4-1
瞬は真耶と一緒に遠くへ行って、ずっと二人で暮らせたらいいと思った。
覚醒の時は突然だった。
目の前のもの全てが静止した。人は当然微動だにせず、音も止まった。時計を見ると針が動いていない。スマホの画面は真っ暗なまま動作しなくなった。写真のように瞬間を留めた世界の中で、瞬だけが動けた。瞬は自分に第六感があるのだと知った。
時を止める能力。あるいは。
瞬はひとまず自分の部屋のドアノブに手をかけた。開かないかと思ったが、あっさり開いた。瞬は本棚の隙間に挟んである封筒から紙幣を取り出した。お年玉と小遣いをコツコツ貯めたもので、千円札ばかりだが合わせればそれなりの額になる。それを全て尻ポケットに入れていた薄い財布にしまう。
階下に下りて玄関の扉を開けると、真っ暗だった。
空が暗いという意味ではなく、空間自体が暗黒に包まれていた。なにも見えない。前後の間隔もつかめない。
とりあえず一歩足を踏み出したところ、そこに地面はなかった。
落ちる。落ちる落ちる落ちる。内臓が浮き上がる感覚に慄く。
ザッと風景が明るくなった。
昨日の朝食時の風景。やはり写真のように静止している。次に先週の火曜日の帰り道の風景。これも切り取った一瞬の場面だ。そうやって次から次へと映画のフィルムのように風景が連なって、ザアッと下から上へ物凄いスピードで流れていった。瞬はその風景がだんだん過去へ遡っていることに気づいた。Y中の制服を着た真耶と考司が見える。瞬はその風景に自分が溶け込めるように願った。落下する身体にブレーキがかかり、地に足がつくよう祈った。どことも知れぬ方向へ手を伸ばし、ぎゅっと目を閉じる。なにも見えなくなり、瞬の意識は途切れた。
次に気がつくと、ちょうど家の玄関を出た場所にいた。日の差し加減と大気の冷たさから、今が早朝であるとわかる。瞬は早急に家から離れた。ここが瞬の思うとおりの過去の世界なら、家の中には両親と、自分を含む三兄妹がいる。本能的に、見つかってはいけない気がした。
幸い、身に着けているものは一緒にくっついてきている。K高の制服に生徒手帳、ハンカチに財布と、使えないケータイ。K高のブレザーは、着ているだけでもてはやされたり、挙動を疑われなかったりする不思議な効果がある。瞬は早朝の道を何食わぬ顔で歩いた。ケータイSが使えない以上、まずは他の手段で日時を確認しなければならない。
自宅から二番目に近いコンビニに入った。二番目に近いとなると、もはや近くない。自転車もないから、徒歩でかなりの距離を歩いた。
爽やかなBGMが店内を流れている。壁に掛かった時計を見ると、七時少し前だった。新聞の置いてある棚に近づいて、日時を確認する。
三年前の四月一日、土曜日。間違いない。瞬は過去に戻った。中学二年の新学期が始まる前だ。春休みの時期だし、そもそも土曜だから日中に出歩いても不自然じゃない。自分がどれくらいの間この世界にいられるのかわからないが、新学期が始まるまでに活動基盤を固めておかなければならないのは確かだ。新学期は確か明後日の月曜、四月三日にスタートする。そこで仮入学や新任式があって、翌々日が入学式。
瞬は店内で代えの下着とインナーシャツ、さらに食料を買おうとして気づいた。
腹が減っていない。
パンや弁当の陳列棚をどれだけ眺めても、美味しそうだとか食べてみたいという気持ちが湧かなかった。結局、食料はあんパンをひとつと五百ミリリットルの緑茶だけしか買わなかった。通常なら半日ももたない量だ。
ずっと制服を着ているわけにもいかない。服の替えを買いに行くため、瞬は駅に向かって歩き出した。このコンビニから駅までははっきり言って遠い。徒歩なら二時間くらいかかるだろう。だが、バスの交通費も馬鹿にならない。どうせこんなに朝早くてはどの店も開いていないのだし、ゆっくり歩いていくことに決めた。
