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真耶はカフェを飛び出した後、偶然出た大通りでバス体を見つけ、ちょうどよく滑り込んできた白いバスに飛び乗った。M水族館経由。その文字だけで行動した。
乗り口で「乗車券をお取りください」と音声が流れる。言われるままに数字の書かれた小さな紙をとって、空いた車内の後ろの方に座った。真耶はバス自体、生まれて初めて乗る。
まだ心臓がバクバクしている。
なんだっけ。
なにがあってバスに乗ったんだっけ。
さっきまで楽しかったのに、なんで逃げ出しちゃったの。
混乱する思考に、すっと全く別の言葉が入り込んでくる。
あんな若い女の子、一人でどこ行くのかしら。変なの。
真耶はそぅっと上目づかいに車内前方を見た。優先席に、地元の住民らしいお婆さんが座っている。真耶をちらちら見ていたが、目が合うとパッと窓の外に顔を逸らした。
陰気な顔。ここら辺の子じゃない。家出かしら。変なの。
優先席のお婆さんだけじゃない。一番前の席に座ったお爺さんからも。一人掛けの席にいる眼鏡のおじさんからも。
変なの。若いのに一人。
どこの子だろう。変な子。
いつものいやな声が聞こえる。
声。
そうだ。声がうるさかったから逃げ出したんだ。声から逃げないといけない。
ピポンと音が鳴り、停留所の名前がアナウンスされる。同時に、バスの前方にある表に映し出された赤い数字が変化した。
なるほど。乗車券に書かれた数字の下に、運賃が表示される仕組み。
あ、お金。どのくらいあるっけ。
真耶は鞄を探った。優衣と一緒に町の雑貨屋で買った安い財布を開くと、千円札が二枚と小銭がいくらか入っていた。二千円ちょっとでどのくらい遠くまで行けるだろう。使い切ってしまったら帰れない。ああ、返らなくてもいいんだった。
窓の外を見る。一時間くらい前にいた水族館がもう見えてきた。展望台だけ行けなかった。展望台じゃなくてもいい。海が見たかった。真耶は降車ボタンを押した。
運転席の横に両替機のついた小銭を入れる場所があった。十円玉が一枚もなかったので、真耶は百円玉をおそるおそる両替機に入れた。ジャララララと楽しげな音が聞こえて、一枚の五十円玉と五枚の十円玉が吐き出された。真耶は計三百六十円の運賃を支払ってバスから降りた。
日がかなり傾いてきている。水族館から人がたくさん出てきていた。入っていく人はいない。五時で閉館らしい。どのみち一人で人混みの中に入りたくなかったから、いいのだけれど。
昼は、楽しかった。あんなにたくさん人がいたのに、兄さんとコウちゃんが近くにいてくれたから、全然うるさくなかった。本当はパパにも一緒にいてほしかったけど。別行動になってしまった。混雑しているからと言っていたけど、本当の理由はちがった。
嘘をつかれた。
水族館から離れて少し歩くと、視界が開けて海が見えた。
「わあ、海だぁ」
独り言を零してしまうほどに、夕暮れ時の海は美しかった。太平洋側の地域ではないから、水平線に太陽は沈まない。代わりに一面オレンジ色に照らされた海と、まっさらな空が見える。カモメが黒い陰になって飛んでいく。浜辺の砂も黒かった。白くない海岸を真耶は初めて見た。
海。
あの日以来一度も連れてきてもらえなかった場所。
お父さんが死んだ場所。
真耶は海沿いの道を歩きながら思い出した。父が生きていた頃の記憶。
未だ少しも色あせない、幸せな声で溢れていた世界。
住宅街から少し離れた丘の上に建つ、大きな三角屋根の家。屋根の色は深い青。お母さんが庭で花の世話をしている。デイジー、マーガレット、コスモス、ペチュニア。花の名前を教えてくれる。台所でクッキーを焼くのを手伝ったこともある。
真耶が花の名前を覚える度。
上手にクッキーの型を押せた時。
お母さんは頭を撫でてくれた。
とってもかしこい子。とっても器用な子。とってもいい子。かわいい私の子。
なにも言わなくてもお母さんの声が聞こえた。
お父さんは大学の先生で、口はあまり動かさない代わりにたくさん声を聞かせてくれた。
真耶。なによりも大切な娘。なにをしてもかわいらしい。将来はきっと美人になる。
抱っこしてもらうだけで声が聞こえた。だからお父さんが大好きだった。
コウちゃん。
コウちゃんは片割れ。双子のお兄ちゃん。気づいたら隣にいた。
コウちゃんはまだ言葉にならない声で伝えてくれた。
ボクは真耶のお兄ちゃん。
真耶はボクの妹。
ボクと真耶は双子。
コウちゃんの考えていることはなんでもわかった。
喧嘩してもすぐに「仲直りしたい」って。
真耶がいじわるすると「ボクを嫌いにならないで」って。
真耶のことを「大好き」だって。
いつでも声が聞こえた。
海で溺れたあの日。
