3-9

 長かった冬が終わり、春が訪れた。

 校門の横で当然のように咲き誇る桜を、瞬は奇跡を目の当たりにしたような顔で見上げていた。

 二年生になった。瞬と考司と、真耶が。三人一緒に。

 あれから、真耶に大きな変化はなかった。物憂げな横顔は未だ続いていたが、なんとか日常をやり過ごしているふうに見えた。真耶と優衣は二年でも同じクラスになった。一年の時二人の担任だった新谷はY中を辞め、不登校の子どもが通うフリースクールの講師になったという噂だ。考司は相変わらず晴れた日には欠席か遅刻で、しょっちゅう教師に叱られている。せめて髪くらいまともな長さにしろと言われているが、考司は頑なに美容室へは行かなかった。時折自分で切っているらしいが、それでも非常識な長さに変わりはない。朝礼では不審者の目撃情報を伝えられ、注意を喚起される。春にはよくある話だ。瞬は昨年のことを思いだした。考司のいたずら電話。今思えば陳腐だが、そのおかげで今真耶が生きていると思うと温かな気持ちになった。うっかり授業中に居眠りをしそうになるくらい、穏やかな春だった。

 四月の下旬。薄い雲が所々にちぎれて浮かぶ、よく晴れた日だった。朝礼後、瞬は放送で呼び出された。クラス担任の男性教師の声じゃない。よくわからないまま職員室に行くと、真耶のクラス担任である中年の女性教師が手招きした。

「朝礼に真耶さんがいなかったから、まずお家(うち)に連絡したの。双子のお兄さんが出て、妹は兄と一緒に登校しましたって言うから、瞬くんを呼んでみたんだけど」

「そうなんですか。確かに途中までは一緒に登校しました。でも真耶は体操着を忘れたって言って、家に取りに戻ったんです。引き返した場所は家からそう遠くないので、朝礼にも間に合いそうな感じでしたが」

 時間的に、少なくとも家には間違いなく戻っている。だが考司はそれを知らない。つまり、真耶は家に戻っていない。

 教師は、瞬から真耶に電話してみて欲しいと言う。指示どおりスマホの通話ボタンを押したが、コールさえならなかった。電源を切っている時のメッセージが流れる。瞬と教師は黙って顔を見合わせた。

 もしかするとどこかをふらついているのかもしれない。この学校の生徒にはよくあることだ。昼休みまでは外部からの情報を待って、それでも居所がわからなければ両親に連絡すると教師は言った。

 瞬は考司に連絡した。考司は昼までは家で真耶を待つと言った。

 昼休み。変わらず真耶に連絡はつかない。家に戻ったという考司からの連絡も。担任から両親に伝達がいったはずだ。クリニックの昼休憩時間に父からメッセージが届いた。今日は部活に出ないで、放課後はすぐに帰宅するようにと書いてあった。

 午後の授業を受ける間、瞬は必死で考えていた。原因と行き先。心当たりはないか。最近気になった真耶の様子。考えればなんだって気になった。真耶はいつだって暗く沈鬱な顔をしている。いつも死にたそうな顔をしている。だからいつ死んだっておかしくない。

 放課後、瞬は早足で通学路を歩いた。

 家では考司が食卓に焼きそばを盛った皿を置いていた。手の込んだものをつくる気分ではなかったのだろう。

「原因にも行き先にも心当たりがない」

 瞬が言うと、考司も同意した。

「良二さんは診療時間が終わるまで抜けられないけど、母さんは仕事を他の人に頼んだからもうすぐ帰るって。さっき連絡があった」

 考司の言葉どおり、有加里さんはすぐに帰ってきた。彼女は車で駅の周辺を探してみるという。瞬も落ち着いてはいられず、自転車で付近を捜索することにした。父が帰宅する、午後八時を集合時刻にした。