なるべく人目を避けたいとは思うが、田園が広がる平地の道ではどうしようもない。駅前のさびれたデパートで、上下の服を数着と、荷物をまとめるためのデイパックを買った。
駅前には大きな複合型レジャー施設があり、その中にはネットカフェもある。だが、利用するには会員カードを作成しなければならない。瞬は三年後に発行された身分証明書しか持っていない。そもそも高校生は二十二時以降施設を利用できなかった。
寝泊まりは人目につかない廃墟を探すしかない。瞬は歩いて町に戻り、土日でさえひと気の少ない裏通りの商店街にあるゲームセンターの廃墟に忍び込んだ。もう散々誰かに荒らされた痕跡がある。せめて今日だけは誰も来ないことを願う。先ほどデパートのトイレで確認したところ、財布の中の紙幣は合計で五万七千円にもなった。今の瞬にとっては全財産だが、不良からしたらカモでしかない。
瞬は微かに漂う不衛生な臭いに顔をしかめながら、義務的にあんパンをひと口かじった。咀嚼していく内に気づく。味がほとんどわからない。おまけに飲み込みづらい。喉の奥が狭くなって、なにも通したくないと抵抗する。緑茶で流し込んだが、それ以上食べる気にならなかった。
思えば、あれだけ歩いたのに汗ひとつかいていない。漠然とした疲労感はあるが、脚には痛みもだるさもない。
翌日、空いている時間を狙って共同浴場に行った。湯が熱いのかぬるいのかよくわからない。髪を洗っても爽快感など微塵もなく、いくら身体をこすっても垢が出ない。鏡には確かに自分の姿が映っていたが、なんとなく違和感があった。像が霞むというか、ぶれるというか。
別の廃墟に寝場所を移したが、もはや睡魔も訪れなかった。ただ、目蓋を閉じると意識がすぅっと上に抜けるような感じがする。身体が大気に溶けていきそうな気がする。恐ろしくなって目を開く。そんなことを何度も繰り返した。
人間じゃなくなりかけている。
というか、もう既に人間じゃない。
十七歳の瞬はこの世界のこの時間に存在するはずのない人間だ。
いてはいけない。いなくなるべきだ。
世界の全てに拒絶されているという孤立感。じっとしていたらすぐに消えてしまう。次の日、日が昇るとすぐに瞬は廃墟を飛び出した。
消えてしまう前になんとかしなければならない。
早く作戦を練らなければ。
考えがなかなかまとまらない。気持ちをごまかすためにそこら中を歩き回った。地で足を蹴る感触は存在の実感に繋がった。
気づくと、Y中の近くの道に出ていた。時刻は午前九時を回っている。市内の中学校は今日から新学期だが、この時間なら過去の真耶と自分に遭遇することもない。
空を見上げる。薄い雲がかかっているが、晴間も見える天気だ。考司はこの日登校してきただろうか。覚えていない。不定期に来たり来なかったりする考司を、当時の自分はほとんど気にかけていなかった。記憶に残っていない。
進む道の先。いやな人影が見えた。遠目にもわかる、後ろで束ねた長髪。
まずい。この道は一本道で、道路を横断して向こう側に渡らなければ横道に逸れることができない。交通量の多い道だ。信号のない場所で渡るタイミングは中々訪れない。こちら側の道では田んぼに身を投げるくらいしか姿を隠す方法がない。いずれにせよ悪目立ちする。
いい機会だ。試してみよう。
既に考司は未来から瞬が転移してくることを知っている可能性がある。別の世界の枝で瞬が第六感に覚醒し、過去に飛び、なにか行動を起こした後、最終的に真耶が死んだ場合だ。考司と違って力を使うごとに消滅する瞬には記憶が引き継がれない。それを確かめるためには、だからこうやって試してみるしかない。
瞬はややうつむき加減に、早くも遅くもない速度で歩いた。考司の様子を、焦点の外れた視界で窺う。急いでいるというより、早く日光から逃れたいのだろう。考司はかなり早歩きだった。瞬との距離が縮まっていく。考司は対面を歩く存在に気づいて、左に少し逸れた。
