4-5

 その時。

「真耶!」

 真耶が歩いてきたのとは反対の方向から、瞬と考司が駆けてくる。

 二人は定刻どおり私鉄に乗り、M港駅で降りてからしばらく国道沿いに歩いた。その方が近道だったからだ。だが、死のうとしている人間が国道を堂々と歩いているはずはない。岬が近づいてきたところで二人は遊歩道に下りて、それからは会話する余裕もなく足を動かした。おかげで間に合った。見つかった。

 汗だくで息を切らせる二人を、真耶は悲しい目で見つめた。

 この前の冬と同じ。どうして二人は追いかけて来るのだろう。どうして見つけてしまうのだろう。

 真耶は二人を無視した。もう言葉も交わさなくていい。再び歩き出そうとする。

「待って、真耶。行かないで。お願い」

 瞬がぐるりと真耶の前に回り込み、行く手を阻んだ。

 振り向くと考司がスマホを耳に当てていた。

「もしもし、良二さん。見つかった。T岬。観光案内所の駐車場から、わりと近い位置。林の中の道に。はい」

 真耶はスマホを握る考司の手を思いきり叩こうとした。だが考司の反応は速い。すっと身を引いて真耶の手をかわし、無事に通話を終えた。

「今さらパパが来たって遅いよ」

 真耶の声は冷たく、感情がなかった。

 瞬は真耶の進路を遮ったまま、対抗するように冷静に言った。

「真耶。質問がある。真耶が聞こえている「声」についてだ。それが特別な力だって、自分で気づいてるよね」

 第六感のことに触れられて、真耶の目が微かに見開かれる。

 どうやら瞬の推測は正しかったらしい。

 真耶はすぐに無機質な態度を取り戻して、平然と答えた。

「気づいてるよ。小さい頃、頭で聞こえた声に対して返事したら、お父さんもお母さんも変な反応したから。口から出てない声は聞こえてないふりをしなくちゃいけないって、なんとなくわかった」

 小さい頃?

 瞬の脳裏にちらりと疑問が浮かぶ。

「真耶はいつから「声」が聞こえたんだ?」

「生まれた時からだよ。途中で半分になっちゃったけど」

 生まれつきの第六感。

 聞いたことはないが、そういうパターンもあるのか。考司のように成長の途中で覚醒するタイプと違う。

 今度は考司が尋ねた。

「途中で半分になったって、最初は全部聞こえてたのか?」

「うん。全部。昔はコウちゃんの考えてること、全部わかったよ」

 にぃっと真耶が大人びた笑みを浮かべる。考司が珍しく戸惑い、言葉を失くした。

 半分聞こえなくなった。

 今真耶に「声」として聞こえているのは、自分に向けられる負の感情だ。

 それならば聞こえなくなった半分は、正の感情だ。好意や優しさ。

「いつから聞こえなくなったんだ?」

「海で溺れた時」

 真耶が答えた瞬間、考司はびくりと肩を震わせた。

 あの時溺れていなければ、真耶には今も優しい人の「声」が聞こえていた。

 あの時、溺れなければ。

 瞬は落ち着いていた。むしろどこか安心する。

「そうか。だったら、真耶は知ってるんだな。自分に優しい「声」も、聞こえないけどこの世界に存在するって」

 それを知っているなら、瞬の言いたいことはきっと伝わる。

 辺りはどんどん暗くなっていく。夜になる前、真耶の表情が見える間に少しでいいから心をこちら側に連れ戻したい。

「真耶に優しい「声」は、聞こえなくなっただけで今もちゃんとあるんだ。真耶が「静か」だって思う人は、真耶を大切に思う人だよ。そういう見分け方はできる。だったら」

「兄さんになにがわかるの?」

 真耶はようやく少し感情的になった。怒りの火が灯った瞳で瞬を睨む。

「兄さんもコウちゃんも私以外の人間はみんな、最初からなにも聞こえないんでしょ? 喉から出る声以外、なんにも聞こえないんでしょ? だからわからないよ。私は昔全部聞こえたのに、途中から半分聞こえなくなった」

