3-8
大きなことを言ったはいいものの、凡庸な中学生の瞬にできることなど知れている。毎日真耶の様子に気をつける。ただそれだけだった。他愛のない話をしながら、不安や悩みがないか、真耶の心情を探る。真耶は「今日こういうことがあった」と事実を語るばかりで、自分の考えや感情はなかなか口にしなかった。血の繋がった兄と同じように、彼女もまた自分と世界の間に一線を引いている。真耶のそれは、おそらく心の防衛ラインだ。自分の領域を侵されないための境界線。
毎日、ただ真耶に注意を払うというだけでも神経は摩耗した。ちょっとした顔色の変化が重大なサインのように見える。真耶が疲れた顔でおやすみと言った日には、朝が来るまで眠れないこともあった。毎日毎日、今日が最後かもしれないと思うと気が気でない。
瞬は考司のことを思った。考司も最初はこんなふうに世界を見ていたのだろうか。だとしたらあの時言ったことも理解できる。
一回一回に全てを賭けてやってたら、気が狂う。
厄介なのは、真耶が自分から死に近づくことだった。どんな世界の真耶も、自分の意志で死んでいる。交通事故だって真耶が意図的に引き起こしているものだ。真耶の内面を変えなければ根本的な解決にはならない。
瞬は考司に相談してみた。真耶が日常的に死と隣り合わせの心境だとすると、それはもはや精神的な治療が必要な状態だ。Y中にはスクールカウンセラーがいないから、病院か、あるいは相応の施設に頼ることになる。
考司は首を横に振った。
「よく考えてみろ。あいつがカウンセラーや医者に内面的なことを簡単に話すと思うか? そもそもあいつは自分の状態を〝病気〟だなんて思ってない。連れて行くならその部分を俺たちが指摘して説得することになる。おそらく、それ自体があいつにとっては大層な絶望になるぜ。「兄さんたちは私をそんなふうに思ってたんだ。私はそんなに駄目な人間なんだ。ああ、もう死のう」なんて具合にさ。それに、そういう手段をとるなら良二さんと母さんの助けもいるだろ。そっちにも話をしなきゃいけない。全部クリアして治療を始めたとしても、真耶自身に良くなりたいって意志がなけりゃ難しいよ」
返す言葉もなく、瞬は提案を引き下げた。
ただ、それでも時間は少しずつ過ぎていった。秋風が吹いて枯葉が舞い、寒さが増していく。考司の話を聞いてからは、時間の流れがとても遅い。
十二月の半ばになって、やっと少し気が抜けた。もうすぐ冬休みだ。学校が休みの間は外部からの刺激も少ないし、家にいる時間が長い分、真耶の様子もわかりやすい。
コンビニの内装がクリスマス仕様になっているのを見て、そういえば新しい家族でこの時期を過ごすのは初めてだなと思う。それを夕食の時に話したら、父が「せっかくだからクリスマスイブに家族で食事に行こう」と言った。父の提案に母と真耶がまず賛成し、瞬と考司もうなずいた。
その日の深夜。
瞬はいやな夢を見て目を覚ました。夢の内容は頭に残っていない。ただ、とてもいやな感覚だけが全身を重くさせていた。
なにか温かいものを飲んで落ち着こう。瞬は暗闇に慣れた目で、明かりをつけないまま部屋を出た。しんと冷えた階段を下りていく。寒さが足の裏から這い上がってきて、先にトイレに行きたくなった。キッチンに向かうのとは反対側の廊下へ顔を向ける。そして。
息が止まるほど驚いた。
廊下の真ん中に、黒い影が立っていた。
強盗。悪霊。
あまりに驚いて、極端な想像をしてしまう。
しかし、瞬に気づいてゆっくり振り向いたのは強盗でも悪霊でもなく、真耶だった。白い顔が暗闇に浮かび上がる。いつも少し伏せられている瞳が、まあるく開いている。その目は確かに瞬に向いていたが、どこも見ていないように虚ろだった。
