな、俺も不思議なくらいだ。じゃあこっちもどうしてって聞いていいか?」

 少女はまたも沈黙の盾を作る。目に見えない絶壁があるようだ。

「どうして一人で倒れていた? お母さんとお父さんは?」

「知らない」

「知らないってことはないだろ、何も言わずに出て行ったのか? それを追いかけていたら倒れたのか?」

「私が出て行った」

 カエデもここまで成長していたらこの娘の様に家出をしていたのだろうか? と思いながら質問を続ける。

「どうして出て行った」

「……分からない。でも私がようやく私になったと気づいた時、いつの間にか走り出していた」

「意味が分からないぞ、大人を馬鹿にしてるか?」

「事実を言った」

 妙に哲学的な言い方に腕を組む。もうちょっと攻めた言い方をすればわかるかと思ったが、どこまで境界線に近づけばいいのだろう。

「私は今まで分からなかった。この状況を理解できなかった、頬を叩くのは何か意味があって、この世界では当たり前なのだと思った。どうして太陽が昇り、月が沈むのか誰も疑問を持たないように私もお母さんの暴力に疑問が無かった。学校にも行かないのは私にとっては普遍的で、当然だと思った」

 実に説得力のある力強い言い方だった。天文学者が疑問を持っても、結城はきっと疑問を持たず当たり前だと思うだろう。

「ようやく気付いた。だから逃げた」

「それが暴力で、傷つける事が異常だと?」

「うん……でも」

「でも?」

「私は戻るべきなのかもしれない、と思ってしまう。あの暴力の波に呑まれるべきなのかもしれない。本当は暴力を受けていた方が心地いいような、そんな気もする」

 平坦な口調で言いきって、再び黙った。虚ろな時間だった。そんなことを二十も離れている小さな子供が言うなんて思いもしなかった。結城よりはるかに経験を積んでいて、どこか達観していた。子供らしくないと言った中条は間違ってはいない。異様だ。

「家にいれば酷いことをされるってのに、戻りたいと思うのか?」

「それが私にとっては当たり前だった。外に出て、こうして誰かと話すこと自体が当たり前じゃないのかもしれない」

「違う、それは絶対違う。虐待を受けてニコニコしているガキがどこにいる。酷い事されたなら逃げて当然だ」

「どうしておじさんは私がされた光景を見ていないのにそれが酷いと言えるの」

 今度はこちらが黙り、少女がくしゃみをしたのですぐに暖房をつけた。埃臭くなって、ほんの少し窓を開けると雨の勢いは弱まってきている。

「じゃあどうして逃げたんだ。心地がいいなら、留まるべきだったろう」

「それは、分かんない」

「人は誰だって嫌だと思ったら――」

「分からない!」

 少女が立ち上がり、ヒステリックに叫んだ。初めて声を大にして悲痛な叫びを聞いたが、良い物ではない。結城が振り返ると、ぼろぼろと涙を床に落としていく少女はタオルを落としその場でしゃがみこんだ。

「分からない、何も分からない。全てがうるさい。静かにしてよ」

「おい、どうした」

 中条が事務所にやってくる。これではまるで結城が彼女に悪いことをしてしまったような現場じゃないか。もちろん、こちらも感情的になって聞いてしまったのも悪い。しかし少女も少女だ。言っていることと行動が矛盾している。

「静かにして、うるさい」

「結城、何が」

「ちょっと待て」

 ああ、こういう時――あの女がいればいいと思った。子供が大好きで、宥めるのが得意な女、結城には彼女を落ち着かせる術がない。出来ると言ったら、女が結城にやってくれたあることだけだ。

 手入れもしていない両手は肌が荒れている、その手で少女の両耳を思い切り塞いだ。これをすると大抵の人間が落ち着くらしいが少女に効くかは分からない。濡れた髪をすり抜けて小さくて柔らかな耳に触れると少女は弾かれたように顔を見上げた。

「どうだ。静かになったか」

「どうして……」

 少女の涙はすぐに止まった。目端にたまった粒を拭いながら、落ち着かせるように言った。

「耳を塞ぐと落ち着くって、言ってた人がいた。それだけだ」

 少女はぼんやりと見つめている。熱っぽいのか顔が赤くなって、視線が泳いでそれから結城の手の甲にそっと触ってみる仕草をする。どうやら効果はあった、ほんの少しだけあの女に感謝をしてから結城はゆっくりと手を降ろす。

「もう話せるな?」

「うん」

「名前、教えてくれるか?」

「日暮……」

「苗字か?」

「名前」

 日暮は俯いて、わずかに口を動かした。横にいた中条は任せた方が良いなと小声で言ってから部屋の隅で壁に寄り掛かっている。勘弁してくれと視線で射抜くが、効果は無い。子供はどこまでも苦手だ、あまりに愛しいと思ってしまう。丁寧に扱わないと自分が嫌になる。俺は一瞬でも子持ちだったんだぞ、本当に一瞬だったが。



「散々な目に遭ったさ、突然ぼくを火星に連れていくって言ったんだ。誰が言ったかって? パパとママだよ。彼らは子供嫌いなのに子供を産んで、残飯処理をし始めたのさ」

『火星倶楽部』 引用

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