 そして午後八時半。

 食卓を囲む四人は誰一人冷めた焼きそばに手をつけなかった。

「警察に連絡しよう」

 父の行動は迅速だった。まず電話で連絡した後、すぐに交番に出かけていった。三十分ほど経って、戻ってきた父の表情は暗かった。Y中の制服を着た少女が朝から一人でウロウロしていたら、誰かしらに見つかっているはずだ。しかし、今のところ警察にそのような情報は入っていない。明日以降、情報が入れば伝えるとのことだった。

「もう一回探してくる」

 瞬が椅子から立ち上がるのを、父が止めた。

「やみ雲に探したって仕方ない。今日はもう遅いし、瞬は出歩かない方がいい」

 考司も続けて言う。

「目撃情報がないってことは、早い内に車で拾われたかもしれないってことだ。だとしたらお前が探せる範囲にはいない」

 しんとその場が静まりかえる。

 考司は食卓の皿を電子レンジに入れた。焼きそばを加熱する。誰もなにも言わない中、考司は温め直した焼きそばをモソモソと食べた。それに続くように両親も箸を取る。瞬も座りなおした。瞬にとって至上最悪の食卓だった。

 食事が済んだあと、皿を洗う瞬の隣にすっと考司が立った。

「少なくともあいつはまだ生きてる」

 布巾を取る動作にまぎれて、そう耳打ちした。

 そうだ。考司は真耶の生死を体感でわかる。考司が正直に話してくれる限り、その部分だけは保証される。瞬はわずかながら安心した。

 翌日。学校を休んで真耶を探しに行こうとする瞬を、父が叱った。落ち着きを取り戻すためにも登校しろと言う。確かに瞬はあきらかに冷静さを欠いていた。父も内心は辛いだろう。だが仕事を放りだすわけにはいかない。町で唯一の眼科だ。毎日多くの患者が来る。

 瞬は登校した。考司は曇り空にも関わらず具合が悪いと言って登校を拒否した。瞬にもわかる嘘だった。真耶が帰ってきた時のために家を空けたくないのだろう。正直助かる。瞬は考司の日常的な怠慢を、初めてありがたいと思った。

 放課後、中山優衣と廊下で会った時、真耶の様子を尋ねられた。教師陣は事情を知っているが、生徒にはまだ詳細が伝わっていない。昨日に引き続きクラスに真耶がいなかったわけだから、優衣にしてみれば心配だろう。

「早く良くなるといいなぁ。お見舞いのLINE飛ばしても迷惑じゃないかな?」

 瞬は言葉を濁すしかなかった。このまま真耶が見つからなければ、いずれ学校も真耶が行方不明だと公表するだろう。その時優衣は今日の会話を思い出して悲しむことになる。

 一日、二日と、時間が経つにつれ瞬は消耗していった。

 木曜の休診日。父は手がかりを探すためか、知人に電話を掛けていた。有加里さんは具合が悪いと言って寝込んでいる。瞬はほとんど朝食も摂らずに登校した。

 しばらく歩くと、考司が駆けてきて瞬に追いついた。今日は登校するのか。両親が家にいるからだ。瞬はそうとわかっていても空を見上げた。厚い雲に覆われた灰色の空。

 考司は瞬の隣を歩きながら言った。

「思い出したことがある。瞬、お前に話すのが初めてだ」

 霞んでいた視界がわずかにはっきりする。瞬はあらためて考司の顔を見た。

「俺はたぶん、真耶を連れ去った不審者と一度すれ違ってる。新学期が始まってすぐの頃、遅刻して学校に行く途中で」

 寝不足の頭にさっと血が巡った。色んな考えが急に湧いてきて、気が動転する。

「なんで黙ってた」

 怒鳴るような声が喉から出ていた。考司が眉を顰める。

「思い出したって言っただろ。朝の記憶はおぼろげなんだ。眠くて頭が働いてないから」

 考司でもそんなことがあるのかと思うと少し気分が落ち着いた。

「どんなヤツだった?」

「警察が出してる不審者の情報と同じだ。細身で、俺よりちょっと背が高いくらいの男。安っぽいティーシャツにジーパン姿で、あきらかに若かった。あとは、花粉症用のマスクしてたな。だから顔はわかんねえ」

