4-2
四月二十四日。
考司が未来から訪れた瞬の計画を阻止してから一週間。
中学二年生の瞬は放課後、美化委員の仕事をしていた。教室のゴミ箱を、校舎裏のゴミ捨て場に持っていく。
ゴミ捨て場にいくと、同じ美化委員の中山優衣と鉢合わせた。
「ああ、瞬くん」
「ああ」
真耶を介して近い距離にいるが、親しいというほどではない。二人で話すとなると緊張する。瞬と優衣は二人で黙ってゴミを分別する作業をした。
気まずさに耐えかねて、瞬が話を切り出す。
「今年も、中山が同じクラスでよかったよ」
「ん。あ、真耶ちゃんと?」
「うん。真耶はあんまり積極的な方じゃないから」
「私だってそうだよ。だから真耶ちゃんと同じクラスでよかった」
優衣は手が汚れることなど少しもかまわない様子で、丁寧にゴミを分別していった。作業をしながら話を続ける。
「なんか、最近本当に居心地いいんだ。真耶ちゃんといると」
「そうなのか」
「前はね、ちょっと怖かった。真耶ちゃんって、不思議なところがあるでしょ? 人がやましいこと考えてたらぴたっと当たるようなこと言っちゃうし、勘が鋭いところがあるっていうか。それで一年生の春、ちょっと喧嘩しちゃったんだ」
優衣は悲しそうに表情を陰らせた。素直な子だ。気持ちと言葉と態度がきれいに繋がっている。
「しばらく距離置いてたみたいだけど、いつの間にか元どおりになってて驚いたよ」
「去年の夏休みの間に仲直りしたんだよ。それからは真耶ちゃんになんでも話せるようになった」
曲げていた腰を伸ばして、優衣は瞬を見た。ふふ、と楽しそうに笑う。
「真耶ちゃんと二人でいると、私ばっかりずーっと喋っちゃって「鬱陶しくない?」ってよく聞くんだけど、真耶ちゃんはいつも私のこと「静かだよ」って言うの。不思議だよね」
「僕も言われたことあるなぁ。静かだって」
「私、聞いたことあるよ。真耶ちゃんが静かだって思う人。えっとね、瞬くんと考司くんと、私と、瞬くんのお父さんと、あと新谷先生のことも静かだって言ってたなぁ」
「ふうん」
瞬は少し首を傾げた。
真耶が「静か」だと思う人間の基準がわからない。
瞬は学校でこそおとなしくしているが、夕食時など家族といる時はわりと話す。父も率先して食卓を賑わせてくれる。優衣だって真耶の前ではよく話すらしいし、考司は口数こそ多くないものの「静か」という印象からは遠い。新谷は、瞬の印象では静かというより弱々しい感じだったが。
真耶には全員「静か」に思えるということだ。
考え出すと長くなりそうだったので、瞬は話題を変えた。
「中山は、ゴールデンウィークどっか行くの?」
今週末の土曜からゴールデンウィークが始まる。最も今年は最初の祝日が土曜日と被っているため、長期連休は五月に入ってからになる。
「今のところなんにも決まってないけど、できれば真耶ちゃんと遊びたいなぁ。中学に入ってから学校の外で遊んだことないし、また家(うち)にも遊びに来てほしい」
「いいじゃん。誘ってあげたら真耶もきっと喜ぶ。あ、でも今週の土日は、うち、旅行いくんだ。その日以外なら大丈夫だと思う」
「わぁ、旅行いいね。どこ行くの?」
優衣は自分のことでもないのに嬉しそうに顔を輝かせた。
「旅行っていっても隣の県だよ。昼に水族館行って、温泉旅館に泊まるらしい。地元に温泉があるのに別の温泉に行くのって、なんか変な感じがするけど」
「あはは。そんなことないよ。私はずーっとこの町に住んでるから、地元の温泉はただの銭湯くらいに思ってるし。同じ温泉でも住むのと旅行するのは別物だよ」
優衣と瞬は空になったゴミ箱を抱えて、一緒に廊下を歩いた。緊張感はもうなくなっていた。
普段同じ家で生活している家族で、家の外へ行く。同じ家族で過ごす時間が別物になる。新しい家族での初めての旅行。瞬はそれなりに楽しみにしていた。あまり期待はしすぎないようにする。期待と同時に不安も生まれそうになるから。それに、旅行はなんとなく億劫なくらいの気持ちで行く方が楽しい。
