第6話 一万円札

 かごめを呼び出した曽我宗人は野球部室の裏に連れて行った。


「なんとか言えよ」

「・・・・・」

「てめえの差し金なんだろ」

「・・・・・」


 その時、曽我の頭部に強烈な打撃が加えられた。跳ね返ったサッカーボールを受け取ったのは丹下つづらだった。


「ごめん、ごめん、当たっちゃったね」

「何してんだ、てめえ!」

「朝練だけど…てか、あんたこそ何してんの、こんなとこで?」

「…何って」

「あっ、コクってんの、転校生に!」


 かごめを付けて来た聖と伽藍がわざとらしく現れた。


「なに、なに、なに !?」

「こいつ朝っぱらからコクってやんの」

「ちげぇよ!」

「大ニュース! 大ニュース!」

「みんなに知らせないと!」

「やめろーっ!」

「やべぇとこ見られたな、曽我。サリが死んだから乗り換え探してんだろ」

「そんなんじゃねえよ!」

「じゃ、どんなだよ」

「うっせーな、ばーろー!」

「女子サッカー部の連中をここに呼んだろかなあ」

「やめろ!」

「じゃ、ひとつ“ 貸し” な」


 曽我は体裁悪そうにその場を去った。


「戦闘員殺されて、かなり動揺してんな、曽我のやつ」

「子之神かごめさんだっけ?」

「はい」

「あいつに何言われたの?」

「言ってる意味がよく分かりませんでした」

「そう…あいつには気を付けたほうがいいわね。次はベンチ暖め組を使ってくるわよ」

「ベンチ暖め組?」

「野球部のカスどもよ」

「そうなんですか」

「しばらく私たちと一緒に帰ったほうがいいわよ」

「ありがとう…でも大丈夫です。その時はその時です」


 つづらにとって、かごめの言葉は意外だったが、それ以上余計なお世話はしなかった。


「そう」


 そう言って、つづらは朝練に戻って行った。かごめは、聖、伽藍と一緒に教室に向かった。その様子を曽我が見ていた。ベンチ暖め組も一緒だった。


「ツラ覚えたな」


 ベンチ暖め組の犬飼仁司は頷いた。


「あの女…おれにくれ」


 犬飼のおねだりに曽我は笑った。


「気に入ったようだな。ま、うまくやれ」


 妖子が買い物から帰ると、今度はマンションの前にパトカーと救急車が停まっていた。子之神家の隣室の老女・朝比奈フジが管理組合の理事長の住む7階の廊下から飛び降りて即死し、大騒ぎになっていた。

 妖子が書斎を覘くと夫の竜はいつものように机に向かっていた。


「ただ今」

「お帰り」

「隣のお婆ちゃんが飛び降りたわね」

「あ、そう」


 会話はそこで終わった。竜は執筆中だった。モニターのワード画面に文字が躍った。


□□□ 老婆はマンション7階の廊下の手摺りに身を乗り出し、必死に下方に手を伸ばした。もう少し、もう少しと伸ばしているうちに重心が手摺りの外に移動し、その体が柵を越えてしまった。地面に叩き付けられた老婆が最期に見たものは、7階の手摺りの外壁に貼り付いた一万円札だった。その札から垂れた糸がピンと張ると、一万円札は手摺りの外壁から離れてひらひらと舞った。それを眺めながら老婆は息を引き取った。□□□


 子之神家が引っ越して2日目の出来事が、早くも竜の小説に反映された。


 夕方、下校するかごめは犬飼ら数人のベンチ暖め組らにつけられていた。かごめは、この町で最も古い鷹羽大橋に差し掛かると、突然全速力で走り出した。犬飼らもその後に続いて走ると、橋は不気味に揺れ出した。他の通行人たちが歩きを止めて騒ぎ出した。


「走るな! 橋が落ちるぞ! この橋は古いんだ!」


 犬飼らは仕方なく走るのを止めた。かごめはとっくに渡り終え、既にその姿は見えなくなっていた。


「どうせ駅だ! 駅に先回りだ!」


 地元の地理に詳しい犬飼らは、近道を急いだ。内陸線鷹巣駅に着くと、ホームに停車中の電車に乗り込み、かごめを捜したが、まだ姿はなかった。


「どうせこの電車に乗るしかないんだ。ここで待とう」


 その頃、かごめは弟の雷斗と、父の車で帰路に就いていた。今日は竜が子どもたちを車で迎えに来る日だった。


「どうだい? 蜜は香っているかい?」


 父の問い掛けに、かごめは弟の雷斗を見た。雷斗は姉の下校時間より少し早いので、父が迎えに来る日は人目に付かない校舎の裏で読書しながら時間潰しをして待った。


「帰りに教頭先生がプールに浮いてたよ」

「教頭先生って、生徒指導が厳しいって言ってた先生?」

「うん」


 この日に限って雷斗の時間潰しの指定席には先客が居た。言い争う声がしたので物陰から覗くと、教頭の早瀬秀司と音楽教師の下條律子だった。


「いい加減、返済していただけませんか、教頭先生?」

「君と私の中じゃないか…もう少し待ってくれよ」

「あのお金がいるんです」

「次のボーナスで返すから…」

「何度もそう仰いましたよね」

「親の介護費用が掛かっちまってね…」

「返していただけないなら、奥様にご相談させていただくしかありません」

「バカな…そんなことをしたら君だってお終いだろ」

「仕方ありません。退職覚悟です。今、お金が必要なんです!」

「下條さん…」


 教頭は律子に抱き付こうとしたが素早くかわされ、バランスを失って倒れた先にブロックが積まれていた。そこに頭を打って、そのまま動かなくなった教頭を見て、律子は慌てて其の場を離れて行った。暫くして意識を取り戻した教頭は、フラフラと歩き出し、プールの傍を通った時によろめいて足を踏み外した。水から這い上がろうとプールサイドに近付くたびに、棒切れで遠ざけられ、瀕死の教頭は急激に体力を奪われていき、ついには溺れて動かなくなった。棒切れを捨てた雷斗は無表情でその場を去った。


 竜は帰路、少し遠回りして、国道105号の笑内おかしない駅手前を左に折れて阿仁あに伏影ふしかげに向かった。幻のリンゴといわれる伏影リンゴを農家に直接予約するためだ。


「きれい!」


 かごめたちが立ち寄ったりんご園は、丁度開花の時期を迎えていた。一面白い可憐な花が咲いていた。

 伏影地域は、この鬼ノ子地区唯一のりんごの産地と言われている。その昔、収入源だった熊のくまのいを売り歩くマタギ猟師が、青森県からりんごの苗木を持ち帰ったのが始まりとされる。石が多い土壌は畑には不向きだが、水捌けで酸素や養分が根に行き渡り、この地域の澄んだ水によって甘い大玉に育った。地域限定品のため『幻の伏影りんご』と呼ばれるようになった。


 竜はかごめに一万円を渡した。


「かごめ、これをあのおばあちゃんに渡してきてくれ」


 りんご園から笑顔の高齢女性が出て来た。竜とは既に顔馴染らしく、声を掛けて来た。


「お茶飲んで行くかい!」

「また今度にします!」

「んだが《そうかい》、相変わらず あじましぐねな《忙しい人だね》」


 高齢女性は笑ってかごめから一万円札を受け取って、帰路に就く竜たちに手を振って見送ってくれた。


〈第7話「臨時総会」につづく〉

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