「そいつが真耶を連れ去ったのか?」

「さあな。俺は怪しいと思ったけど。直感で」

 直感。

 根拠はないということ。だが、考司の直感は馬鹿に出来ない。考司には第六感がある。人並み外れた感覚がある。当たらない直感なんてない気がした。

 瞬は大きく息を吐いた。急に目が眩む。地を踏む足の力が抜けていく。いやな汗がどっと噴き出すのを感じた。貧血を起こしかけている。

「一応、警察に言っといたらいいんじゃないの」

 瞬は投げやりな返事をした。考司はすぐに異変に気づいた。

「瞬。お前、大丈夫か?」

 腕を掴まれる。ぞわりと悪寒がした。

「僕より真耶の心配をしろよ!」

 瞬は考司を突き飛ばすようにして腕を振り払った。視界がチカチカと点滅する。もはや立っていられない。咄嗟に通学路から逸れた細い道に入り、電柱の陰にしゃがみこんだ。鼓動が耳に響いて、考司が近づいてくる足音さえろくに聞こえなかった。

 考司はなにも言わず、背中をさするわけもなく、黙って瞬の隣にしゃがんだ。こんなふうに考司と並んでしゃがんでいたら、間違いなくヤンキーにしか見えない。そのことが少しだけおかしかった。何度か深い呼吸をすると、鼓動は落ち着いてきた。

 息を吐くのにあわせて声を出す。

「身代金の要求がないから、誘拐の線は薄いと思ってたんだ」

「金なんか関係なく、女子中学生を欲しいと思うヤツは一定数いるだろ」

「そういうヤツに連れ去られたんなら、もう最悪じゃないか」

 瞬は頭を足の間に挟むようにしてうつむいた。地面がすごく近くに見える。自分の陰で、そこだけ穴が開いたように暗い。目の奥が痛くなった。

「勝手に家出してくれてた方がまだマシだ。きっと真耶はおとなしそうだから狙われたんだ。やっと少し落ち着いたと思ったのに。なんでこんなことになるんだよ。こうなるってわかってたら、あの日」

 冬の日。クリスマスイブ。二人きりの夜。考司が「許す」とまで言った。どうせ汚されるなら自分のものにすればよかった。

 瞬は後悔した。

 考司はなにも言わなかった。慰めるとか励ますとか、そういうことは昔から得意じゃない。空を見上げる。心も体も、まだちゃんとここにある。

 同じ空の下で、真耶はまだ生きている。生きてさえいればいい。どんなに汚されようと、どんな姿になろうと、生きて戻ってきてくれたらいい。考司はそれだけを望んでいた。

 結局、一週間経っても事態に進展はなかった。警察も、瞬の父良二も、母でさえ、家出だろうという仮の結論を出して日常に戻ろうとしている。憔悴した瞬はそんな両親とよく口論になった。

 考司は歯車のずれていく家庭から一人離れて、再び引きこもるようになった。真耶がいないのならばわざわざあんな学校に行く必要はない。明日あたり学校は真耶が行方不明だと公表するらしいから、ヤンキー連中に情報を聞きたいところだが、それも放課後でいいだろう。だるかった。なにもかも全てが。

 今朝は暗い空模様だ。考司は簡単に朝食の用意をして、家族と顔を合わせないように部屋に戻り、再び眠りについた。

 昼近くになって、スマホのアラームで目を覚ました。どうせ吉村か小川かそのあたりの誰かだ。無駄に仲間意識が強く、毎日様子を窺うLINEを飛ばしてくる。そろそろ返事もしなくていいかと思いながら念のため画面を見る。