すっとなにごともなくすれ違う。
ふつうに、知らない人とすれ違う時と同じ。目も合わさなければ言葉も交わさない。しかし瞬はしばらく歩いたところで、気づかれないようにそっと立ち止まり、振りかえった。
真っ直ぐY中に向かって歩いていく考司の後ろ姿が見える。振り返る様子はない。今すれ違った人物のことを、微塵も気に留めていないふうに見えた。
瞬が未来から転移してきたのは、これが初めてということでいいのか。
結論を出すのは早急だ。瞬がこの世界で目的を果たすために、考司は絶対に侮ってはいけない相手である。瞬に気づいて、わざと素知らぬふりをしたのかもしれない。考司が未来の瞬の存在に気づいていることを前提に動く方が賢明だ。
日が高くなるにつれ、町に人影が増えた。瞬が歩く姿を、家や畑の近くでじぃっと見ている目がたくさんある。平日の昼間、私服で歩く若い男。今は観光シーズンでもないから温泉旅行に来た客とも思われにくい。だからといって安易に制服でうろつくわけにもいかなかった。制服は子どもの証明だ。学校にも行かずなにをしていると咎められたら困る。
瞬は町の本屋に隣接して置かれた電話ボックスに入った。まさかこの時勢に電話帳を手繰ることになるとは思わなかった。引き方もわからない。法人蘭と個人蘭は別になっていて、あとは、五十音順で並んでいるのか。なるほど。
D町『そよかぜフリースクール』。これだ。
瞬は財布から小銭を出そうとして気づいた。一枚だけテレホンカードを入れていたはずだ。小学生の頃、考司が誕生日にくれたやつ。考司はそれを亡父からもらったと言った。考司の父は昔の漫画雑誌の懸賞で当たったそれを、息子にあげたらしい。子どもながらに「そんな大切なものもらえない」と言ったのを覚えている。考司は「テレカなんて今どき要らない。でも俺は自分で捨てたくない。だからやる」と言った。所持も処分も瞬に任せた。瞬は初めて財布を買ってもらった時、すかすかのカード入れが寂しくてそれを入れた。使うことはないと思っていた。
受話器を取り、古い絵柄のイラストが描かれたテレホンカードを差込口に入れた。『そよかぜフリースクール』の電話番号を、確認しながら押していく。コール音が鳴った。
使えるものは使わなければならない。現金はなんにでも使えるからこそ節約すべきだが、テレホンカードは電話を掛けるためにしか使えない。重要度が違う。誕生日プレゼント。それがどうした。もう関係ない。
ガチャっと音がする。落ち着いた女性の声が、番号に間違いがなかったことを知らせる。
「そちらに、新谷一馬先生はいらっしゃいますか。Y中学校の二年生なんですが、相談したいことがあって」
そう言うと、電話口の女性は瞬の名前を訪ねもせずに保留音を鳴らしてくれた。忙しいのか、業務方針が緩いのか、子ども相手だから警戒していないのか。
「はい、新谷です」
保留音が切れ、男の声が聞こえた。
「新谷先生。荒家瞬です。覚えていますか?」
「荒家瞬くん? もちろん覚えてるよ。久しぶりだね。僕に相談があるって聞いたけど、どうしたのかな」
今日から新学期のはずだけど、と新谷は言わなかった。さすがにフリースクールだけあってそういう部分は注意しているのか。
「第六感世代って言葉、知ってますよね。それについて相談したいんです。両親や妹たちには内緒で、直接会ってお話したいです。できれば今すぐ伺いたいんですけど」
新谷はそういうことなら今日はいつでも大丈夫だと言った。
第六感の有無はともかくとして、特出した部分があるために学校に通い辛い子どもが新谷の周りにはたくさんいるのだろう。第六感があるからこそ普通の生活に馴染めないのだと主張する子どもも、きっといる。だから話が通りやすい。そう思った。