 最初から半分しか聞こえない方が、まだマシだったのかもしれない。そうすれば世界にはきれいなものなどひとつもないと、全てを諦めていられた。

 真耶を悲しませるのは不審や軽蔑の声ではなく、幸せだった頃の思い出だった。確かに手の中にあったものを、気づかない間に奪われた。

「聞こえない声が存在するのはわかる。でも、聞こえる声の方が強く印象に残るに決まってるじゃない。口で優しいことをいう子も、頭に聞こえるのは汚くていやな声ばっかり。人間ってそういうものなんだよね。知ってるよ。知ってるけど許せない。だって汚いものは汚いじゃない。いやだよ。最悪だよ。こんな世界、私はもういらない!」

 真耶は林の中に飛び込んだ。道らしい道はないが、波音の近さから岬は近い。太陽はわずかにオレンジの光を漂わせているものの、空の大部分はもう紺に染まっている。

 薄暗さに難儀しているのだろう。林を駆ける二人の足音は後方で確かに聞こえるが、真後ろに迫っている感じはない。

 バッと、急に視界が開けた。

 海が見える。

 きらきらと残光を反射する、透明に近い水面。切り立った岩場に波が打ちつけられて、白く粉々に砕け散る。サブン、サバン。大きな波音。風が冷たくて気持ちがいい。

 真耶は断崖に立った。

 ザッと林を抜けて、瞬と考司も岬に出てくる。

 真耶は崖のギリギリまで歩み寄った。

 高い。切り立った岩場と渦を巻く潮。

 足がすくむ。

「真耶は、僕や考司のことも汚いと思うのか?」

 瞬は波音にかき消されないよう、大きな声で言った。

「真耶が「静か」だって言った、中山や父さんのことも、汚い世界の一部に含めて切り捨てるのか?」

 真耶はゆっくりと振り返った。潮風に煽られた髪がぶわりと舞い上がる。

「兄さんやコウちゃんは、汚くない。静かだから」

 静かな人間は真耶を失望させない。代わりに不安にさせる。

「私のことを、少なくとも嫌いじゃないってことはわかる。でも、それだけ。それ以上は思えない。ただいやな声が聞こえないっていうだけで、私のことを「好き」だとまで思えないよ。そんなこと、とても思えない。聞こえないと、わからないよ」

「じゃあ喉を使って言うよ。僕は真耶が好きだ。大切に思ってる。だから生きていて欲しい。今、いやな声は聞こえないだろ。だったらこれが真実だ。聞こえない分の声はこうして僕が伝える。そしたらまた信じられるだろ。この世界にきれいなものもあったって、思い出せるだろ」

 これが瞬の精一杯だった。

 恥ずかしさも躊躇いも感じない。

 ただ瞬の心からの声が真耶に届くように、それだけを願った。

 真耶の瞳はいつの間にか濡れていた。真耶本人もそれに気づいて驚いている。頬をつたう一筋の雫を指で払って、真耶は笑った。特別にきれいな笑顔だった。

「ありがとう、兄さん。本当に、ありがとう。嬉しいよ。きっと、嬉しいんだと思う」

 しかし真耶の笑顔は一瞬で崩れた。子どもが泣き出す時のようにくしゃっと顔が歪む。

「でも、ごめん」

 真耶の喉の奥が鳴る。ひく、と嗚咽が漏れる。

 ごめん。本当にごめんなさい。

 誰に謝っているのか、真耶は何度も繰り返した。そして。

「今と同じこと、パパが言ってくれたらよかった」

 涙に震える声で言った。

「さっきも思った。パパだったらよかったのにって。私はパパに見つけて欲しかった。瞬とコウちゃんじゃなくて、一番に、パパに来てほしかったの」

 真耶の言葉は刃のように瞬の胸に突き刺さった。

 なんだそれ。

 なんでそんなことを言う。

「だってパパは最初から今までずぅっと静かなおとなの人なんだもん。学校の先生もお母さんも、私のことをすぐ「変」って、「おかしい」っていうのに。パパは私がなにを言っても、なにをしても、そんなこといわなかった。ずっと静かなままだった。だから」

