第7話 臨時総会

 今朝のマンションのゴミ出し担当は、死んだ朝比奈フジに変わって理事長の古宮山晃が務めていた。ゴミ出しに出て来た妖子が古宮山に呼び止められた。


「引っ越し早々大変なことになってしまいまして…」

「大変なこと?」

「お隣の部屋の朝比奈フジさんですよ…」

「朝比奈さん、どうかなさいましたか?」

「7階から飛び降りて…ご存じなかったですか?」

「はい」


 妖子は恍けた。


「…そうですか」

「では、失礼します」


 古宮山は、隣人の死に全く無関心な妖子の後ろ姿に薄ら寒さを覚えた。妖子と擦れ違った7階の独居老人・磐井杵子が理事長に小声で話し掛けて来た。


「ご存じ、理事長さん?」

「何ですか?」

「あの子之神さん、お隣なのに朝比奈さんに挨拶にも来なかったんですってよ」

「そうですか…まあ、最近はそういう人が増えてますから…」

「でも、子之神さんが引っ越してきて2日目でこの騒ぎですよ」

「偶然でしょ。子之神さんの引っ越しと、朝比奈さんが亡くなったのは何の関係もありませんよ」

「このマンションは今まで平和だったんですよ! そりゃまあ、子之神さんの奥さんは美人ですから、理事長さんが贔屓目に見たくなる気持ちは分かりますよ。でもね、年の功の私の目は誤魔化されませんよ」

「磐井さん…」

「私は心配で心配で!」


 理事長の古宮山は、磐井杵子の強引なこじつけとは思いつつ、その考えに違和感があるわけでもなかった。


「私はね、フジさんの仇を討ちますよ」

「仇と言ってもね…事故と判断されたんですから」

「事故じゃありません…フジさんは殺されたんです」


 磐井杵子は水を得た魚の如く、ゴミを出し終えるとさっさとマンションに入って行った。


 五月のマンション総会を前に、副理事長欠員による臨時総会が開かれた。磐井杵子が立候補し、全会一致で新副理事長に就任した。磐井杵子の目的は朝比奈フジの敵討ちである。


 新役員になった磐井杵子は朝比奈フジに輪を掛けて子之神シカト作戦に出た。朝のゴミ出しのチェックは厳しくなり、何かと難癖を付けては妖子の出すゴミを持ち帰らせた。妖子はその度に笑顔で受け入れた。それがまた、磐井杵子の顔を逆撫でた。

 それから間もなく、マンション中に子之神一家に対する悪意ある噂が流れた。夫の竜は暴力団、妖子と娘のかごめは売春、息子の雷斗は少年院上がりなどという噂が実しやかに囁かれ始めた。日が経つに連れて、それは事実としてマンション住民に広がった。


「かごめ…ひどい噂されてるわよ」

「知ってるよ」

「どうするの?」

「どうするって?」

「このままだと学校にまで噂が流れてしまうわよ」

「そうね」


 蒼空の心配を余所に、かごめは頓着なく笑っていた。噂をばら撒く磐井杵子、その噂を鵜呑みにするマンション住民、それら全て、子之神家にとっては蜜なのだ。


 そんなある日、マンションの掲示板に隠し撮りされたらしき写真が添付された張り紙が貼られていた。そこには、高齢女性の万引きの現場が映っていた。その高齢女性は明らかに磐井杵子と判るもので、申し訳程度に目線のモザイクが施されていた。説明書きには『万引きは立派な犯罪です』と記されていた。

 役員 “らしき” 人物の犯行現場が映っていることによって、あっと言う間にマンション中が大騒ぎになった。マンション掲示板への貼紙は理事会の許可が必要とされ、すぐに剥されたものの、その情報が消えることもなく、その日以来、磐井杵子は部屋に籠ってしまった。


 緊急理事会が開かれたが、磐井杵子は欠席だった。古宮山理事長が出席を促しに行くと、磐井杵子はヒステリックに拒んだ。


「私じゃありません!」

「あなたも理事のおひとりなんだから、出席してもらわないと…」

「辞めます! 辞めさせてください!」

「しかし、このままではね」

「私に拘らないでください!」

「警察にご相談なさるとか…」

「私のことは放っといてください!」


 磐井杵子はとても理事長の手に負える状況ではなかった。


 妖子は執筆中の竜にコーヒーを運んだ。


「ねえ、今度の総会の案内が来てたわよ。あなたは総会に出席しないの?」

「そうね」

「一応、区分所有者なんだから議決権はあるでしょ」

「そうね」

「そうね、そうねって、どうなのよ」

「まだそこまで執筆が進んでないからね…」


□□□ 老婆の死の真相を明らかにしようと、副理事長を買って出た馬場高子だったが、目線にモザイクの入った犯行現場の写真を掲載され、逮捕の恐怖を味わう日々を強いられることになった。ほんの出来心だった…最初だけは。しかし、夫の他界以降、部屋で話す相手はテレビだけ。初めのうちはモニターの奥で自分の話を聞いてくれている錯覚もあったが、問い掛けにも、怒声にも何の反応も示さないモニターに腹が立つようになっていた。孤独な手はひとりでに犯行を重ねるようになった。罪悪感など全くない。自分は決して悪くなかった。□□□


 キィボードから手を放した竜は、すっかり冷めたコーヒーを美味しそうに啜った。


〈第8話「鬼頭の妻」につづく〉

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