結城凪正に捧げる物語 vol.1火星倶楽部

文月文人

現在


 結城凪正は非常に困っていた。三十代というスタートを切り始めてからある程度人生に落ち着きがやってくると本気で思っていた。しかしそう上手くいくものではなく、常に心は苛々していた。

 結城は目を開き、死産した娘の亡骸を握りしめる夢から醒めた。

 久々に深い眠りに落ちた様で、身体が軽くなっていた。妙な空洞に音が反響していくように、何をしても違和感が無いまま起きられるのは珍しい事だ。しかし気分はあまりよくない、蛙の死体のようなものを握りしめる感覚が手に残り、汗がシーツに染みる。

 とにかく水でもとベッドから降りて床に落ちたシャツを着て冷蔵庫を開けた。

 昨日、知人と口論になった。

 全くもってたいしたことの無い口喧嘩。幼稚な言葉遊びに納得できず、不満をぶつけあった。結城は随分と腹が立って、彼の顔面に一発殴ってそのまま自宅に戻った。彼は最近この街に引っ越してきたライターだった。何を書いているかは知らない。それから何度か携帯電話が鳴っているけれど、もちろん通話ボタンは押さなかった。

 また携帯電話が鳴った。こんな真夜中にあの知人は連絡をしてきたが画面を見ずに水を飲んでベッドに座った。

 外はテラリウムのように輝く電灯が雨に打たれ、ぼんやりと輝いている。季節は冬、酷い季節だ。女がいれば寒さもまぎれるが、残念ながら女とは数年前に離婚した。

 そしてあの少女とも別れて一年が経っている。


 少女が言った。

「おじさん、本当に冷たいね」

 否定も肯定もせずに、心の中で「ああ、そうかもな」と思った。今まで誰にも言われなかったのに、ある種、価値をつけられた気がして嬉しかった記憶がある。

「どうしておじさんは笑うの」

「笑ってない、いつもこんな顔」

「ふうん、そうだとしたら寂しい。でも凄く好き」

 好きと言われて悪い気はしないのに、どこか皮肉めいたものを感じた。生を捨て、世から離れ、寒気を含んだ瞳が結城には怖いと思った。

 結局少女は何も言わず去ってしまった。あの時、どうして涙を見せたのか、今では何一つ分からない。本当は助けるべきだったのだ、どうかしたのか? 何があった? 手を伸ばして遠くて連れていけば済んだのにその一歩踏み出せないのは彼女の建前を理解できない自分の愚かさが原因だ。

「はい」

 また電話が鳴る、加減出ると相手は頬に殴った知人ではなかった。

「結城、夜中にすまない」

「中条君、どうしたの。丁度起きていた」

「夜犬が出た」

 その言葉を聞いた時、結城の動きは速かった。シャツを着直してウインドブレーカーに袖を通した。傘をさす暇もなく外に出ると、雨はカーテンのように波打ちながら降り続いている。

「どこ?」

「通り近くの、河川敷あたりだ」

「了解、ありがとう」

 電話を切って走り出した。結城の自宅から川のそばまでは数十分でたどり着ける、商店街の入り口の前を駆け、規則的に並んだ街灯が見えるところまで向かう。

 獣の遠吠えは空気を止めるように甲高く、どこまでも響いた。夜犬は人の影から人の影を行き来するように速い。

 夜犬は最初、人を襲うような存在ではなかった。一年前、突然ふらりと現れて、街を見下ろし人々の生活ぶりを伺っているだけの動物でしかなかったのに、ここ最近は店の一部を壊し、ゴミ捨て場を荒らし、人に悪戯をすることが多くなった。

 結城は立ち止まり、夜犬の姿を捉えることが出来た。

 夜色の身体、犬のような手足、目は月の色のような黄色。

 携帯のライトで夜犬を照らし、姿をはっきりさせると息を飲んだ。徐々に近づいてくる異臭に鼻を抑えることは出来なかった。夜犬が咥えているそれが何かを理解するのに時間がかかり、脳に落とし込められない。