 だから。

 言葉の続きを聞きたくない。

「好きなの。だいすき。パパのことが」

 瞬は膝から地面に崩れ落ちた。

 嘘だ。

 嘘だ嘘だ嘘だ。

 考えたくない。

 真耶と父。

 確かに血は繋がっていないが、いくつ歳が離れていると思っている。

 それに父には妻がいる。真耶の母親が。

 考司が何度世界をやり直したって報われない想い。

 真耶はどうして自分を悲しい方向へ導くのだろう。

 考司は途方に暮れる瞬とぽろぽろ涙を流す真耶を、ただ眺めていた。

 真耶はぐすんと鼻を鳴らして、再び話し出した。

「パパはお母さんと再婚したから、私はパパのお嫁さんになれない。でも、ちゃんとした娘にもなれない。血が繋がってないんだもん。それなのに、次に生まれてくる子どもはパパとお母さんの血を両方持ってるんだよ。そんなのが生まれてきたらどうするの? 生まれてくるのがもし女の子だったら、私はどうしたらいい?」

 考司は理解した。

 真耶が死にたい理由。

「ちゃんとした娘ができるんだよ。パパにとって、再婚者の連れ子じゃなくて、自分の血を引いた初めての女の子が生まれてくるの。そんなのかわいいに決まってるよね。かわいがるに決まってるよね。血が繋がってない子より、繋がってる子を大切に思うよね。私はそれを近くでずっと見てなくちゃいけない。そんなの無理だよ。耐えられない」

 考司は一歩真耶に近づいた。

「真耶、よく聞け」

 真耶はいつも、止める時間も与えず勝手に絶望して勝手に死んだ。この時間は、瞬と二人で道を切り開いて手に入れたものだ。無駄にはしない。

「お前は、勘違いしてる。父さんが死んでから身近に無償の愛情を注いでくれる大人がいなかったから、父親に憧れを抱いてるだけだ。それは恋愛感情じゃない」

 真耶が濡れた瞳で考司を見る。

 闇に飲まれていく空と海の境界線。空にはうっすらと月が見え始めていた。

「良二さんは新しい子どもが生まれたからって、真耶のことを蔑ろにすることはない。そりゃ小さい赤ん坊は手がかかるから、自分よりかわいがられているように見えるかもしれない。でも、良二さんはお前のことも同じくらい気にかけてくれる。お前は自分で思ってるより手のかかる子どもなんだよ。放っておけるか」

