第14話 リンゴの花咲く頃

 竜が通う鬼ノ子実験村コロニー内のトレーニングジムに富根が現れた。あの総会から数週間しか経っていないというのに、富根の急激な窶れ方に思わず二度見してしまった。激痩せだけではない。ランニングマシンの上でまるで二足歩行を忘れたかのように実に危なっかしいスタントだ。。

 竜が腹筋マシンでトレーニングしていると、隣のマシンに富根が来た。竜の存在に気付かず、腹筋台に横になったまま一度も起き上がれない様を見て、竜は思わず声を掛けた。


「きつそうですね、富根さん」


 竜に気付いた富根は体裁悪そうに頷き、力なく腕を付いて起き上がり、溜息を吐いた。


「どこかお体悪いんですか?」

「…腰をやりまして」


 腰を痛めてるなら腹筋マシンはまずいだろと思いながら、竜は余計なお世話をしてみた。


「角度変えられますよ、」


 そう言って竜は腹筋マシンを起き上り易い角度に変えてやった。


「しばらくこの角度でやってみたらどうです?」


 富根は素直に従った。何とか起き上がることが出来て竜にお礼を言おうとしたが、竜はもうそこには居なかった。


 帰宅した竜は、机に向かって一点を見つめていた。富根のことを思い出し、あの症状が何であるか見当が付いて不機嫌な面持ちだった。


「逃がさないよ」


□□□ 理事長の不正隠蔽に協力した岡峰は、役員の再任を果たせず、生甲斐をなくした。総会の数日後から体調が激変し、急激な衰弱が始まった。病院の検査結果は岡峰に残酷な裁定を下した。岡峰には思い当たる節があった。理事長からの口止め料で楽しんだ出張マッサージの女からエイズを貰ったようだ。前途を悲観した岡峰は、流れの急な農業用水路に我が身を投じた。


 加害者に復讐を誓った被害者にとって、何が一番残念かと言えば、消したい餌食が自ら消えてしまうことだ。それも、病気で消えていくことだ。復讐はこの手を下して消すことに意味がある。恐怖に追い込んで、後悔に追い込んで、自殺に追い込んで…何れかで消す必要がある。加害者に病気で死なれてしまっては、被害者の達成感が満たされない。

 病気の人間は、迷惑を掛けた他人に対する罪悪感より、己の肉体への苦痛の果てに死ぬ。被害者が、病気は加害者への天罰と思えればご立派でいいのかもしれないが、実質、逃げられ損である。従って、病死する前に消えてもらう必要がある。この場合、病気を苦に自殺というのが自然な流れだ。□□□


 竜が冷めたコーヒーを美味しそうに啜った数日後、農業用水路で富根の溺死体が発見された。地域住民が大パニックになった。富根の死ではなく、富根の死んだ場所が問題だった。エイズ患者によって農業用水が汚染された…その水で育った農作物を食べたらエイズになるという噂が広まった。


 この地域は伏影のリンゴの花が咲く5月中旬が田植えの時期になる。大事な時期に悪い噂が立ってしまった。役場は根拠のない噂にしろ、住民の安心を確保するため、農業用水を三日間阿仁川に流し続けることを発表し、田植えの日程を遅らせることを奨励した。その結果、噂はすぐに消えて混乱は治まった。


 かごめが蒼空と一緒に登校しようとマンションを出ると、杉の鳥居の向こうにパトカーが停まっていた。後ろから啜り泣く声がするので、かごめと蒼空が振り向くと、磐井杵子が婦人警官に伴われて出て来た。任意出頭を拒み続けた磐井は、結局、万引きの常習犯としての証拠が揃って逮捕されてしまった。