 考司は飛び起きた。

 表示されていたのは真耶の名前だ。

 メッセージを確認する。

『わたしは無事です。今はちかくにもどってきています』

 すぐに電話を掛けた。電源を切る前にコールが鳴れば、真耶は咄嗟に通話ボタンを押すはずだ。

「コウちゃん?」

 案の定、慌てた声が聞こえた。束の間、安心すると同時に怒りが湧く。

「おい、お前今どこにいる」

「コウちゃん、ごめんね。また勝手にいなくなっちゃって。大丈夫って伝えたかったんだけど、ケータイ使っちゃ駄目だって言われてたから」

「誰と一緒にいる」

「私、コウちゃんには本当のこと伝えてもいいと思うって、ずっと言ってたの。でも許してもらえなくて」

「俺の言うことに答えろ。今どこにいる」

「どこ? どこだろう。潰れた旅館。すごく静か」

 次の瞬間、男の声が聞こえた。ガシャンとスマホが床に落ちる音。男の怒鳴り声。足音と、布がこすれるガサガサした音。真耶が珍しく「きゃあ」と悲鳴らしい声を上げる。そして通話は途切れた。

 考司は寝間着から私服に着替えながら全力で頭を回転させた。

 潰れた旅館なんてY町にはたくさんある。その全てを考司が把握しているわけでもない。だが情報はもう一つある。すごく静か。交通量の少ない場所。あとは誘拐犯の都合を考える。平地にある廃墟なんて昼夜問わずヤンキーが溜まりやすい。奴らに見つかって都合のいいことはひとつもないだろう。ヤンキーが溜まりにくい場所は単純に行き辛い場所だ。例えば山の上。温泉街の裏手にある山。小さな山とはいえ山頂に近い位置となると交通の便が悪い。車で上る道が一本だけあるが、山頂で行き止まりになる。当然道は細いしカーブも多い。それを知って尚、眺望がいいという理由だけで山頂に建てられた旅館がひとつだけある。案の定すぐに潰れた。考司は昔そこに行ったことがある。温泉街の端にある寺の裏に回ると、人の足でならされた山道がある。小学一年生の時真耶と二人で登ったが、真耶は途中で疲れたといって帰った。考司だけが意地になって山頂まで登った。そこには小さな展望台と潰れた旅館があった。とても静かだったのを覚えている。

 考司は家を出て、自転車にまたがった。軽めのギアでどんどんスピードを上げていく。

 誘拐犯が居場所を変える可能性は、あるにはあった。たが、予想が正しければあいつらは動けない。すぐに使える足はないはずだ。

 考司はこの前、瞬にひとつだけ嘘をついた。すれ違った不審者が、マスクをしていたという部分。本当はしていなかった。考司はそいつの素顔を見た。すれ違って、はっとして足を止めて振り返った。相手も振り向いて考司を見ていた。目が合う。相手はすぐに踵を返して歩き去った。

 そいつが考司の思っているとおりの男なら、他人の車をパクって無免許で運転するなんて真似はできない。使える足は限られてくるが、そのどれも、すぐに呼び寄せることはできないだろう。だとすると、精々歩いて山を下りるくらい。仮に考司の目をすり抜けて町まで下りても、今度は他の誰かに見つかる。相手が選びうる選択肢は二つだ。山の中で考司を鬼にしてかくれんぼするか、開き直って見つかるか。

 寺の前で自転車を止めた。裏の山道は意外と急勾配で段差も多い。考司は足を進めた。ざわざわと木が揺れる大きな音がする。手足を数箇所虫に刺された。子どもの頃は長い道のりに感じたが、大したことはない。息を切らせて必死で登っていくと、すぐに山頂が見えた。家を出てから一時間も経っていないはずだ。