泊まる場所は両親の話し合いで決定されていたが、昼に行く場所は子どもたちも一緒に相談して決めた。考司は真っ先に「どこでもいい」と言い、瞬もすぐには行きたいところが思い浮かばなかった。水族館という提案は真耶のものだ。
泳いでいる魚が見たい。
控えめな声で言った真耶の表情はいつもより柔らかだった。普段我儘ひとつ言わない真耶の希望はすぐに通された。その日以来真耶の様子は穏やかで、少しだけ楽しそうだった。
ゴールデンウィークの初日。
目的地は隣県。近場だということもあり、混雑が予想される高速道路は使わない。父はカーナビと助手席の有加里さんの案内を適宜聞き分けながら下道を運転した。
後部座席。兄妹はやや窮屈そうに座っていた。真耶は運転席の後ろに、真ん中は考司、瞬は左側という並びだ。今日は天気がいい。真っ青な空に雲一つない。春の日差しをいやがって、考司は窓際の席を二人に譲った。
出発して一時間半。大きな道路から少し逸れた道にある蕎麦屋で、早めの昼食を摂った。有加里さんがいうにはこの県の蕎麦はちょっと有名らしい。瞬は味の違いなどまだよくわからないが、関西に近い地域なのに饂飩より蕎麦が有名なのは不思議だと思った。
田舎の水族館とはいえ、ゴールデンウィークの昼時はさすがに混雑していた。人混みの中、子どもが小さいわけでもないのに家族五人まとまって動く必要はない。親と子は二時間後に入口の門で待ち合わせることにして、別行動となった。
「どこから見て回る?」
案内パンフレットを見ながら、瞬が問いかける。
「お前らで決めて」
案の定な答えの考司はさておき、真耶に聞く。
「真耶は、どこ行きたい?」
真耶は瞬が持ったパンフレットを覗き込んで、人差し指を伸ばした。
「ここ。海亀とカエルがいるとこから」
「へえ、海亀。なんで最初に?」
「一番端っこの棟だから。順番に全部回りたいの。魚がたくさんいる建物は、最後の方のお楽しみにしたいなって」
「ああ、いいね。あ、でも二時になったらイルカショーがあるから、それは見たいな」
「私も見たい。時間になったら教えて。行こ」
珍しく真耶が率先して歩き出す。瞬はその様子を見て微笑まずにはいられなかった。
「二人きりにしてやろうか?」
後ろから呆れたような考司の声がして我に返る。
「馬鹿。早く行こう。はぐれるぞ」
瞬と考司は真耶の後を追った。
海亀の棟から始まり、フラミンゴ、アザラシ、ペンギンと、次々海の動物を見て回った。真耶は説明蘭に書いてある生き物の学術名を、毎回声に出して読んだ。その後はじーっと生き物を見ている。時折「わ、動いた」と、小さく呟くのが面白かった。初めは無関心を装っていた考司も、説明蘭を興味深げに読んで瞬に感想を言ってくる。なんだかんだで楽しんでいるようだった。
二時十分前、イルカショーのステージに行くと両親も来ていた。離れた席から瞬たちを見つけると、二人揃って手を振ってくれた。人が多く、近くに座ることはできなかったが、同じショーを見て、同じタイミングで驚いたり感心したりしていたのだろう。
ショーの後、再び三人で館内を巡る。カワウソとマンボウの棟を見て、最後に展望台を残し、大小さまざまな水槽のあるメインの建物に入った。
真耶は子どものように目を輝かせて泳ぐ魚を見ていた。身長を超える大きな水槽。群れをなす鰯が素早く挙動を変えて泳ぎ回る。その群れを割って、時折鮫とエイが現れる。青い水の中に、体ごと吸い込まれるようだった。
真耶はずっと見入っていたが、ふと気づくと考司は一歩下がった位置で別の方向を見ていた。ポケットに手を入れて、だるそうにしている。疲れたのだろうか。
あ。
ちがう。
瞬は思い出した。ここはまるで海の中だ。
真耶を見失わないよう注意しながら、瞬はそっと水槽から離れ、考司に声を掛けた。