それにこの世界が瞬の元いた世界と大差ないなら、中学二年生の荒家瞬と、Y中を去った新谷一馬との接点は皆無だ。当時の瞬は、新谷がどこでどうしているかなど気にも留めなかった。逆に言えば、新谷がどこでどうしていても中学二年生の瞬は気づかない。都合がいい。
新谷は動かしやすい足になる。そう思った。
瞬はバスに乗り、D町に向かった。
『そよかぜフリースクール』に入って、新谷に会った瞬間、瞬は「いける」と思った。
瞬の身長と顔貌は、中学二年生になりたての少年には見えないはずだ。戸惑う表情が滑稽で面白い。
個室に通され、瞬は新谷にK高の制服と学生証を見せた。そしておおよそ真実に近いことを話した。未来から過去に転移する第六感があること。その力を使って三年後の世界から来たこと。この時代の瞬が家にいるから帰る場所がない。戸籍もない。とにかく困っている。助けて欲しい。
新谷はしばらく考え込んでいた。この時代で第六感と呼ばれるものは、奇術レベルの超能力や秀でた身体能力のことだ。考司の「剪定」もそうだが、人智を超えた能力は未だ発見されていない。だから、すぐに信じられないのも無理はなかった。しかし、目の前にいる瞬がなによりの証拠だ。新谷は頷いた。
「わかった。ひとまず、居場所はつくってあげられる。このフリースクールには宿泊施設がないし、本来なら親御さんの承認が必要なんだけど、瞬くんは特別みたいだからね。僕の部屋でよければ、しばらく泊めてあげられるよ」
瞬は本当に嬉しかった。やっとこの世界で居場所ができる。目の奥が熱くなるくらい、心から嬉しかった。瞬は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、先生」
それでも新谷を「先生」と呼んだのはただのご機嫌取りでしかなかった。こいつは悪い人間ではないのだろうが、教師には向いていない。
「それで瞬くんは、なんのためにここに来たの?」
瞬は頭を上げた。
「え?」
「なにか目的があってこの世界に来たんだよね。無理にとは言わないけど、話してもらえたら嬉しい」
目的。
当然尋ねられると思っていた。
「真耶を……妹を、救うためです」
そう。それは間違いない。真実だ。これから話すことはそうではないが。
「考司と真耶。あの双子は昔からあまり仲がよくないんです。考司が不登校の間は真耶もそのことで随分からかわれていたし、中学に入って登校するようになったらなったで、考司はあんな生活態度です。この年の、始め頃からですね。小さな口論が増えて、僕は仲裁したんですけど、二人は険悪になっていきました。それで、二週間後の月曜日。四月十七日に真耶は通学路の途中で忘れ物に気づいて家に引き返すんです。その日、考司は登校せず部屋で寝ていて、真耶が階段を上ってくる音で目を覚まして、何事だって真耶に問いつめたらしいです。そこからまた口論になって、考司は真耶の肩をほんの少し突いたと言ってましたが、真耶は階段から落ちて、死にました」
新谷は息を呑んだ。返答に困っている間に、瞬は続ける。
「ずっと、あの時自分になにか出来たんじゃないかって、後悔しながら生きてきました。K高に進学して、十七歳になっても、ずっとわだかまりが消えなくて。お盆に真耶のお墓参りに行ったんです。そこで第六感が芽生えて、ふっと身体が浮くような感じがして、気づいたらこの世界にいました」
話していると嘘でも本当のことのような気がしてくる。悲しい気分になる。実際に声が震える。瞬は決して嘘が上手な人間ではない。自分でもそう思っていた。これも第六感の副作用だろうか。
新谷は少し間を置いてから、落ち着いた声で言った。
「安全な場所を提供する以外に、僕に協力できることはある?」
ありますよ、先生。
なかったらあなたになんか頼るわけないでしょう。
