第42話 妖子と竜
「妖子! どこに行く!」
「今度会う前に死んでてね、お母さん」
かつて、妖子はそう言って無一文で家を出た。あれから何年経っても、妖子の人生はろくなものではなかった。不幸に突き落とされる度に家を飛び出す時の母親の言葉が響く。
「おまえにはカマスの血が流れている!」
このビルの8階のキャバレーで男に酒を呑ませて働いてる自分は、やはり越前谷真佐江というろくでもない母親の血が流れているせいなのだろうと思うと体全身が冷めて、店をはけてから屋上に出た。
夜空を見上げると星が出ていた。鬼ノ子村のことを思い出した。やはり、生まれなければ良かったのかもしれない。生まれて良かったことと言えば、鬼ノ子村の綺麗な空が見れたことぐらいだ。家にいる場所が無くて、夕暮れの鬼ノ子村を歩いていると、民家から塩鮭の焼ける臭いがしてきた。妖子には天国の香りだった。きっと中では幸せな家族の食卓があるんだろうなと涙が流れた。
持っていくランドセルも教科書も弁当もない新入学のはずの小学校に行けるはずもない妖子には、生まれた土地が異国にすら思える時がある。
母親には福祉事務所の人間も寄り付かなかった。土地の者に目を背けられていた自分の母親は一体何者なんだろう。東京に出ても、鬼ノ子村の黒歴史から脱出することは出来なかった。そう思いながら屋上の手摺りを越えようとした妖子は、向こうの手摺りを越えようとしているもう一人の影に気付いた。
「あんたもかい?」
男は妖子の声にすこぶる驚いて振り向いた。
「飛び降りる前に教えてよ!」
「な、なにを !?」
「カマスってなんだ?」
「カマス!? …呪われた血だ!」
「詳しく教えてよ!」
「今、そんな話なんかする気はない!」
「そんなって何よ! 私には大事なことなんだ!」
「今私がどういう状態にあるか分かってるでしょ!」
「私だって同じよ! でも、カマスのことを聞いてから死にたいの! 私には重要なことなの! あなた、知ってるなら教えてから飛び降りたって同じでしょ !?」
男は苛立ったまま考えていたが、手摺りから足を外した。
「カマスは過去に東北地方の日本海側から次々と入って来た難民だ。無事海岸に辿り着いた者たちが、絶えた家の空き家や、老人の家を乗っ取り、殺害してその老人に成りすますなどして生き延びて来た連中だ。集落ごと乗っ取った土地では、近親相姦が祟って障がい者が急増したことも記録されている。彼らは障がい者を笑い者にし、甚振った。障がい者はそうされることで食い物を貰えるから、そうした習慣は彼らの負の文化になった。彼ら自身、本音では自分たちの血は呪われていると思っている。その反動で異常に気位の高い集簇になった。異国のこの土地で生きていくためには、手段を選ばず日本人の全てを奪うしかない。血を混ぜるためのレイプ、売春、焼き討ち、何でもして来た連中だ」
「・・・・・」
「あなたは何でカマスなんて知ってるんだ?」
「母親に言われた… “おまえにはカマスの血が流れている” って…教えてくれてありがとう」
妖子は立ち上がると、ツカツカと手摺りに向かい、柵を乗り越えて飛び降りた。男の手が妖子の腕を捉まえていた。
「待てよ…自分だけ納得して行くのは卑怯だろ」
「・・・・・」
「私の話も聞けよ」
「じゃ、早くしてよ」
男は妖子を引き上げた。二人は柵に寄り掛かり、空を見上げた。
「早く話して」
「…あなたは…自殺と報復のどっちが優先する?」
「・・・ !?」
「自殺と報復のどっちが優先する?」
「・・・・・」
「自殺の9割は他殺だっていう監察医の言葉がある。私は、今気が付いた。あなたは何故自殺するんですか? “カマスの血が流れている” から自殺するんですか?」
「そうかもしれない…けど、あの母親の存在が私の人生を邪魔する。あの言葉が呪いの呪文のようにどこまでも追い駆けてくる。もう逃げ切れなくなった」
「成程…私と一緒だな」
「あなたもカマスの血に追い詰められたの !?」
「そう言うことじゃなくて…なぜ、母親じゃなくて、あなたのほうが死ななければならないんです? たったひとりの邪魔な人間のために死ぬ価値があるんでしょうか?」
「たったひとりの呪いの言葉が、私の脳の殆どを蝕んでいるの。もうどうにもできない」
「殺したらどうです」
「・・・!」
「殺してからにしませんか? …死ぬのは」
妖子は男の顔を初めてまじまじと見た。
「まだあなたの話を聞いてないわ」
「私の話は…また今度にする」
「そう…今は死なないのね」
「やり残したことに気が付いた」
妖子は溜息を吐いた。
「結局、私ひとりか…いつもこうして取り残されるのよ、私って」
「私は邪魔な人間を残したままでは死ねない。あなただって本当は呪いを解きたいんじゃないのか? 解いてから死んだほうがいいと思ってるんじゃないのか?」
「そうだったら気持ちよく死ねるんだろうね。でも、どこにいるのかも、生きているのかも…」
「調べたらいい」
「そんなことしたって、自分がみじめなだけよ」
「私が調べてあげるよ。私は執筆の仕事をしてるから調べることは得意なんだ」
「作家さん? …あなたの名前、聞いてなかったわね」
「…子之神竜」
こうして、二人は報復の一歩を踏み出した。
〈第43話「妖子の母親」につづく〉
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