真耶はまあるく目を開けたままゆらりと動いた。瞬がなにか言う間もなく、横をすり抜けて、ゆっくり階段を上っていく。真耶の身体は微かに震えていた。こんなに寒い中、パジャマ一枚でどれくらいここにいたのか。
瞬は冷静になるためにも当初の目的を遂行した。トイレに入って、用を足しながら心を落ち着かせる。
真耶は、ただ廊下の真ん中に立っていたわけじゃない。両親の寝室の前に立っていた。これでもう大体わかる。真耶がなにを聞いてなにを察したのか。
瞬はキッチンで白湯をつくって飲んだ。体は温まったが、気分は目覚めた時よりも悪くなっていた。
二階に上がる前、一歩立ち止まって両親の寝室を見る。
扉の向こう。両親が眠っている。両親が。違う。父と、その妻だ。男と女。
瞬はかぶりを振って階段を上った。考えたくない。想像したくない。それとこれとは別の領域のものだと思っていた。そうあって欲しかった。わかっていたけど、実感したくなかった。単純に。ごく単純に、気持ち悪かった。
翌朝。
瞬は煩わしいアラームを自分で止めてから、十五分後に目を覚ました。カーテンの隙間から白い光が差し込んでいる。空は高く晴れていた。頭も体もまだ重いが、ぼんやりしている余裕はない。手際よく着替えて階下に降りた。
食卓の様子でわかる。両親はもう出勤している。真耶も出た後だ。考司は、晴れているから二度寝に掛かったのだろう。
昨夜のことがあったから朝に真耶の顔を見ておきたかったが仕方ない。小さなローファーが玄関にないことを確かめて思う。瞬はスニーカーの紐を結ぼうとして、ふと手を止めた。
昨夜のことを、考司に言わなくていいだろうか。
気になることだったのは間違いない。考司には伝えるつもりだ。だが、今である必要はあるか。どうせ考司はもう半分寝ているだろうし、瞬の時間にも余裕がない。それに。
言いづらい。瞬自身にまだ抵抗感がある。言葉にしたくない。しばらく考えないようにして忘れたい。
瞬は考司を起こさずに登校した。
学校でも、瞬はいつもどおり過ごした。休み時間になる度に真耶の顔が浮んだが、教室まで訪ねていく気にはなれなかった。なにを言えばいいかわからなかった。
それでも放課後、どうしても気になって一年五組の教室に行った。真耶は廊下側の後ろの席で、鞄に教科書を詰めていた。瞬は真耶が鞄を閉じるのを待って、声を掛けた。
呼ばれた真耶はすぐに廊下に出てきた。
真耶はなあに、という顔で首を傾げた。表情はいつもどおりだ。なにも変わったところはない。昨日の光景は瞬の夢だったのではないかとさえ思う
どうしよう。なにをどう話せばいいか、なにも決めずに来てしまった。
「えっと。今日、部活だよな。水曜日だし」
他愛のない話で場を繋ぐ。
「ううん。美術部は一昨日で今年の活動終わりだって」
「そうなんだ。じゃあ、もう帰り?」
「うん。兄さんはまだ練習あるの?」
「明日までだよ。運動部は大体そうみたいだ」
へぇ、そう。
他愛のない話は他愛なく終わった。
瞬は意を決して、話を切り出した。
「真耶。あのさ、昨日の、夜のことなんだけど」
「昨日の夜?」
え。
真耶の反応は瞬が想定していたものとちがった。目を泳がせて黙ってうつむくとか、そういう仕草をすると思っていた。
「あ、クリスマスに食事する話? 楽しみだね」
瞬が固まっている間に、真耶が自分で答えを出した。
瞬はもしかしたら真耶も自分と同じように思っているのではないかと考えた。
昨日のことを、なかったことにしたい。忘れたい。
そういう意味の反応。で、合っている?