「大丈夫か?」
「なにがだ」
「今さらだけど、水族館って、その、海っぽいじゃん。お前も真耶も平気なのかなって」
「俺は、泳げないからでかい水槽見ると息苦しくなるだけだ。小さい水槽で魚を見るのは嫌いじゃない。あいつは、顔見りゃわかるだろ。溺れて死にかけたくせに一番堪(こた)えてない。苦手になったのは母さんだ。良二さんがいなかったら、絶対来てくれなかっただろうな」
考司の話を聞いて思う。父が別行動を提案したのは、そういう配慮もあったのかもしれない。イルカショーの時手を振ってくれた有加里さんの顔を思い出す。
「無理させてるのかな」
「いや、大丈夫だろ。本当に駄目だったら真耶が言った時点で却下されてるよ。母さんは新しい家族で、海っていう場所にいい思い出を上書きしたかったんじゃないか?」
上書き。
そうか。
瞬は一人うなずいた。変わらず水槽の前に張りついている真耶の背中を見つめる。
別になにも悪いことじゃない。人間はそうやって前向きに生きていくものだ。悲しいことを悲しいままにしておいたら、前に進めない。過去の記憶が真耶を死に引き寄せているとするなら、真耶の思い出も上書きされてしまえばいい。真耶の父だって、娘には幸せに生きていってほしいだろう。たとえ自分が遠い記憶の彼方へ押しやられるのだとしても。その方が浮かばれる。きっと。
時間が迫り、結局展望台へは行けなかった。だが館内の生き物は全て見た。真耶は満足そうだった。
午後三時半、水族館を離れ宿へ向かった。
水族館から温泉街は、車だと本当に近かった。十五分ほどで遠目に旅館の建物が見えてくる。さらに近づくと、町の所々にテントが張ってあるのが見えた。中に、紺のはっぴを着た人たちが見える。
「今日は春のお祭りらしいよ。旅館は祭りの沿道から離れた静かな場所にあるけど、少し歩けば露店や山車を見に行けると思う」
運転席の父が教えてくれた。
「へえ。あとで見に行こうかな」
瞬は幼い頃の記憶を辿った。両親が離婚する前、瞬は東京に暮らしていた。夏に連れて行ってもらった花火大会を思い出す。普段は鬱陶しくてならない人混みも、祭りの賑わいの中では気にならなかった。
「チェックインは五時って伝えたから、まだ少し余裕がある。お茶でもしようか」
父は器用に空いた道に入って、偶然見つけたカフェの駐車場に車を止めた。
和風建築に上手く洋を取り込んだ、お洒落で真新しい建物だ。大通りから少し逸れただけなのに静かで、ひと気もそんなに多くない。店内はうるさくない程度に繁盛している。五人の家族は、四人席と二人席をくっつけたテーブルに通してもらった。
父はまず有加里さんに壁側一番奥の席を勧め、次いで自身がその対面に座った。瞬は父の隣の椅子に掛け、有加里さんの横には考司、真耶が続いて座った。
地元の牧場から仕入れた牛乳でつくるスイーツと、自家焙煎のコーヒーが売りらしい。育ちざかりの中学生三人は、昼食の蕎麦以来なにも食べていないので小腹がすいていた。ケーキセットを注文する。父はブレンドコーヒーを、有加里さんはアールグレイの紅茶をホットで頼んだ。
店内を見ると、近くの席で若いカップルが仲睦まじく会話していた。二人で別々のケーキを注文したのだろう。ひと口ずつ分け合って、味の違いを楽しんでいる。若い女性はにこにこと絶えず笑っていた。
温かい紅茶をゆっくり飲みながら、有加里さんが言った。
「考司。いつも食事の用意を任せきりにしていて、悪いわね」
かつて引きこもりだった考司が罪悪感から始めた炊事が、なし崩し的に続いていることを両親は申し訳なく思っているようだった。
「いや、別に。料理するの、好きになったし」
「瞬くんも、お風呂掃除とか、なにも言わないでたまにしてくれるでしょう? とても助かっているの」
「僕は、そのくらいしかできないから。洗濯とか頻繁にしてくれるのは真耶だし、その方が助けになってるよ」