泳げると思って海に飛び込んだのに、波に足をさらわれて、水をたくさん呑んだ。お父さんが泳いでくるのが見えた。大きな腕が身体を強くひっぱるけど、それすら息苦しくてもがく。二人で一緒に波にのみ込まれた。上と下がわからなくなって、お父さんの手も離れていった。だけど、最後に声が聞こえた。
あいしてる。真耶。
それがこの世界で聞いた最後のきれいな声。
病院で目を覚ましたら、もうそこは幸せな世界じゃなかった。
耳はきこえる。ふつうの音は聞こえる。口から出てくる声は。
でも、頭に聞こえる声が半分以下になった。
きれいな声とふつうの声が聞こえなくなった。
残ったのは、汚くていやな声だけ。
お母さんをうるさいと思うようになった。会話は減ったのに、前よりとてもうるさい。いやな声がたくさん聞こえる。口に出す言葉と、聞こえる声が違うことが増えた。お祖母ちゃんや、学校の友だちもそう。コウちゃんだけがずっと静かなままだった
最悪な世界。こんな世界で生きるくらいなら、綺麗な海の中でお父さんと一緒に死んでしまえたらよかった。そう思いながら仕方なく生きていた。
だけどある日、パパが現れた。
荒家良二さん。眼医者の先生。転校してきた荒家瞬くんのお父さん。
家でコウちゃんと遊んでいた荒家瞬くんを、お父さんが迎えに来た時。荒家くんのお父さんは真耶にも挨拶してくれた。真耶を「真耶ちゃん」と呼んでくれた。恥ずかしくて返事さえできなかったのに、荒家くんのお父さんは最初から最後まで静かだった。
そんな大人の人に初めて出会った。
お母さんと荒家くんのお父さんの再婚が決まった時。
「これからは僕が新しいおとうさんになるよ」
そう言われた。
お父さんって、いなくなってもまたできるものなのかな。
お父さんは、海で死んだのに。
よくわからなかった。
だからどうしても「おとうさん」とは呼べなかった。代わりに「パパ」と呼ぶことにした。荒家くんも同じ。お兄ちゃんはコウちゃんのことだから、荒家くんを「お兄ちゃん」とは呼べない。でも「瞬くん」って呼ぶとクラスの女の子と同じになる。家族じゃないみたいになる。だから「兄さん」と呼ぶことにした。
お父さんじゃなくても、パパのことは大好きだった。
お兄ちゃんじゃなくても、兄さんのことは大好きだった。
二人とも静かだったから。特にパパは、ずっとずっと静かだから。汚くていやな声を少しも出さないから。大好き。
だった、けど。
気づくと、水族館からかなりの距離を歩いていた。
いつの間にか車の通りから離れ、木々が茂る道にいる。真耶の他に誰も人がいない。
そういえば温泉街でお祭りをしていた。そっちに人が集まっているのだろう。夜ご飯の時間も近いだろうし。
家族とか、カップルとか。
皆なにも聞こえないから幸せそうにしていられる。
汚くていやな声が聞こえたら、皆きっと一緒にいられなくなる。
真耶みたいに、ひとりぼっちになる。
道をさらに進むと木々が少なくなり、海が近くなるのがわかった。波音が大きい。
そろそろ岬に出るだろう。T岬。自殺の名所で有名な場所だ。真耶も知っている。バスに乗った時、水族館から歩いて行ける距離であることを確認していた。
もう薄暗いし、こんな奥の道まで観光客は入ってこないだろう。
もうすぐ完全に日が沈んで真っ暗になる。そしたら誰にも気づかれない内に海へ飛び込もう。そっといなくなろう。
お父さんが死んだ海で死ねるのはとても幸せなことだ。
今、何時だろう。
日没までの目安が知りたかった。時間を確認するためにスマホの電源を入れる。ブーンと続けざまにスマホが振動する。電話もメールもLINEもたくさん来ていた。全部パパと兄さんとコウちゃんから。と、思ったが違う。一通だけ別の名前のLINEが届いていた。
優衣ちゃん。
『旅行どう? よかったらなんか写真撮ってきて見せてね。あと、GW中うちに遊びに来ない? どっか出かけるでもいいから遊ぼ!』
凍りついてしまいそうだった心が、わずかに動く。
真耶は知っている。
もう優衣が瞬を目当てに真耶とつき合っているわけではないと。とても静かになったからわかる。純粋に友だちとして傍にいてくれるのだと知っている。
最悪な世界で、それでもここまで生きてこられたのは、こんなふうに静かな人たちがいたからかもしれない。
静かだということは、もしかしたら真耶が大切に思われていたかもしれないということ。そうだったのかもしれない。
でも、聞こえない。もう聞こえない。聞こえなかった。結局一言も聞こえなかった。静かなだけでなんにも聞こえなかった。
だから、いい。
真耶は岬へ向かう道へ歩き出した。
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