「四月十七日、真耶が忘れ物を取りに通学路を引き返した時、家に帰らせないようにしたいんです。それから、しばらく考司と離れさせたい。その間に僕か、あるいはこの世界にいる荒家瞬が考司を説得して、真耶と上手くやっていくように導きます。だから、四月十七日の朝に、真耶を保護してもらえると助かります」
そのためには足が必要だ。免許と自動車。この町で人間が不自由なく生きていくために絶対的に必要なもの。子どもは持っていないもの。
新谷は難しそうな顔をして、長い間考え込んでいた。
「考えておくよ」
新谷の答えは瞬の予想どおりだった。言葉をぼかしたところで、頼んでいるのは女子中学生の誘拐である。ここで即座に了承するならそれこそ正気を疑う。これでいい。
新谷の部屋に滞在する間に、時間をかけて説得しよう。細かい計画も繰り返し伝えなければならない。優秀とは言い難いこの元教師がヘマをしないように。
そして四月十七日。
瞬は真耶の通学路にほど近い公民館にある電話ボックスの傍で待機していた。ここは少し高台になっているから通学路を見下ろせる。顔までは認識できない距離だが、制服を着た人間が学校とは反対方向へ歩いていけばすぐにわかる。真耶が忘れ物をしたと言って引き返したのは七時半から四十五分の間だったと記憶している。当時の瞬は真耶の動向に注意していたから覚えている。だが、この世界で時間がずれないという保証はない。瞬は七時から待機していた。新谷は別の、もっと人目につかない場所に待機している。
瞬は真耶を見つけたら、公衆電話から真耶のスマホにコールする。番号は当然暗記しているから問題ない。真耶には正直に自分が未来から飛んできた荒家瞬だと話す。今ちょうど忘れ物をして家に引き返そうとしているところだろうと指摘すれば信じるだろう。信じてもらえなくてもいい。混乱している間に「長くはこの世界にいられない、消える前に会いたい」と言って真耶を誘導し、新谷が待機している場所まで歩かせれば充分だ。真耶は新谷を警戒しない。一年次の担任だし、部活の副顧問でもあった。新谷には「瞬くんのところに連れて行くから乗って」と、最低限それだけ言うように指示してある。あとの部分は任せた。詳細に言葉を指定すると逆効果な気がしたからだ。瞬を回収しにくる時間も、だから指定していない。真耶を乗せたらすぐに、とだけ言ってある。
真耶を捕まえたら、ひとまず廃墟に身を隠す。新谷の部屋に監禁してもらえたらよかったが、新谷はそれだけはできないと言った。その代わり、廃墟に物資を運ぶことと、移動の時に協力してくれることを約束した。真耶が了承すれば、二人でどこか遠いところへ行きたい。瞬の肉体が消えるまで、できるだけ長く一緒に暮らしたい。生活のことさえなんとかなるなら、それが理想だった。
七時半。朝日が眩しい。
そういえばこの日はいい天気だった。瞬が元いた世界の四月十七日は、ただ真耶が忘れ物を取りに家に戻っただけの日だった。真耶が誰かにさらわれたという騒動も、失踪したということもなく、次の日が訪れた。だとすると、瞬が元いた世界には、未来から転移してきた瞬はいなかったのか。あるいは、いたけどなにもできなかったか。前者であることを願う。
七時三十五分。白い風景の中に、サッと黒い影が現れた。
真耶だ。中学二年生の真耶。ふと、靡く髪やセーラーの襟に目を奪われる。
そんな場合ではない。瞬はすぐに電話ボックスに入った。受話器を取り、残数わずかとなったテレホンカードを挿入する。番号を、焦らず正確に打ち込むよう意識した。
コールが鳴る。身体を外に向けて、通学路を見ようとする。受話器の線が伸びるものの、ボックス内からでは絶妙に位置が悪く、通学路も真耶の姿も見えなかった。
耳元で、プツッとコール音が止んだ。同時にざぁっと外の音が聞こえる。
「もしもし、真耶? 僕は」
「今日はクソみたいにいい天気だねェ、兄さん」
受話器の向こうから聞こえて来た声に、瞬は凍りつく。
