第43話 妖子の母親

 越前谷真佐江の住まいは鷹巣の駅裏の田園に隣接する一角にあった。周囲の住宅からは浮いた存在の廃虚のような荒れ放題の一軒家だった。人気など全くない。しかし、遠くからその家を見ただけで、妖子には母親の気配が感じられた。

 妖子が家の前に立った時、高齢男性が玄関の戸を開けるのと出くわした。高齢男性は体裁悪そうに、そそくさと去って行った。妖子の全身を、忌まわしい過去の悪寒が走ったが、意を決して玄関の戸を開けた。すると、目の前に幽霊のように真佐江が立っていた。


「誰だ?」


 真佐江は妖子を見てすぐに自分の娘だと分かった。


「…来たのか」


 真佐江は妖子を部屋の中に入れず、玄関に腰を下ろした。


「何しに来たんだい?」

「・・・・・」

「どこまでも邪魔な子だね、おまえは。折角出てったんだから、のこのこ現れることはないだろ」

「私が邪魔?」

「そう、邪魔」

「私もずーっとそうなんだろうと思ってたけど、それは間違いだったわ」

「私には邪魔なんだよ!」

「そう、あんたにはね。でも私にはあんたが邪魔だってことに気が付いたのよ」

「それが生んだ親に言う言葉かい」

「生んだ親だから言えるのよ」

「いっそこの手で殺しておけば良かったよ」

「放っとくのは殺すより残酷だってことが分からないの?」

「自分の手を汚すのは嫌でズルズルとなってしまった…このままいけば、どうせこの子は死ぬ。今さら仕方がないと思った。どうせこの子の未来だって、あたしみたいになる、いや、それ以下かも知れない。なら、今死んじゃったほうが楽に決まっているんだけどね。一銭にもならない子ども如きで自分の手を汚すのはね」

「母親の自覚は微塵もなかったの?」

「母親って子どものためだったら何もかも犠牲にしなきゃいけないのかい? あたしは米のとぎ方も知らん、料理も出来ん、おまえが風邪を引いたってどうしていいか分からないから放っといた。なぜだと思う? あたしも母親に何もしてもらえなかった。だから母親のとおりに生きただけだよ。どうせ生きてたって仕方がない子どもなんだから」

「ならどうして私を産んだの !?  堕ろせばよかったじゃない」

「役所に助けを求めたんだけど、窓口の担当者の言葉が刺さってね…大喧嘩して帰った日から転落人生だ。別に、誰も喜ばないのに頑張ったって仕方ないだろ。頑張らないことにしたんだ」

「父親は?」

「誰だか分からん…その中の惚れた男のところに助けを求めに行ったけど、“売女ばいた”って塩撒かれたよ。私は“売女”だったのをすっかり忘れてた」


 真佐江は高笑いをした。


「その人が好きだったのね」

「“売女” なのに血迷って…若かったね、私も」

「報われない自分の人生を子どもに八つ当たりするしかなかったのね」

「そうね。おまえの下の子は殺せたんだけどね」

「・・・!」

「けど、子殺しはきついな…務所の中で、同室者から壮絶ないじめに遭ったよ。てめえらだって悪さして入ってんのに、それは棚上げでいじめやがる。腹立ってそいつの目ををフォークで刺してやったよ。人間、転落するのは早い。底無しだ」

「自分が世界で一番の被害者だと思ったら満足?」

「おまえは未来を見るから苦労するんだ。こんな母親から生まれて未来があるわけがない。母親は選べないからな。運が悪かったな」

「まだ分からないわ」

「ま、何が幸いするかは分からないよな。私だっていいことの一つぐらいはあったよ。務所から出たら、頼みもしない支援団体とかが至れり尽くせりだ。殊勝なふりさえしてれば生活だけはしていけた。あんたらが小さい時にそうしてもらえてたら、もう少しはマシだったろうけど、今更遅い…もうどうでもいい」


 妖子はじっと真佐江を見ていた。


「母さん、お風呂入る?」


 真佐江は妖子の顔をまじまじと見た。


「…そうね」


 妖子は真佐江を空の湯船に入れ、お湯の蛇口を捻って適温を確かめ、風呂椅子に座って湯が溜まるのを待った。真佐江は蛇口から出る湯を無言で見つめていた。湯船から湯が溢れ出した。


「いいよ」


 そう言って真佐江が目を閉じた時には全てが終わっていた。妖子は、人気のない裏道で待つ竜の車に乗った。


「…問題ない?」

「ええ」


 妖子を乗せた車はゆっくりと発進した。二人はしばらく無言だった。国道105号線は擦れ違う車もなく、フロントガラスには延々と闇が続いた。


「母は私に嘘を吐いていた」

「嘘?」

「カルト狩りの日、山小屋で牙家さんが越前谷真佐江の過去を話してくれた…」


 牙家は妖子と雷斗を伴って一足早く山小屋に戻った。灰の中の消し炭を熾し、二人に暖を取らせた。雷斗は慣れない急斜面の山登りで疲れたのか、妖子にもたれてすぐに寝入った。

 牙家は徐に話し始めた。


「あんたがこれから何をしようとしているのか、オレには分かる」

「・・・!」

「それはそれでいい。止めやしねえ。ただ、あんたは真実を知っておかねばならない」

「真実?」

「越前谷真佐江のことだ」

「ええ…あの女の汚れた血が…私にも流れているってことでしょ」

「それは違う」

「・・・ !?」

「正確に言えば…あんたには、真佐江の汚れる前の血が流れている」


 牙家は右肩を出した。その肩先には菱形の痣があった。


〈第44話「牙家の過去」につづく〉

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