 本気で思っていないことが半分くらいある。

 どうしたって結局わずかな優劣はつくだろう。人を平等に愛するなんて不可能だ。

 今はそんなこと言わない。

 林の向こうの道からガサガサと音が聞こえた。

「ほらな」

 考司が顎を上げてその方向を示す。

 木々の陰から荒家良二が現れた。

 枯葉をいくつか頭に乗せ、高そうな靴を汚して、暗い林の中を歩いてきた。

 真耶の心は波のように揺れ始めた。

 今すぐ駆け寄って胸に飛び込んでしまいたい。

 だけど、この世界に新しい命が生まれてくることは変わらない。

 だからもう戻れない。真耶は動けなくなった。

 一歩後ろに下がれば海の底に落ちる。張り詰めた状況を見て、良二はゆっくりと真耶に近づいていった。

「真耶、無事だったのか」

「いや。待って。来ないで」

 言葉で抵抗するものの、足は動かない。

 一歩後ろに踏み出せばいいだけ。でも、パパがすぐ近くにいるのに。

「考司の話、途中から聞こえたよ。新しい子どもができたら自分が蔑ろにされるんじゃないかって、不安だったんだね」

 ゆっくりと、しかし着実に距離を詰め、良二は真耶の前に立った。

 手を伸ばせば届く距離。腕を掴まれたらもう逃げられない。それでも真耶は動けなかった。ただ涙だけが絶えず目から溢れる。

「泣いても目はあんまりこすっちゃ駄目だよ。角膜に傷がつく」

 両目をこする真耶の手を、良二は優しく握り、降ろさせた。代わりに頬の涙をハンカチで抑えるようにして拭う。

 真耶はその間、夢でも見ているようにぽーっとしていた。

 その隙を逃さない。良二は真耶の背中に腕を回して、身動きができないようにした。

「真耶。僕は真耶を大切に思っているよ。親が子どもを大切に思うのは、頭がいいからでも、悪いことをしないからでもない。僕は真耶がどんなことをしても、次にどんな子が生まれてきても、真耶を大切に思う。それはずっと、変わらないよ」

 きゅっと、良二の腕に力が込められる。

 抱きすくめられた真耶は暖かい腕の中で小さく呼んだ。

「パパ」

 良二は真耶の身体をそっと離した。肩に手を置いたまま、顔を覗き込んで真剣に言う。

「僕は本当に、心から真耶の幸せを願ってる。だから」

 肩を掴んだ腕を一瞬引いて。

「もう、帰るんだ。おとうさんのところへ」

 思いきり突き飛ばした。

 濃紺に染まった海を背に。

 薄白く輝きだした半月に照らされて。

 真耶は落ちていった。

 崖の向こうに。海の中へ。

 ドパンと音がする。

 真耶が落ちた音なのか、ほかの波が砕けた音なのか区別がつかない。

 最初に悲鳴を上げたのは瞬だった。

 崖の端まで駆け寄って行き、身を乗り出して下を覗き込む。黒い岩と渦を巻く波だけが見える。真耶は浮かんでこない。

 そうとわかると、瞬は考司に縋りついた。

「考司! おい、早く! やり直してくれ。こんなのは嘘だ。なにかの間違いだ。なぁ、考司。前に言ったことは撤回する。切り落としていいから。ここにいる僕ごと。だから」

 考司は目も口もぽかんと開けたまま、真耶がいなくなった断崖をずっと見ていた。

「だめだ」

 考司の心も体も、まだここにある。

「まだ生きてる」

 海の中。

 真耶は波にのまれて、水を呑んで、溺れている。

 その時、ポケットの中に入れていたスマホが振動した。画面を見る。公衆電話から着信。

 考司は呆然としたまま通話ボタンを押した。

「やあ、考司。僕の声、まだ聞こえるかな」

 ひどく聞き取りにくい。昔のラジオのようなノイズだらけの音。

 それでも誰の声かは判別できた。

「お前、か」

 十七歳の、未来から転移してきた瞬。新谷が「いなくなった」と言っていた。やはりまだ消えていなかった。この状況は、お前が仕組んだものなのか。

「結局僕の存在は真耶の生死とリンクしてるんだな。真耶が死なない限りあの未来は変わらないってことか。じゃあやっぱり最初からこうするしかなかったのか」

 瞬は完全に疲れ果てた様子で、苦しげな息さえ聞こえてきた。それでも、ふっと笑ったのがわかる。

「考司。僕が協力者に選んだのが新谷だけだと思ったか?」

 考司はゆっくり視線を動かした。まだ崖の端に立ったままの、良二の姿をとらえる。

「こっちに来てすぐの頃から、電話で連絡はとってたんだよ。お前に捕まる前までは、結構頻繁に、テレカ使い切るくらい。さっきやっと父さんに会えたよ。お前が新谷に旅館の場所教えてくれたおかげだ」