よく聞きなれた気だるい声。
「考司か」
想定していなかった状況ではないが、やられた。
「あいつは今日忘れ物をしていったよ。体操着と、このケータイだ」
乱暴に受話器を降ろした。真耶は見える位置にいる。ここからそう遠くない。走っていけば直接会える。顔を見せれば話も早いだろう。
テレホンカードをむしるようにとり、ボックスから出ようとしたところで、瞬は固まった。考司と新谷が立っている。さっきまではなかった黒い車も後ろに見える。
「新谷、お前っ」
考司に腰のベルトを掴まれる。新谷は遠慮がちに瞬の襟首を掴んだ。ぐいぐいと身体を押されて、あっという間に車の中に放り込まれる。力の入らない四肢で瞬は抵抗した。新谷が申し訳なさそうな顔で瞬を見下ろしている。
「ごめん、瞬くん。騙すような形になって。乱暴なことだって、したくないんだけど」
こいつ。新谷一馬。クソ野郎。
瞬は声を出そうとしたが、その前に口を塞がれた。口の中になにかが入ってくる。タオルだ。考司はそれを瞬の頭の後ろできつく縛った。二人の人間に抑えつけられて、両手首も同様にタオルで縛られる。普通の肉体ならこのくらいの拘束、解けそうなものだったが、今の瞬には無理だ。力が入らない。
ふう、と一仕事終えたように考司が息をついた。
「なんか悪いな。でも、お前がしようとしてたのってこういうことだろ。少し黙っててくれよな」
考司はスマホを取り出した。機種から、それは考司自身のものだとわかる。誰にかけるつもりだ。
「もしもし、瞬。おう、俺。真耶が家に戻っていっただろ。今すぐ走って追いかけろ。忘れた体操着とケータイは俺が届けるって言え。天気? 平気だよ。昼休みになるかもしれないけどちゃんと届けるから。うん? ああ、体育は二限なのか。じゃあ見学させろ。あいつが具合悪いって言って疑うやつなんかいねえから大丈夫だよ。とにかく早く捕まえて学校に連れていってくれ。頼む」
考司は電話を切った。
ああ、駄目だ。
当時の荒家瞬はこんなふうに考司から頼みごとをされたら、絶対に言われたとおり行動する。自分のことだからよくわかる。詳しいことを聞かなくても考司の話なら信用する。ましてや真耶が関わる話だ。駄目だ。この計画は終わりだ。
新谷。新谷のせいだ。クソ野郎。クソ野郎クソ野郎クソ野郎。どこまでも使えないヤツ。お前のせいだ。お前が僕を信じないから。クソ野郎。
うう、と唸り声が漏れるだけだった。
新谷は瞬の視線から逃げるように運転席に座りなおして、車のエンジンをかけた。考司は後部座席で、安全のためか拘束のためか、瞬の身体にシートベルトをつけてくれる。考司は瞬の身体に触れる過程で、違和感を覚えた様子だった。
「お前、身体が」
そういえばこの世界に来てから人に触れられたのは初めてだ。
なんだ。僕の身体に触れてどう思ったんだ。冷たい。軽い。そんなところか。
聞きたいのに喋れない。もうこの状況じゃ抵抗する気もないのに。
瞬の気持ちを察したのか、車が走り出すと考司は口の拘束を解いてくれた。
「僕の身体、やっぱり変か?」
すぐにそう聞くと、考司は少し気が抜けたような顔をした。
「そうだな。感触が、あるようでないような、不思議な感じだ。体温も、あったかくも冷たくもない。なにも触ってないみたいな感じが、ちょっとした」
「ふうん」
「瞬の第六感は、難点が多いな。記憶の引き継ぎがされないから、今が何回目の世界かもわからない。当然、俺が三年後から来るお前のことを知っている状況を考慮して動いたんだろうけど」
「だから協力してくれる第三者を探したんだよ。裏切られたけどね」
ギロリとバックミラー越しに新谷を睨む。新谷はすぐに目を逸らした。
「瞬は簡単に他人を信用しないからな。頼れる大人なんて限られてくるだろ。俺は三学期の間に新谷……先生に、第六感の話をしたんだ。四月になったら三年後の未来から瞬が来ますよって。まだY中にいる間に」