□□□ 止めることのできない精神障害の一つとしてクレプトマニア(窃盗癖)がある。夫の死をきっかけに蓄積され続けた馬場高子のストレス発散は、それまで同じ独り暮らしの浅井芙美江が晴らしてくれていた。浅井は、マンション住人の落ち度を探しては、朝のゴミ出しで悪口を広げていた。馬場にとって、その悪口を聞くことが “少しの捌け口” になっていた。その浅井芙美江がマンションから飛び降りて死亡し、その “少しの捌け口” がなくなってしまった。そして、馬場の新たな “少しの捌け口” として、東京から引っ越して来たばかりの家族に向けられた。その矢先の出来事だった。 “少しの捌け口” を得ようとして、 “大きな捌け口” が晒されてしまった。馬場高子のストレスの “大きな捌け口” とは、万引きの常習だった。逮捕されていくその背中には犯罪への反省ではなく、捕まったことへの悔しさが滲み出ていた。先立った夫への恨み、独居老人に敬意を払わない住人への怒り、幸少ない過去への嘆き、高揚することのなかった未来への苛立ち。何もかもが、価値あるはずの自分に対する社会の不当な扱いだった。それに対する馬場高子の報復が万引きだった。一体、この女の生きた意味はどこにあったのだろう。□□□


 竜はコーヒーを口にして、すぐに置いた。妖子が入れた二杯目のコーヒーはまだ冷めていなかった。


 鷹巣駅を降りて学校に向かう途中で、かごめと蒼空は足止めを食っていた。ベンチ暖め組三人が待ち伏せし、鷹羽大橋下の右岸河原に連れて行かれた。


「脱げ! 脱いで素っ裸になれ!」

「じゃ、100万払ってください。触ったら200万、500万払ったら、やらしてあげるわ」

「なめた口利くんじゃねえ! 黙って脱げ!」

「クソ野郎にボランティアはしません」

「おい、やれ!」


 蒼空が怒鳴った。


「あなたたちの未来が見えるわ! あなたたちの溺れ死ぬ姿が見えるわよ!」

「うるせえ!」


 最初に手を出して来た高三の木部篤史が、かごめに熊除けスプレーを噴射されて七転八倒した。怯んだ小金井昇の隙を突いて、かごめはスクールバッグを叩き付けた。鳩尾に打撃を受けた小金井は息が止まって気絶した。それもそのはず、かごめはトレーニングのためにスクールバッグの中には常に20キロのダンベルを入れて通学していた。残った藤村圭吾が戦意を失ってへらへら休戦を言い出して来た。


「わかった、わかった。もうやめようぜ」

「てめえ、腐ったオカマヤロウか」

「なんだと!」


 藤村は不意打ちのつもりだったが、かごめに軽くあしらわれた次の瞬間、思い切り急所を蹴られて情けない呻き声を上げながら悶絶した。


「が体の割に的が小さ過ぎるんだよ!」

「片付けたね、かごめ」

「まだよ」


 かごめは三人を川に引き摺り入れ、棒切れで流れに押し出した。木部篤史が懇願した。


「オレ、泳げねんだよ。勘弁してくれよ」

「じゃ、今から練習しろよ」


 そう言って、かごめは力いっぱい棒切れで流れに押し出した。小金井と藤村は気絶したまま流れて行ったが、木部は必死な泳ぎの練習空しく、沈んで見えなくなった。


「蒼空の予言が当たったね」

「結構、ウケる」


 二人は笑いながら橋に戻り、米代川を流れていく死体に見向きもせず学校に向かった。


 米代川はその語源のとおり、『米のとぎ汁のような白い川』だった。915年に十和田湖火山が大噴火し、その火砕流や火山灰によって白く濁った川になったが、今では澄んだ水が太陽光線を反射して緑の流れを保っている。鷹羽大橋下流右岸は深さと流れの速さが、この地の冬場の大量の雪捨て場として適していた。


 木部ら三人の体は、冬場の排雪同様、すぐに流れの中央に吸われて行ったが、上流に架かる県道24号線の西鷹羽岱大橋に比べ、車も人通りも少ない鷹羽大橋からその姿に気付く者は皆無だった。


〈第15話「怖いお兄さんたちの出番」につづく〉

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