第12話 滞納者
ペンが進んだ竜は初めてマンションの総会に顔を出した。
収支報告が済み、新役員選出の前に出された議題は、マンションの掲示板に貼られた『万引きは立派な犯罪です』の万引き現場の隠し撮り写真の件だった。
「掲示板を無断使用した方がおり、その掲載写真であらぬ疑いを掛けられて迷惑している方がおられます。貼紙に心当たりがある方、或いは貼った方を知ってる方はおりませんか?」
1階に住む天野弥久冶が手を挙げた。
「あなただったんですか?」
「私ではない。質問だよ。今、“あらぬ疑い” と言ったが、本当にあらぬ疑いなのか?」
「それは警察にお任せするとして、ここでは掲示板の無断使用が議題ですので…」
「犯人が捕まりゃそれでいいじゃないか。あらぬ疑いを掛けられている人は誰なんだい? おや、役員が一人足りないね」
総会がざわ付いた。写真の主は去る臨時総会で副理事長を買って出た磐井杵子であることは誰の目にも明らかなことだった。
「とにかく、掲示板を無断使用した方は、後で理事会に名乗り出てください。では、今年度の新規役員選出に移ります」
「議長!」
また天野弥久冶が手を挙げた。古宮山はうんざりとした表情で発言を促した。
「前から疑問に思っていたことだが、総会で理事長が議長を務めるということは問題があるんじゃないのか? 規約には総会の都度、出席者の中から選出するとあるぞ」
「そう言われても…それが慣例になっているんでね」
「じゃ、今回から規約どおりにやったらどうなんだ?」
「それは…新役員に判断してもらえませんかね。私らは今日までなんで」
総会は理事長に異議なしの空気だった。
「じゃ、そういうことで…」
「議長」
古宮山は天野に対し、不快感をあからさまにした。
「何ですか、天野さん」
「先程の収支報告の件で会計に確認したい」
会計の富根が古宮山同様、不機嫌な態で返事をした。
「…どうぞ」
「滞納額が三桁になってますが、詳細を教えてください」
「詳細ですか?」
「誰と誰がどれだけの金額を滞納しているか教えてください」
「…それは…個人情報保護法で…」
「規約に基いて、管理組合員の権利として聞いてるんだが? 規約には組合員の請求があったときは帳簿を閲覧させなければならない…とある。この件には、個人情報保護法など適用されませんよ」
「・・・・・」
「滞納しているのはどなたですか? 規約では、報告しなければ役員の忠実義務に反しますよ。それとも会計を辞任しますか?」
場が竜の大好物な空気となった。総会がこんな楽しいものなら、これから欠かさず総会に出席しようと思った。竜はおかしなことに気付いた。四人の理事の誰もがだんまりを決め込んでいる。滞納者の名前をただ明らかにすればいいだけのはずが、かなり緊張した表情になっている。竜は次の展開が想像付かなくてワクワクして来た。天野はさらに付け加えた。
「こういう時、議長は役員に返答を促すものだが、理事長が議長を兼ねると、それが出来なくなる。問題があると言ったのはそういうことだよ、皆さん。さて議長である理事長さん、会計に発言を促したらどうなんだ?」
総会は、発言者のないまま長い沈黙に包まれた。耐え切れなくなった古宮山が口を開いた。
「滞納者は…私です」
名乗り出たのは古宮山理事長だった。出席者の驚きときつい視線に役員らは下を向いたままだった。
「滞納中の2年間、役員報酬はどうしてたんだ? 当然、滞納への返済に充てていたんだろうね」
「…いえ」
あきれ返った出席者は言葉を失った。古宮山は居直った。
「別に誰も直接損害を被ったわけじゃないでしょ。滞納分はいつか返せるようになったら返しますよ」
「古宮山さん、あなた、頭大丈夫ですか? 現に損害は与えてますし、滞納分に対してすぐに返済の計画を示す責任がありますよ」
マンションの長老・石田重松の言葉に古宮山が憮然とした。
「何と言われても、目途が立たないんで、返済計画は出せません」
「あなたには受験を前にした子どもさんが二人もおられる。そんな無責任な発言をしてると、差し押さえ後に競売に掛けられて、家族全員部屋から放り出されますよ」
「・・・・・」
「取り敢えず、ご迷惑を掛けたことを、この場の皆さんに謝罪なさったらいかがですか?」
「私は、謝罪しません!」
「古宮山さん」
「しません!」
天野弥久冶はにんまりした。古宮山の横暴ぶりを以前から苦々しく思っていた天野は、他界した朝比奈フジから聞いていた。朝比奈フジは天野と虫が合うらしく、何かと相談に乗ったりもしていた。
かつて、天野と同じ一階に住む老夫婦・柳沢作太郎の妻・幹子が認知症になった折、朝比奈が作太郎と和気藹々に会話しているのを見て以来、浮気相手だという妄想が始まった。ポストに汚物を塗りたくられるなどの嫌がらせが過激化していき、朝比奈はノイローゼぎみになって理事長に相談したが無視された。思い余った朝比奈は、天野に相談してみた。
「とにかく、警察に被害届を出すしかないね」
「古宮山さんは警察に届けたって、相手が認知症じゃどうにもならないと言ってたわ」
「あの知ったかぶりの古宮山が言いそうな御託だな。朝比奈さん、そうじゃないよ。記録になるんだよ。記録になれば、また何か起こった時に、その記録が意味を持ってくるんだから」
天野の言うとおりだった。その “何か” はまたすぐに起こった。警察が動き出し、結局、柳沢幹子は施設送致となった。そんな中、朝比奈は理事会の抱えている恥を天野に漏らした。古宮山の滞納に対して、役員の誰もが黙認する事態だった。天野は朝比奈に約束した。
「鈴は私が付けてやるよ」
そして天野は今回の総会で誰も名指しせず、規約を持ち出して、古宮山の滞納を晒した。古宮山は理事長への再候補を取りやめ、長老の石田重松が新理事長に就任した。厚顔にも会計の富根は立候補したが、最近引っ越して来た経理の仕事をしている馬淵澄江が選ばれた。
その数日後、小宮山晃の妻・節子が脳梗塞となり、夫の無関心で受診が遅れ、後遺症の身となってしまった。しかし、手を差し伸べる住人は誰もおらず、以後、白い眼の対象となって、小宮山一家は転落の途を辿ることになった。
〈第13話「犬が喰わない者」につづく〉
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