 山頂の右手には展望台が見える。左手が潰れた旅館。窓ガラスも入口の自動ドアも割れている。風化したのか、ヤンキー連中が肝だめしにでも使ったのか。

 考司は音をたてないようにそっと建物に近づいた。三階分の建物の至る所に窓がついている。どこから見られていてもおかしくない。

 割れた自動ドアの隙間から中に入る。途端に獣の糞尿の臭いが鼻についた。埃っぽい。薄暗さに目が慣れると、横倒しになった一人掛けのソファや、足元に穴の開いたフロントが見えた。そこら中にガラスの破片が落ちている。肉眼では限界がある。考司はスマホのライトを灯した。はっきりとした足跡はないが、他の場所に比べて埃が薄くなっている部分がある。それはエレベーター横の階段へと続いていた。息を潜めて痕跡を辿る。階段の踊り場には大きな窓がついていて、随分明るい。考司はスマホのライトを消した。ガラスの破片を踏まないように注意しても、段を上る度にカサカサと音がする。埃や枯葉、虫の死骸が一緒くたになって堆積している。踊り場を上る時は慎重になった。階段の手すり部分の壁からそっと顔を出して、誰もいないことを確認する。二階を探索しようかと思ったが、三階まで行って上から潰して行くことにした。二階から再び階段を上り、窓を見る。朝は曇っていたのに、日が差してきた。同じように踊り場に出ようとした時、階上からなにかが投げ落とされた。

 思わず頭を手で覆う。

 投げられたなにかは小さく四角いもので、パスンと音を立てて踊り場に落ちた。考司は階上を見上げる。三階で途切れた階段は、胸元ほどの高さの壁で塗り固められ、ベランダのようになっている。誰かがそこにいて、そこからなにかを投げた。

 慎重に、ゆっくりと、考司は落ちてきたものを拾った。

 合皮の薄い手帳だ。

 K高等学校生徒手帳。

 表面にそう書いてあった。県内でも五本の指に入る進学校だ。中を開く。

 第二学年。氏名、荒家瞬。十七歳。

 発行年度には三年後の数字が記入されている。

「やっぱり瞬にもあったじゃん。第六感」

 考司は独り言のように呟いた。

「あったよ。覚醒するのが遅かったけどね」

 上から降って来た初めての声。今の瞬より少しだけ低い。通学路ですれ違った時のことを思い出す。三年後、瞬はあんなに背が伸びるのか。顔つきも少し変わっていたから、最初は本当に似ているだけの別人だと思ったのに。

「肉体ごと未来から転移する能力で、あってるか?」

 あの時すれ違ったのが本当に三年後の荒家瞬なら、考えられる第六感はそういう類だ。

「あってるよ、たぶんね。考司とちがって、僕のは人生で一度きりしか使えないけど。過去を改変すれば未来が変わる。変わった先の未来に辿り着くのは、今考司と一緒に暮らしてる荒家瞬だ。僕がいた未来の世界は、過去が変わるにつれ存在自体が希薄になって、いずれ消滅するだろう。だから僕にはもう帰るところがない」

 そんなリスクを承知で力を使ったのだろうか。そこまでする目的は。

「瞬、お前はなんで真耶を」

「こっちに来るな。そこで今から僕が言うことを聞いてくれ。僕はもうすぐ消滅する」

 踊り場から階段に足を掛けた考司を、瞬は素早く止めた。足音でこちらの動きは察知される。張り詰めた気配に圧(お)され、考司はその場に留まった。

「未来から過去に転移した肉体が当然に存在するわけがない。僕がいた世界が希薄になると同時に、僕の存在も薄くなっていく。ついさっき、決定的な過去改変が起こった。だから僕は消える」

 決定的な過去改変?