「腕、か?」

 食いちぎったばかりなのか、腕の切断面から見たこともない量の血液がぼとぼとと落ちていた。たかだが腕一本でこんなにも血が出るのか、なんてことを思った。夜犬はお構いなしに腕を食べる訳ではなくその場に落としたと思うと、甲高く吠えてから結城と反対方向へと駆けて行った。

 追いかけず、その場にいる死体に駆け寄り思わず鼻を抑えた。

 二度と嗅ぎたくない血の匂い。

この血の量では死んでいることはわかる。結城は刑事の中条に連絡した。人が死んでいることと救急車を呼べと言って、匿名ということにしておけと最後に残して携帯電話を閉じた。

 隻腕になってしまった男は仰向けで倒れている。結城よりも若い男なので、二十代前半あたりだろう、冬らしいコートとジーンズ、見たところ鞄のような手荷物は無いが一つだけ気になる物があって再びライトを向ける。

 それは一冊の本だった。触ろうにも指紋が残ったら面倒なので、屈んでみると作者名は一切書かれていない、装丁も何も無いただ赤い色をした表紙にタイトルだけが書かれている。

「『火星倶楽部』……?」

 結城は聞いた事も読んだことも無い冊子を前にどうしようもなくただ腕を組んだ。

 この本は一体何だ?



「結城、お疲れ」

 遠くでサイレンが聞える。今が何時か携帯で調べる気も起きなかった。死体を見てしまったのだから、気分は良いものではない。

 警察を呼んでからすぐに公園に移動し、中条が来るのを銅像のようになって待った。驚きと動揺とその他諸々のどろどろとしたものが体中を巡っている。娘のカエデがふらりと浮かんでいく、人の死はいいものじゃない。

 中条がやってきた。グレーのスーツに品のあるネクタイ。自販機で買ったのかコーヒーを持っていた。遅れた事に詫びを入れてから結城の隣に座り、缶コーヒーを渡してくる。結城は力なく受け取り、プルタブに爪をひっかけたが、どうしても開けられず中条に開けてもらった。

「ありがと」

「妙なところで子供だな、お前は。いつもそうだ、給食にあったデザートの蓋を開けられなかったり、割り箸も綺麗に割れない」

 男二人がベンチに座ると割と窮屈だと思いつつ、缶コーヒーに口をつけた。苦い。けれど、今はその方が良かった。

 お互いは口も聞かず黙っていた。中条とは中学時代からの付き合いであるがいつもこうして何も言わないまま沈黙の空気を作るところから始まった。決まりでもなんでもなく、ただ当然のように静かになって、良いタイミングを見計らってからどちらかが口を開くのである。今回は中条からだった。

「夜犬が人の腕を喰うとは……夜犬がまさかこんなことをするなんて警察も思わなかった」

「そりゃあそうでしょうよ」

 中条はネクタイを緩め、缶コーヒーを股の間に挟むと頭を抱えた。

「どうして夜犬が……いきなり人を殺すんだ? 今まで何も無かったのに」

「元々習性があったのかもしれない、肉食だとか人の肉が好きだとか」

「夜犬は草食だろ」

「月の光だろ?」

「いきなりファンタジーに浸るな結城、気持ちはわかるがここは現実だ」

 中条も結城もお手上げの状態だった。これは単なるいたずらで済まない。研究者も、警察も、ネット上でうろつく住人も夜犬のことは注目していたが誰一人として真実を知らない。

 夜犬は何なのか?

「風水師の君でも探すのは無理か」

「風水師は物探しが専門じゃない」

中条が溜息を吐いてからコーヒーを飲み干した。そして続けて言った。

「引き続き調査を頼めないだろうか?」

「おいおい、もうさすがにここは警察の出番だろう。俺は隠居生活に戻るぞ?」

 結城の先祖は物探しが得意な家系だとは中条には言ったが、だからといって超能力や霊能力があった訳ではない。風水も祖母がやっていたのを横で見ていた程度の知識しかないのに、風水師と名乗って事務所を開いているインチキ風水師なのだ。それでも中条は結城の力を信じ、こうして個人的な友人として頼んでいる。刑事としてもお手上げのようだし、害が無いならば何も手を出すことはないといった始末なのだ。