「真耶ちゃん、お待たせ」
瞬が迷っている間に、手洗い場から中山優衣が出てきた。
あ、瞬くん。
そう言って優衣が頬を赤らめる。
「そっか。中山と一緒か」
瞬は自分を納得させるように呟く。
「うん。一緒に帰るよ」
ね、と真耶が言うと、優衣はくすぐったそうに笑った。その様子を見て瞬は安心した。
「二人とも気をつけてな。夜は雪が降るらしいから」
予報では今季初めて平地でも雪が積もりそうだと言っていた。瞬の部活も今日は早く終わりそうだ。
真耶と優衣は瞬に手を振って帰っていった。
しかし、部活を終えた瞬が帰宅した時、玄関に真耶の靴はなかった。
一気に青ざめると同時に、平常心を保とうとする本能がはたらく。帰ってきたけど、たまたま今コンビニに行ってるとか。どうせそんなところだ。言い聞かせる心とは裏腹に、靴を脱ぐ瞬の足はもつれた。
慌ててキッチンに入る。考司がまな板を洗っていた。
「真耶、帰ってないの?」
ただいまも言わずに尋ねる瞬を、なにも知らない考司は不審そうに見た。
「今日は部活の日だろ? 確かにいつもよりちょっと遅いけど」
瞬は考司に全てを話した。
様々な後悔に苛まれながら、昨日の夜のことから今日の放課後のことまで。考司は洗い物の手を止めないまま瞬の話を聞いていた。
瞬が話し終わると、考司はまず中山優衣に電話を掛けた。いつの間に連絡先を交換したのだろうと思ったが、むしろ未だに知らない瞬の方がふがいない気がした。
優衣はいつものように真耶と途中まで一緒に帰り、別れたという。それからのことは知らない。
瞬はため息もでなかった。力なく椅子に腰かける。考司もその正面に座った。
「ほぼ終わったな」
落ち着き払った様子で考司が言った。
また簡単にそんなことを。瞬は考司を睨んだ。
「そんなわけないだろ。こんな小さなことで真耶が、死ぬ、とか、よく考えたらあり得ない。どっかで気分転換してるんじゃないのか。ちょっといやなことがあったから、気晴らしに寄り道でもしようって」
そんなことだったらいいのに。
瞬の言葉は途切れた。
「現実逃避か。でかい口叩くからちょっと期待してたのに」
考司は瞬を鼻で笑った。
「ちょっといやなことがあれば死ぬよ。あいつは」
知っている。瞬だって考司の話を忘れたわけじゃない。そのくらい知っている。知っていたけど、わかってはいなかった。
「つうか、今回のことに関しては俺も気持ちはわかる。親のセックスとか、考えるだけでも気持ちわりいのに、実際聞くとか見るとかしたら死にたくなるわ。俺がそう思うくらいだから、あいつなら死ぬよ。もう死んでておかしくない。むしろ今朝死んでなかったことにびっくりするレベル」
瞬は椅子を蹴り倒しそうな勢いで立ちあがった。
「黙れ。僕にはわからない。なんでこんな馬鹿げたことで死にたいとまで思うんだ」
食卓が間になかったら、考司に掴みかかっていたかもしれない。身体が熱い。
「理由なんか知らねえよ。思うんだから仕方ないだろ。ちょっとしたことですぐ「死にたい」って思うヤツなんかいっぱいいる。ただ、普通は思うだけで終わるんだ。他のことで発散したり、人に八つ当たりしたりしてな。あいつの場合「死にたい」と思ったらすぐそのまま実行して、しかも完遂しやがる。だから性質が悪いんだよ」
瞬は悔しかった。考司は少なくとも瞬より真耶のことをわかっている。双子だからか。血が繋がっているからか。瞬は血が繋がっていないから真耶のことをわからないのか。そんなこと認めたら話にならない。
「探しに行く」
瞬は立ったその足で部屋を出ていこうとした。
「たぶん無駄だぞ。偶然見つけたとしても、お前の目の前で死ぬかもしれない」