 いやな予感がした。

「真耶は今どこにいる」

 低い声で尋ねる。

「考司。誤解しないで欲しい。僕は間違いなく、真耶を守るためにこの世界に来たんだ」

 瞬の声が揺らいだ。存在が希薄になっているせいなのか、喉が掠れている。

 考司はすぅと鼻で息を吸った。建物に入ってから嗅覚はかなり麻痺していたが、かすかにわかる。つんと鼻の奥を刺激する、鉄の臭い。

「頼む。信じてくれ。守るつもりだったんだ。最初は。全部。本当に」

 階上から一筋、液体が流れてきた。二筋、三筋とコップから水が溢れるように階段をつたってくる液体。赤黒くどろりとしている。

 血だ。

「僕がいた三年後の世界では、真耶は生きていたよ」

 瞬の声は確かに耳に届いているが、姿は見えない。本当はいない人間の声。足が凍りついたように動かない。

「考司、もう剪定はやめろ。真耶のためだけに生きるな。第六感なんて、人間が使うものじゃない。どんなに大切な人の死でも、受け入れられないことはない。乗り越えられないことじゃない。人間はそういうふうにできてる。お前だって人間だ。だからもう、運命に抗うな」

 声はどんどん掠れ、小さくなっていった。同時に、階上から流れてきた血が考司の足元まで届く。

「僕が消えてないってことは、まだギリギリ生きてるのかな、真耶。よかったな、最期に本物の兄さんが迎えに来てくれたよ」

 ふっと、身体が浮くような感覚に襲われた。

 ああ、死んだ。

 真耶が死んだ。

 階上からの声は途絶えた。人の気配すらもう感じ取れない。

 考司はゆっくり階段を上った。踏みつける血液は塵と混ざり、茶に近い足跡を作る。

 階段を上りきったすぐ左手の陰に、血まみれの真耶が倒れていた。

 上の制服は真ん中で切り裂かれていた。スカートも所々破れて、腿のつけ根までずり上がっている。蒼白い肌を埋め尽くすように、おびただしい数の刺し傷があった。右の足首にコンビニで買えそうな安っぽい生地のパンツが引っ掛かっていて、その近くに小振りのナイフが落ちていた。

 考司はしゃがんで、暗がりに身を寄せるように真耶の頭を見下ろした。血で固まった髪を手でよけると、ようやく顔が見えた。

 ああ、よかった。顔に傷がなくて。

 首から下は残らず刺されていたから、心配していた。真耶は静かに目を閉じていた。眠る時と変わらない冷ややかな面持ちで。実際に冷たくなっていた。

 首の傷口が裂けて広がらないよう注意しながら、考司は真耶の上半身を胸に抱いた。半分になった心では上手く悲しめない。腕の感覚もほとんどなかった。

 こんながらんどうな自分を受け入れろだなんて。

 半分しかない心と体で、乗り越えろだなんて。

 そんなの無理だ。

 あの日。全てが始まった夏の海。

 満ち潮に怖くなって思わず名前を呼んだから、真耶は慌てて海に飛び込み、溺れた。

 溺れる真耶を見て父さんを呼んだから、父さんが死んだ。

 たぶん誰も俺を責めない。それでも自分が責めるなら罪は罪だ。

 その罪の代わりに手に入れた第六感。

 それまでなにもなかった。本当になにも。字を覚えるのも友だちを作るのも、最初は真耶の方が得意だった。その傍らでいつも弱気に立っていた。真耶は手を繋いで、笑いかけてくれた。真耶が大切だという思い以外、なにも持っていなかった俺に、唯一与えられた力がこれだ。

 真耶を守るためにどれだけたくさん生きただろう。

 どれだけのものを犠牲にしただろう。

 今さらその全てを受け入れて諦めるなんてできない。

 やり直す。

 駄目になった世界の枝は何度だって切り落としてやる。

 そして真耶が生き延びる世界を導くから。

 瞬。

 お前だって難しいゲームを途中で投げ出すようなやつじゃなかっただろ。

 何回だってロードしてやり直して、クリアしただろ。

 きっとそういうことじゃないんだろうけど、結局そういうことなんだよ。

 考司は目を閉じた。

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