瞬の担当する家事なんて全体のごくわずかだ。そもそも家事の担当なんてものはきっちり決まっていない。洗濯も掃除も、気づいたら双子のどちらかがやっている。祖父母の家で暮らす間に躾けられたのかもしれない。
「そうだね。真耶にもお礼を言わなくちゃ。ありがとう」
父が真耶に笑いかける。真耶は恥ずかしそうにこくんとうなずいた。その隣で、考司はグラスに半分ほど残ったアイスティーを、黒いストローでぐるりと回した。溶けた氷がカランと音を立てる。
有加里さんはテーブルに置いたカップを両手で包んだまま、穏やかに笑った。
「家族みんなで仕事や家事や学校のことを忘れて、ゆっくり過ごせる時間があったらいいわねって、ずっと良二さんと話してたのよ」
「今回は近場にしたけど、その内もっと遠いところや海外にも行きたいってね」
父は多忙なのに旅行好きだ。昔行った国の話を聞かせてくれる。
瞬も引っ越してくる前は色んな場所へ連れて行ってもらったが、海外へは行ったことがない。いつか行ってみたい。この家族で。
父は旅行話を終えると、もうだいぶ冷めたであろうコーヒーをひと口飲んで言った。
「実は、三人に報告があるんだ。瞬。考司。真耶。よく聞いてほしい。今年の末か、来年の始めに、弟か妹が、できます」
一瞬、しんと空気が止まる。
「えっ」
真耶が上ずった声を出した。
「え」
次に考司が低い声を零す。
瞬は隣に座る父にぐいっと上半身を向けた。
「父さん、本当?」
「うん。性別はまだわからないけど」
どこか照れくさそうに父は鼻を触った。嬉しいのだろう。幸せなのだろう。だが穏やかな父の表情から、瞬はわずかな不安を読み取った。瞬や、考司や真耶の反応を気にしている。瞬の対面にいる双子は、揃ってあきらかに動揺していた。瞬は父を安心させるために先陣を切った。
「弟か妹、かぁ。なんか、まだ実感ないけど、楽しみだなぁ。おめでとう。父さん、有加里さん」
本当にまだ実感がない。だけど、なんとなく胸が逸(はや)るのは確かだ。
父は安心した様子で、肩の力をすっと抜いた。
「ありがとう、瞬くん」
有加里さんは瞬に向かってうなずいた。本当に嬉しそうだった。
「……おめでとう」
考司も小さく言った。瞬の声を聞いて、その場に最もふさわしい言葉を選んだのだろう。
「ありがとう、考司」
今度は父が考司に微笑みかける。血の繋がらない息子への最大限の感謝がこもっていた。
両親の視線は自ずと真耶に集まった。瞬もそれとなく真耶を見る。考司だけが椅子に深く座ったまま、じっとテーブルの一点を見つめていた。
「どうして」
真耶の声は澄んでいた。
夏の午後に鳴る風鈴のように透き通って、額(ひたい)の近くをすっと冷たくする。
「どうして、新しい子どもをつくったの?」
瞬の斜め前の椅子に座っている真耶は、ゆっくり顔を上げた。蒼白い頬にまあるい瞳。瞬の心はざわめいた。
「真耶?」
呼ぶ声も届かない様子で、真耶はじっと瞬の隣に座る父を見ていた。
「三人じゃ少ないの? 兄さんとコウちゃんと私じゃ、足りなかったの? まだ要(い)るの?」
子どものように質問を畳みかける。
父はすぐに答えられなかった。質問の内容自体に困惑している。傍らで聞いている瞬も同様だった。
父がなかなか答えをあげないために、真耶の表情はどんどん悲痛に歪んでいった。今にも泣きだすかと思うほど張り詰めた顔で、真耶はさらに言った。
「兄さんは真面目で優しいし先生からも信頼されてる。コウちゃんだって頭がすごく良くて友達がたくさんいる。将来きっと素敵な人になるよね。でも、私はそうは見えないよね。わかってるよ。私だけ欠陥品なの。だからその分を補うために新しい子どもをつくったの?」
今度はすぐに父が首を横に振った。
「ちがう。真耶は欠陥品なんかじゃ」
真耶は父の視線から逃げるように、バッと顔を母親の方へ向けた。