 新谷の足を使ったのか。でも、拘束されていたのにどうやって。

 疑問は湧いてくるのに、言葉にならない。声を出せなかった。

 瞬は考司にかまわず続ける。

「今朝身体が透けてるのを見て、足掻けるだけ足掻こうって決めた。そう決めたら身体にも力が戻ってきて、動けるようになった。手首の拘束なんて形だけのもので、力をいれたら取れるって前々からわかってた。あいつ、近くのコンビニだからって部屋の鍵を掛けずに出ていったんだ。同じキーホルダーに車の鍵もついてた。手を捻ると拘束はすぐに解けたよ。服を着替えて駐車場に出て、新谷の車の扉を開くようにしてから、鍵だけまた部屋に戻しておいた。それからこっそり車に乗って、内側からロックして、後ろの荷室に隠れて、新谷が動くのを待った」

 考司は瞬の話を聞きながら思い出す。二度訪れた新谷のマンション。二階の部屋。窓からは確かに駐車場が見えていた。

「僕がいないって気づいたら、あいつは考司に連絡するはずだ。今日が僕の知っているとおりの今日なら、そっちの状況も聞かされるだろう。新谷は案の定すぐに車に乗り込んできて、カーナビに旅館の名前を入れた。ちなみに僕も三年前同じ旅館に泊まったよ。新しい子どもの話を聞いて真耶が逃げ出すのも、同じだっただろ。ただ、僕がいた世界では結局考司と二人で真耶を見つけて、説得して連れて帰ったんだよ。僕はそれを変えたかった。それしか方法がないと思った」

 そうか。真耶が生き延びる世界も、あるにはあったのか。

 考司は耳から入る言葉を聞いて、ぼんやり思う。

 ザーッとノイズが絶え間なく流れ、しだいに大きくなっていく。

「新谷が旅館の近くに車を止めて真耶を探している間に、僕は荷室から抜け出して旅館を目指した。あの時、他の人に僕はどう見えてたんだろうな。旅館の入り口で、ちょうど考司から電話を受けて出ていこうとしてる父さんと会ったよ。そこで最後の忠告をしておいた。父さん、K高の制服姿見て喜んでくれたな。ははは」

 乾いた笑い声はどこか悲しげだった。

「なぁ、考司。僕は」

 続く言葉はなかった。

 ガタンとなにかが落ちる大きな音がして、ノイズが止んだ。もうどんな音も、声も、聞こえなかった。間もなく、通話が切れた。

「あ」

 渇いた喉から声が漏れる。

 身体が軽くなる。心が半分なくなったような感覚に陥る。

「真耶が、死んだ」

 うわ言のように零した。

 足元に縋りついていた瞬がわあっと叫ぶ。

 現実感を失くし、夢のように遠のいていく世界の中で、良二が近づいてくるのが見えた。

 目を閉じようとした瞬間、ガッと肩を掴まれる。

「やり直さないでくれ、考司」

 あまりの勢いに、立っていた考司は岩場に尻餅をついた。

 痛い。

 痛みで意識がはっきりする。

 次に右頬を打たれた。

 痛い。

 肩を大きく揺すられる。

「もう二度とやり直すな。ここにいなさい。ここで生きろ」

 低く恐ろしい声が聞こえた。

 この人からこんな声を聞いたことがあっただろうか。

 呪いのような言葉が頭の中を回る。

 やり直すな。ここにいなさい。ここで生きろ。

 やり直すな。ここにいなさい。ここで生きろ。

 やり直すな。ここにいなさい。ここで生きろ。

 声が意識を侵食する。

 この世界を離れられない。

「父さん! どういうことだよ」

 瞬が父の腕を掴む。それすら振り払って、良二は再度考司の頬を打った。

 痛い。

「未来から来たという少年から電話があったんだ。有加里さんのお腹の子を守りたければ今から言う話を信じろって。四月の始め頃だ。有加里さんが妊娠したことは、その時まだ誰にも言っていなかったから、知っている人間は産婦人科の医師くらいだった」