後ろから考司の声が引き留める。それはおそらく警告だった。なにもかもが無に帰す感覚。同じ思いをさせないように。
だが、瞬は考司と違う。次なんかない。だからこそできることがある。
「僕はこの世界に全部賭けるって、言っただろ」
瞬は考司の反応を待たずに部屋を出た。
玄関の扉を開けると空は薄暗く、雪がちらついていた。まだ湿った、雨に近い雪だ。瞬は大きめの傘を一本取って歩き出した。背中でドアが閉まる音が聞こえる。歩きながら心当たりを考えた。
遠ざかる家から、再びドアの音がした。駆けてくる足音。瞬に近づいてくる。
よかった。本当は一人じゃ心細いと思ってたんだ。
瞬は振り返る。
追いついた考司は白い息を吐き出しながら、少し笑った。
「俺も言ったからな。最後まで見届けるって」
瞬も思わず笑顔を浮かべた。
「自然公園の裏の川。僕はそこに行く。急がなきゃ。自転車取ってくる」
瞬は家への道を引き返した。空を見上げながら、考司も一緒に歩く。
「この天気でチャリ乗るのか? お前が事故って死ぬぞ」
「気をつけるよ。考司はどうする。ついて来るか?」
湿った雪で視界も路面も悪い夜道。危険が伴う。考司は最後の綱だ。考司自身が一番よくわかっている。安易に無茶はできない。
「なんで川なんだ?」
家に向かって歩きながら瞬に尋ねる。
「推測だよ。考司の話を聞いて気づいたんだ。真耶は、学校でなにかあったら校舎から飛び降りる。家の中でなにかあったらとりあえず飛び出す。わりと単純な行動をしてるように思える。首吊りとかガス中毒とか、手の込んだことは今のところしてないんだろ。冬に池に飛び込んだって時も、寒いから水に入れば死ねるとか、そんな単純な発想だったのかもしれない。だとしたら今回も水辺だ。でも、あの池じゃない。真耶が池に飛び込んだのは夜中って言ってたよな。あの池は温泉街の裏手にあるから、人がそれなりに通る。夜中でもないと途中で見つかるよ。それから、自然公園の中には神社みたいな建物があったよな?」
「もう神主もいなけりゃ賽銭箱もないけどな。公園に風情が出るっていう理由で社(やしろ)だけ残されたって、昔ばあちゃんが言ってた」
「そうなのか。とにかく、それっぽい雰囲気はあるんだな」
「まあな。神社がなんか関係あるのか?」
「僕ならどうするかって考えただけだ。性行為とか、人肌生々しいだろ。そういうものから目を背けるなら、人が少なくて、静かで、清潔な感じがする場所に行きたいよ。それこそ神社とかね。穢れを祓ってくれそうだ。真耶がどう思ってるかわからないけど、僕が思いつくのはこれくらいだよ」
二人は家まで戻ってきた。
考司は決めた。瞬の言葉に惹かれていた。この世界には危険を冒すだけの価値がある。
「瞬、俺も一緒に行く。何度世界を巡ったって、こんな日にサイクリングするのは最初で最後だろうからな」
劣悪な天候の中、二人はペダルを漕ぎだした。視界の悪さより、手や顔の冷たさが堪えた。積雪と風がないことがせめてもの救いだった。
自然公園の遊歩道を、行けるところまで自転車で入り、繁みの道の手前で止めた。自転車のライトが消えると辺りは真っ暗で、ほとんどなにも見えない。スマートフォンのライトを懐中電灯代わりに歩いた。
ざあざあと水が流れる音がだんだん近くなる。もうすぐだ。繁みの道を抜ける。
川にかかる橋の手前に出た。視界が開ける。
ライトがひとつの影を照らした。橋の欄干に手をかけている。人影。
いた。
「真耶!」
瞬が叫んだ。
水流の音に飲み込まれることなく、声は真耶の耳に届いた。こちらを振り向く。明かりに目が眩んでいる様子が見えた。