「お母さん。今度はもっとかわいい女の子が欲しいの? 私みたいな暗くてなに考えてるかわからなくてちっとも可愛げのない娘じゃなくて。お母さんによく懐いてお母さんの言うことをよく聞いて、お父さんを」
「やめろ」
母娘の間にいた考司が、真耶の肩を掴んで止めた。
「離してよ!」
真耶は大きな声を出して、力いっぱい考司の手を振り払った。勢いで真耶の腕がテーブルに当たり、ガシャンと音を立てる。グラスやカップが倒れることはなかったが、店内の注目を集めるには充分な音だった。
穏やかな談笑に包まれていた店内が急に静かになる。代わりに、流れていたBGMがよく聞こえた。ほんの少しの時間を置いて、人の声が戻ってくる。だが今度は談笑だけじゃない。ざわざわ、ヒソヒソした声の群れ。
真耶も当然、すぐに気がついた。自分が見知らぬ人間の注意を引きつけてしまったこと。そして今も注意を引きつけたままであること。見られている。話題に出されている。
真耶は急に頭に両手をあて、首を何度も横に振った。
「ああ、もう。うるさい。うるさい。うるさいよぉ。ちゃんとわかってるから、変とかおかしいとか、言わないでよぉ」
か細い、泣きそうな声が聞こえる。本当に子ども返りしてしまったのかと思う。そのくらい普段の真耶とは結びつかない態度だった。
頭を押さえていた真耶が、今度はガバッと手を降ろす。涙が溜まった赤い目で瞬と父を交互に見る。唇が震えていた。
「え。なに。嘘。どうして。なんでパパと兄さんまでそんな声出すの」
真耶は椅子から立ち上がる。
「やめてよ、そんな声、ききたくないよ。いや。やだ。いやぁ!」
真耶は再び頭に手を当てて、その場を逃げ出した。
店員と客の目で追われながらも真耶はあっという間に店の出入り口まで走って行き、そのまま外へ飛び出した。
「真耶っ」
瞬の喉からようやく声が出る。椅子に張りついていた身体を持ち上げて、真耶を追いかけようとする。
「待ちなさい、瞬」
立ちあがる瞬の腕を父が掴んだ。手がじっとりと汗ばんでいる。瞬は父の強い視線に諌められ、再度腰を下ろした。父は努めて落ち着いた声で言った。
「有加里さんは無理できない身体だ。これ以上不安定な状況においておけない。ひとまず宿に連れて行って休ませる。そしたら父さんはすぐに戻って来るから、それまでの間、考司と瞬は二人で真耶を探してくれ。足だけじゃそう遠くへは行けないだろうし、まだ日も高い。見つかったらすぐに電話して」
父の指示には有無を言わせない強さが籠っていた。
確かに有加里さんの顔色は目に見えて悪い。父の言うようにすべきだろう。
「わかった」
瞬と考司は同時に立ちあがり、一緒に店外へ出た。車で入って来た道を引き返す。交通量は大通りに比べて少ないが、商店や民家が立ち並び、細い道がたくさんある。見わたしたところ真耶の姿はない。細い道を利用して上手く逃げられたか。祭りの喧騒も近い。人混みに紛れられたら探すのはとても困難になる。
瞬は真耶に電話を掛けた。コールは鳴るが出てくれない。
「どっちに行ったと思う? 祭りの方か、反対側か」
考司が珍しく焦った声を出した。
「わからない。父さんはああ言ってたけど、真耶は鞄を持っていたし、お金があるなら路線バスに乗るかもしれない」
「さっき電車も見えたぞ。青い二両編成の私鉄だ。駅が近いならそっちに乗る可能性もある」
「とりあえずバス停と駅の場所を探すよ。その間、考司は真耶がどう逃げるか考えて」
「逆の方がいい。俺はあいつの行動なんて読めない。バス停と駅の場所は俺が探すから、お前が考えろ」
瞬だって真耶の行動は読めない。土地勘もないから行き先の検討さえつけられない。今こうしている間に、適当に走れば見つかるかもしれないと思うと気が急く。
冷静に、冷静になろう。
まずは真耶が遠くへ逃げるか、近くで隠れるかだ。