 瞬は身近な人間のケータイ番号は覚えている。昔考司の番号すらそらで言うのを聞いて驚いたくらいだった。だから公衆電話からでもクリニックを経由せず、直通で父に連絡がとれた。息子は父の仕事の休憩時間だってちゃんと把握している。

「彼(、)が語る話は、悲惨だった。生まれてくる子どもは女の子らしい。三年後、真耶がその子を階段から突き落として殺すって言うんた。信じられなかったよ。真耶がそんなことをすると思えなかった。三歳にならない妹を、なんの理由があって殺すんだって」

 瞬と考司はなにも言わなかった。先ほどの真耶が言ったことを思い出している。

「理由は「嫉妬」だって彼は言ったよ。意味がわからなかった。それから何回か電話で話す内に、第六感のことや真耶の心情を聞いて、ようやく少し理解した。そういう未来もあり得るかもしれないと思えた」

 考司も、きっと瞬もそう思ったはずだ。

 真耶は生まれてくる子どもを決して祝福できない。妹が加わった家の中で、真耶にとっては地獄のような時間が過ぎていく。

 三年間。それが真耶の限界だったということだ。

「今日のことも、予言されていたんだ。新しい子どもの話を聞いたら真耶は取り乱して、死のうとする。だが、真耶を追わずに新しく生まれる命を大事にしろと注意された。真耶の様子を実際に見て、わかったよ。あの子は」

 良二はぐっと奥歯を噛みしめる。絞り出すような声で言った。

「あの子は、生きているべきじゃない。それでも大切な娘だ。せめて最期は僕の手で、と。そう思ったから、ここに来た」

 瞬の顔が憎悪に歪む。

「ふざけるなよ」

 瞬は父の胸倉を掴んで、拳を振り上げた。しかし良二は瞬の身体を力づくで無理やり引き離し、岩の地面に押しつけた。そして吠えるように言う。

「あの子が生きていると、あの子を中心に世界がめちゃくちゃになる。複雑な海流みたいに周りを巻き込んで溺れさせて、どこへも行けなくする。考司、溺れているのはお前だ。いい加減にやめろ。世界はお前と真耶だけのものじゃない」

 突然名前を呼ばれ、考司は叱られた子どものように身体をびくつかせた。

「僕にも、有加里さんにも、他の知らない大勢の人にも、辿り着きたい未来があるんだ。僕が行きたいのは平凡でいいから穏やかで幸せな場所だ。お前がやり直す限り、僕たちはそこへいつまでも辿り着けない。真耶は、あの子は、死ぬ運命だったんだ。第六感だかなんだかしらないが、特別な力を手に入れて神様にでもなったつもりか。自分の妹以外の人間ことも考えろ」

 考司は絶望した。

 すっと頬を伝う熱い雫があった。ぽたりと手の甲に落ちる。

 考司は自分が泣いているのだと気づいた。

 父に組み敷かれた状態で、瞬も泣いていた。息を乱し、声を上げ、子どものように泣いていた。

 良二は抵抗する気を失くした二人の息子を眺めて、静かに立ちあがった。

 座り込んでいた考司に、手を差し伸べる。

「真耶は確かにつらい運命を背負っていたかもしれない。同情はするよ。でも、あの子が生きていたら生まれてくる子どもはなんの罪もなく命を奪われるんだ。その方がよっぽどかわいそうだろう」

 考司は呆然としたまま良二の手を取り、立ち上がった。

「瞬。お前もこの檻から早く出るんだ。人生はゲームじゃない。やり直しなんてできないんだ」

 良二は嗚咽する瞬の腕を無理やり引いて立ちあがらせる。歩き出す父の背中を、瞬は頼りない足取りでついて行った。

 考司は最後にもう一度海を見た。

 半月がはっきりと輝きだした空。渦を巻く波。落ちたら二度と身体が浮かんでこないという岬。

 真耶の身体もきっと。ふやけて、砕けて、海に還る。父さんが死んだ海に。

 考司は岬に背を向けた。

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