「お前は他の人と違って視る点が違うんだ」

「視点ってことか?」

「そうだ。俺は刑事。だから組織に縛られなければならない、まあ割と自由な方だがどうしても枠というものから離れることなんて出来ない」

 そうだろうか? 別に枠なんていくらでも囲えるし破ることは簡単な気がする。しかし中条にとってそれはルールを破る事であり、刑事生命の終わりなのだ。

 中条は結城を見た、悪意のない真摯な瞳に結城が映る。

「結城。お前には視点があるんだ。それは風水師としての点、そしてお前自身の点、二つの視点があるからお前に頼んだ。探偵でもないお前に」

「俺は風水師だった過去があっただけでそのほかはバツイチの情けない男だ。やはり謎の生命体を追うのは無理がないか?」

 夜犬と名付けられているが実際のところ本当の名前も知らないし、どんな生態かも分からない。この街にしか現れない謎の動物。もしかすると動物とは呼べない別の何かだとも言える。

「お前が持つ視点なら夜犬のことも、お前自身の事も解決できると思うんだ」

「俺の事って?」

「結城、お前はあの女と別れて、あの子とも離れてからとても生きているようには思えないんだ。まるで色の無い固形物にでもなったようだ。生きてはいるが、声帯がついた無機物だ」

 まさか中条にそこまで心配されているとは思いもせず、真夜中の公園のベンチに座ったまま瞬きを繰り返した。しかし馬鹿にしているわけでも冗談でもなく、中条は真面目だったのに冗談も半笑いも出来ない。

「分かった。そこまで言うなら、やってみるよ。まずはあの冊子についてなんだが」

「証拠として回収している、メールで送るよ」

「ありがと、中条クン。俺はまず『火星倶楽部』の方面から調べる」

 そう言って、中条は缶コーヒーの中身を飲み干してベンチから立ち上がると、近くに会ったゴミ箱にその場で放り投げた。がこんと音がして綺麗に投げてやっぱりなと中条は言った。

「何がやっぱりなんだ?」

「それがお前の視点ってことさ、結城」


 次の日、中条が火星倶楽部の中身をメールで送ってきてくれた。内容はどうやら素人が書いた小説のようで、長ったらしい言葉の羅列が一ページに一杯に綴られていた。自宅の下にある事務所でパソコンを開き、火星倶楽部とやらとにらめっこしてから一時間位が経過した、内容的には数十分で終わる短い話だが、何かが隠されているのではないかと思ったので精密機械のようにじっくりと細かく吟味した。

 そして、読み終えると椅子にもたれかかり事務所の天井を仰ぐ。

 結城は小説家ではないので大した感想は言えないが――なんとも陳腐な話だと思った。火星倶楽部というタイトルなので部活動の物語をイメージしていたが、全く持って違っていた。当てはまるようなジャンルが見当たらない、色々と考えたがとりあえずはサイエンス・フィクションと言ってもいいかもしれない、少なくとも結城にはそう感じた。

 内容は親の身勝手で火星に捨てられた五人の子供が火星を歩き、そして椅子用意して円のようにして囲み、それぞれの想いや不満をぶつけあってから自ら自殺するというものだった。これが面白いかどうか、結城には面白みに欠けると思った。

 右腕を噛みちぎられた男はそんな火星倶楽部を持ったまま、死んだのだ。

 結城は奥付を見て作者を確認したが『サークル名 火星倶楽部 作者 火星倶楽部 部長』としか書かれておらず、そのほかにはメールアドレスも記載されていた。

 なるほど、部長。この内容は部長とやらが書いたものらしい。メールアドレスはおそらく警察側も連絡する事だろうが、結城もメールをすることにした。火星倶楽部と夜犬の関連性について教えてくれという旨を送り、会えるならぜひ直接会いたいとも書いておく。こんなことですぐに返信が来るかどうかは知らないが、賭けてみてもいいだろう。