たぶん遠くへ逃げる。真耶はとにかくここから逃げ出したかったのだと思う。瞬の推測が正しければ真耶は人混みを好まないから、祭りの喧騒に一人で飛び込んでいくことはないだろう。
「瞬、わかった。ここからだと駅よりバス停の方が近い。ローカル線だからアプリが対応してなくて、ダイヤはブラウザを開いて調べるか、バス停まで行って確認するしかないな」
「行こう。ダイヤを調べてる間にバスが出るかもしれない」
先導を考司に任せて歩き出す。
バス停は本当に近くにあった。角をひとつ曲がると大通りに出て、すぐ目の前に停留所が見つかる。ダイヤには田舎の路線バスらしく数字があまり書かれていない。
「四時五十五分。つい五分前に出たバスがある」
考司がダイヤとスマホ画面の時間を見比べながら言う。二人は一本裏の道にいたから、走るバスを確認できなかった。
「真耶が店を飛び出したのが四時四十分くらいだった。真っ直ぐ迷わずにここまで来たとしたら、乗れないこともない」
「次のバスは六時半か」
考司が深くため息をつく。
六時半。一時間以上先だ。気が遠くなる。
そもそもこのバスはどこに行くんだ。
瞬はダイヤの裏を見た。人が多く乗降する経由地が書いてある。
海浜公園入口、M水族館、T岬経由、M港駅行。
さっき行った水族館の名前がある。
「考司。このバスに乗ると水族館に戻れる。真耶がもし直前のバスに乗ったとしたら、水族館で降りるんじゃないか。展望台だけ見られなかったし」
そんな陳腐な理由だけじゃないだろうが、思い当たる手掛かりにはなる。ついさっきまで、なんの不安もなく真耶がただ笑っていられた場所。戻れば全てが元に戻るんじゃないか。瞬自身がそう思うのだった。
考司もダイヤの裏側を覗き込む。
「水族館で降りてくれてたらいいな」
考司はぼそっと零して、無言でスマホを操作し始めた。
間もなく、ぱっと顔をあげて瞬を見る。
「駅に行くぞ。このバスの終点、M港駅って名前だろ。駅なら私鉄からも行ける。次の電車は五時五十分だ。次のバスを待つより早い」
考司の一方的な意見に瞬は戸惑った。
「ちょっと待て。終点まで行っても、そこから水族館まではどうするんだ?」
「歩くに決まってんだろ。港から遊歩道が続いているらしい。徒歩一時間で水族館に着く」
「徒歩一時間? 無理だ。父さんが戻ってくるのを待つ方が早い」
「良二さんは母さんのこともあるし、いつ戻るかわかんねえだろ。それに、真耶だって閉館間際の水族館の前でずっと突っ立ってるわけじゃない。どこかへ向かって歩き出すはずだ。数学の問題でよくあるやつだ。一本の道をAさんとBさんが端から一定の速度で歩いた場合、対面するのはいつになるかっていう。あの状況」
なんとなくイメージはつかめる。だが納得できない。
「真耶がM港の方に歩いて来るとは限らないだろ。反対の方向に行くかもしれない」
「港の方に歩いてくる可能性が高いんだよ。よく見ろ。このバスは水族館と港の間にT岬を経由してるだろ」
T岬。
名前だけ聞いたことがある。なにかで有名だったはずだ。
「ここは岩が波で削られてできた断崖絶壁の岬だ。飛び込んだら二度と身体が浮かんでこないとかいう噂が広まって、悪い意味で有名になった。自殺の名所だ。もう言わなくてもわかるだろ」
考司は立ち尽くす瞬を置いて歩き出した。と、思ったら、すぐに足を止めた。
「俺、一応良二さんにこれからどう動くか連絡入れとくわ。瞬は先に駅に向かってくれ。しばらく一人で歩いて、落ち着けよ。駅はこの道まっすぐだ」
背中をぽんと叩かれて、瞬はゆらりと歩き出した。
真耶はつい一時間前まで隣で微笑んでいた。
それがどうして、こんなことに。
有加里さんの妊娠の話を聞いて、真耶は急変した。
あの時真耶はなにを言っていた?
よくわからない。だが、わからなければならない。
わからなければ、真耶を止められない。
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