「僕より考司の話を信じたのか」
敗北感と屈辱。新谷の方をじっと睨む。観念したように運転席から声が返ってきた。
「どちらの言うことも、信じたよ。ただ、瞬くんも考司くんも、真耶さんを守りたいという目的は共通していた。同じ目的のために、未成年二人の逃避行に協力するより、他にいい手段があると思ったんだ」
車が止まった。
着いたのは新谷のマンションだった。瞬がこの二週間程滞在していた場所と変わりない。
「お前は、どのみちこの世界じゃ家も戸籍もないんだ。ここに置いてもらえる方がマシだろう。ただし、真耶にはもう手出しするなよ。いつ消えるかは知らないが、看取って欲しかったら呼べ」
考司は新谷と一緒に瞬を部屋まで連行した。瞬はベッドの脚に後ろ手を縛られた。これで部屋からは出られない。
考司は制服のポケットから折りたたんだ紙を取りだし、新谷に渡した。
「先生、これ。注意点をまとめたものです。瞬は頭いいから、甘やかすとたぶんすぐ逃げますよ」
「はぁ。受け取っておきます」
なにが書いてあるのか気になったが、どうせ瞬には見せてくれまい。
「じゃあな。俺は新谷先生に送ってもらって学校行くわ。忘れ物届けないと。お前の様子は週一くらいで見に来させてもらうよ」
考司はいつも別れ際にそうするように軽く手をあげて、新谷と一緒に部屋を出ていった。
静かになった部屋にひとり残される。
この肉体はいつまで持つのだろう。時間が経過すれば消えるのか、なにかきっかけがあれば消えるのか。わからない。なんのためにこの世界に来たのだろう。自分の無能さに嫌気がさす。同じような世界が他にもあったのだろうか。この世界にも同じような未来が訪れるのだろうか。
考えるのもいやになって、目を閉じた。新谷の部屋に泊まるようになってから、眠ることだけはできるようになった。ごく短時間、断続的にだが。
自由のない生活が始まった。
昼間は新谷と一緒にフリースクールに行って、ずっと本を読んでいる。グループワークなども行っているが、輪に入る気になれない。夜は新谷の部屋に戻る。新谷は意外にも自炊をする。要らないと言っているのにいつも瞬の分も含めて食事を作る。
「どこかの神話であったでしょう。異界の食べ物を口にすると元の世界に戻れなくなってしまうって話。逆に言えば、異界のご飯を食べていたら異界に定着するってことじゃないかな」
新谷はそんな話をして、なるべく食べて欲しいと言う。断るのも億劫になって、いつもひと口だけ食べる。味はよくわからない。喉元を咀嚼物が通過する不愉快な感覚だけが残る。それでも、これで肉体を世界に繋ぎ止められるなら。
「あなたは、僕に消えて欲しくないんですか?」
ある時、瞬は新谷に聞いた。
「はい、もちろん。瞬くんは、別に世界征服をしようとして未来から来たわけじゃないんでしょう? 妹さんを守りたいだなんて、とても優しい思いだよ。優しい子には健やかに育ってほしい。僕はそう思います」
騙されない、と瞬は思う。
そんなことを言っていても、新谷は自分が風呂に入る時と眠る時は瞬の腕をベッドのフレームに縛る。どれだけ心を開いて懐いてみせても、逃がしてはくれないだろう。
それに。
瞬は新谷に返す。
「僕は真耶を守りたいんじゃなくて、救いたいんだ。こんなふうに隔離して閉じ込めるなら、僕じゃなくて真耶にすればいいのに。僕はどうせ消えるけど、あの子はちがう。どのみち、そういう方法以外じゃ真耶は救えない」
当然、新谷はわかってくれなかった。
一週間経って訪れた考司にも同じことを言ったが、話半分にしか聞いてもらえなかった。わかっていない。考司でさえ、真耶のことを。なにも。
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