火星倶楽部というのは何人いるかは不明だが、所詮は倶楽部なのだから複数人いるということになる。もしかすると、その中で今回の事件と関わりがある人物がいるのかもしれない。何よりこの部長こそが重要人物だろう。

 死んだ男についても資料が用意されていた、まだ二十代前半で就職も決めていない男だったが家族が犯罪者だったとか、本人の経歴も真っ白なもので殺される理由は見当たらない。

 それから結城は夜犬についての資料を広げた。これは中条に頼まれて個人的に調べ上げたファイルを広げてみたものの、書いてあることは全て不透明だ。夜犬は夜に現れるだとか、人の様子を眺めているだとか、目撃者の情報も同様でどれもこれも曖昧なものだった。どちらにせよ手詰まりな事は分かったが、どこから手を出していいものか。

 その時、携帯電話が鳴って通話ボタンを押す。相手は中条だ。

「結城、今いいか?」

「どうした? 夜犬がまた出たか?」

「いや、そうじゃない。別件だ」

「何だ?」

「とにかく来てくれ、昨晩ベンチに座ったあの公園にいる」

 中条はそれだけを言って電話を切った。言われた通り、ブレーカーを着てから事務所を出た。階段を降りると、喫茶店の店主が扉を開けて掃除をしていた、とても喫茶店を営むような雰囲気を持たない顔に傷を負った男だがこの建物を貸してくれた人でもあるので簡単に挨拶をすると何も言わず頷くだけだった。

 中条は一体どんな要件で呼んだのだろう、電話越しでは言えない事なのはわかるが――と考えている内に公園にたどり着いていた。青信号ばかりで止まることはなく、急かされるように公園の中に入っていった。遊んでいるような子供もおらず、ランニングコースなのかスポーツウェアを着た男女がリズムよく駆けて行く。

 結城は広場に出た、中条と座ったベンチがあるほうだ。そこには錆びだらけの遊具があり、子供が遊んでいる姿は昔の事だ。

ブランコが軋む音が聴こえて、音の方へと目を向けると息を止めた。

 結城は見開いて、その少女を見ていた。

「どうして」

 それは忘れるはずもない、過去が現実に追いついた。

 頭の中にあった記憶は規則正しく並んでいたのに、突然揉みくちゃになって並べなければいけない疲労感が押し寄せた。同時に、冬にも関わらず真夏のような汗が噴き出た。少女は一年前と少し変わっていて、短い髪を一つに結んでおり風に流れている。ブランコから降りて、その間ひとりでに揺れ続けたブランコの軋む音だけが結城の耳の中を行ったり来たりしていた。

「朝陽」

 間違いなく朝陽だ。一年前に出会い、何も言わずに去ってしまった少女が結城の目の前にいた。髪を結んでいる他に何も変わっていない、凍え死にそうな恰好で、それでいて死にそうだった。

「朝陽ちゃん――って、いた」

 中条がどこからか駆けてくる。もちろん結城は中城の方を見た。視線は鋭く、必死に説明しろと訴えた。今は声が出ない、あまりに唐突過ぎて喉が潰れた様だ。朝陽は飄々としているし、息を整えていた中条もどこかあっさりとしている。結城だけが困惑の渦にいる。誰も助けてはくれない孤島に立たされ、ずっと助けを待っている。

「結城、突然だがもう一度朝陽ちゃんを預かってみないか?」

 中条の言葉は一年前を思い出させる。

 これが視点を変えなければいけないチャンスという奴だろう。



ぼくは突然、火星に捨てられた。

火星は美しい。

青い夕日を見たけれど、それはぼくしか見たことのない悲しい景色。皆が見せられていたのは真っ赤な夕焼けだが、ぼくは青かびが生えた様な酷い太陽を見せられている。瞼を閉じられないように針金で固定され、常に開きっぱなしの眼球が乾いている。

真っ赤な夕日か青かびが生えた夕日かを見せるのは、いつだって一人なのだ。

ぼくはみんなと同じ真っ赤に燃えた太陽が見たい。

本当は見たいのに、出来ないのはその一人の身勝手な暴力の所為。

だから火星倶楽部をつくることに決めた。


『火星倶楽部』 引用





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