第13話 犬が喰わない者

 総会で馬淵澄江が新役員の会計に選任されたのは、天野弥久冶の推薦があったからだ。天野は役員ではないが、マンション住民には一目置かれ、人によっては恐れられている人物だ。役員になることを薦められると、役員にならなくてもマンションのために役に立てることは沢山あると言って辞退していた。


 天野が馬淵澄江を会計に推薦したのは、過日の臨時総会での彼女の質問が、かなりの精度で前役員の会計粉飾疑惑に迫っていたからだ。彼女が目を付けたのは追加補修工事の不自然な頻度だった。引っ越して来たばかりなのに数字に明るい…天野はこの女は使えると思った。

 富根と古宮山は馬淵の質問によって窮地に立たされたが、役員の一人・大坪文冶が激しく庇ってうにゃむにゃになってしまった。それにも拘らず、馬淵澄江の冷静な表情は、天野を奮い立たせ、今回の総会での顛末に繋がっていた。


 大坪はこの土地の自治会で古宮山と会長副会長を務める間柄で、矢面に立つ勇気はないが、二番手のポストで虎の威を借りたいタイプの偽善男だった。会合にはいつもお洒落に気遣う紳士気取りのポーズだが、内実のない全く役に立たないカスだった。天野の最も嫌いな人種だ。古宮山と富根が失脚した今、天野にとってはこの偽善男が次の標的だった。


 この土地には、火葬船が出来て以来の言葉がある。『ここは火葬船桟橋のある村。善い人だけが暮らす村。悪い人が消える村』…かつてこの地は窮地に立った。特定外国人工作員の背乗りで居座るゴロツキ住民が増え続け、抵抗する地元民に対する強盗殺人放火が頻発する無法地帯化しつつあった。しかし、マタギの先人たちが立ち上がり、命懸けで彼らを闇に葬り一掃した過去がある。天野弥久冶はその勇気あるマタギの残党だった。

 天野にとって、実はこのマンションが当時の恐怖の忍び寄りを想起させていた。


 竜は初めての総会出席で、このマンションの人間関係の違和感に多大の魅力を覚えた。そして、役員の再選依存症の大坪文冶をどう料理しようかと舌舐めずりしている天野弥久冶に強い興味を抱いた。


 妖子が “吉報” を持ってきた。


「大坪さんって知ってる?」

「ああ…大坪文治さんね。どうして?」

「奥様が松葉杖よ」

「何があった?」

「病院の帰りみたいだけど、なんかご夫婦の様子が変なのよ」

「変 !?」


 妖子は買い物からの帰途、もうすぐ鬼ノ子実験村に着こうかという辺りで、前を歩く大坪夫妻を見た。妖子はその二人の様子に何か違和感を覚えた。

 妻の京子が両脇に松葉杖姿なのに、夫の文治は介添えすることなく妻の後ろを少し離れて歩いていた。文治が意を決したように京子に追い付いて介添えをしようとすると、京子は明らかに拒否の態度を取ってその場に足を止めてしまった。文治は仕方なく先にマンションに入って行った。それを見届けた京子は、再び歩き出し、マンションに入って行った。


 竜は執筆の机から離れて振り向いた。


「本当か…このマンションは面白いなあ。随分と創作の手間が省ける」


□□□ 大久保俊司がなぜ背伸びしたお洒落に拘ったのか…なぜ団栗の背比べのような肩書に拘ったのか…誰もが俊司の女癖の悪さからだと思っていた。しかしそれは逆だった。俊司の妻・翔子は外交の仕事柄、交友関係が広かった。60歳手前だというのに、濃い化粧にいつもブランド物で身を飾り、颯爽とマンションを出入りしていた。

 濃い化粧には理由があった。夫のDVである。それを濃い化粧でカモフラージュしたのが最初だった。しかし、暴力が常態化し、濃い化粧も毎日のことになった。俊司は翔子の男関係の派手さに疑いを持ち、帰りが遅くなるたびに問い詰めていたが、ある日を境に翔子は外泊を繰り返すようになった。一人娘の美弥が独立して家を出たのだ。そこで翔子の心の糸は完全に切れ、外泊が始まった。

 俊司がお洒落に気を遣ったり、地元役員の小さな肩書に拘ったのは、翔子に振り向いてもらいたいというパフォーマンスだった。しかし、翔子は俊司の無能さに嫌気がさしていた。以来、娘が独立するまでの忍耐の日々だった。その娘も独立し、翔子は俊司に離婚届用紙を渡した。俊司はカッとなってテーブルを蹴った。テーブルの脚が折れ、翔子の両膝に天板が倒れ込んだ。

 医師は怪我の状態を不審に思ったが、翔子は部屋の模様替え中の事故と主張した。自立したばかりの娘のことを考えた結果だった。


「済まなかった」

「・・・・・」

「おかげで逮捕されずに済んだよ」

「勘違いしないでね。そのうち訴えるつもりよ」

「え !?」

「美弥ちゃんが社会人としてもう少し落ち着いたら、あなたを訴えるわ」

「翔子 !?」

「殴るの? でももう殴るだけじゃだめよ。逮捕されたくなかったら殺すしかないわよ」

「・・・・・」

「さあ、やりなさいよ。私は両足がこのとおりで抵抗できない。殺すなら今がチャンスよ。この足が治ったら、私があなたを殺すかもよ。いや、真実を知ったら、私をこういう目に遭わせた仕返しをしてくれる人は何人もいる。外に出たら気を付けてね」

「翔子…」

「全治三か月…病院に行く以外、ショッピングも観劇も食事もできない。三か月間、ここであなたと二人きりだなんて、地獄だわ」

「身勝手だよね、君は…散々男遊びして僕を追い詰めて…」

「それはあなたの妄想でしょ! 妄想で私を追い詰めたのはあなたでしょ!」

「…それが…妄想じゃなかったんだよ、翔子」


 俊司は翔子の前に調査書類を差し出した。□□□


 竜はキィボードから手を放し、いつものように冷めたコーヒーを美味しそうに啜った。


〈第14話「リンゴの花咲く頃」につづく〉

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