瞬と考司は真耶に駆け寄った。近づくと、ライトがなくても真耶の顔が見えた。夜空が雪で白んでいるおかげだ。
真耶は空虚な表情をしていた。瞬は昨夜のことを思い出す。なにも見えていないガラス玉のような瞳。真耶は息を切らす瞬と考司の姿を見ても動じなかった。
「どうしてこんなところにいるの?」
感情のない声で言う。
「こっちのセリフだ馬鹿。帰るぞ」
考司は欄干にかかった真耶の手を掴もうとした。
「いや」
真耶は後ろに身を引いた。考司の手をかわす。言葉にはわずかに感情が戻っていた。拒絶の意志。肌に触れられることを忌々しいと思っている顔。
「かえりたくない」
静かに、だが確かに怒っている声だった。井戸の底のように暗かった瞳も、みるみる充血していく。その目で瞬と考司を睨む。
瞬はこんな真耶を初めて見た。
最初の感想は恐怖だった。理由はわからない。ただ怖い。目の前にいるのは自分の妹なのに。触れてはいけないものに触れそうになっている気がする。だがこれが真耶の心の表面だ。瞬がずっと手を伸ばし続けていたもの。触れずに引くわけにはいかない。
瞬は笑った。わざと場違いに困った顔で。
「僕も帰りたくないよ。父さんと有加里さんの顔を見たくない。ただでさえ気まずいのに、こんな時間に家空っぽにして塾もサボったってバレたら叱られる」
全く関係のない話だが、子どもが健やかに眠っている間にあんなことをしていた人間に、偉そうなことを言われたくない。瞬は自分の考えを子どもっぽいと思った。
「兄さんとコウちゃんだけ帰ればいい。私はもう帰らない」
真耶は首を何度も横に振った。じっとりと濡れた髪が束になって舞う。
瞬は落ち着いて尋ねた。
「それで、どこに行くんだ?」
「知らない。でもきっと、この世界よりはきれいなところ」
「この世界は、真耶にとってそんなに汚いところなのか?」
「汚いよ。ぱっと見きれいに見えても中身は汚い、そんなものばっかり。でも、あの家だけはちがうと思ってた。いつも静かできれいで、安心できる唯一の場所だった。それなのにやっぱりちがった。だからもうこんな世界いらない!」
真耶は欄干に掛けた両腕にぐっと力を入れた。スカートがめくれるのも構わず大きく足を上げて、よじのぼろうとする。
身構えていた二人の行動は速かった。後ろから真耶の胴に手を回し、肩を掴み、橋の欄干から引き離す。瞬が真耶を抱えるようにして、べしゃりと濡れた地面に倒れ込んだ。
「いやだ。放して、兄さん」
真耶はそれでも瞬の腕の中でもがいた。同じように勢いで転んでいた考司が、身体を起こして真耶に近づいた。
「いい加減にしろ」
考司は真耶の頬を打った。
ぴしゃっと音がする。真耶は声を上げなかった。瞬の腕の中で力を失くしていくのがわかる。
瞬が咎める前に、考司は真耶の胸倉を掴んだ。真耶の頭ごしに考司の顔が見える。鬼のような形相をしていた。瞬は思わず言葉を失う。
考司は声を荒げた。
「お前は、勝手なんだよ。いつもいつも。なんでも受け入れそうなふりしてなにひとつ受け入れない。俺も大概好き勝手にやってきたけど、お前のは、性質が悪い」
濡れた長い前髪が乱れる。その度に考司の鋭い瞳が見える。明かりもないのに、瞳自体が輝いているようだった。
「いやとか、汚いとか。思ってんなら少しは言えよ。なんにも言わなけりゃ丸く収まるとでも思ってんのか? 最後の最後にこんな形でぶち壊すくせに」
熱く吐き出される息は白く、煙のように漂っては消えた。
「お前が「死にたい」って言っても、俺はめんどくさい説教とかしないからな。そういうのが欲しいなら瞬にしてもらえ。俺はお前が本気で決めたことなら、どんなことでも最終的には許す。家出だろうが自殺だろうが、好きにしろ。気が向いたら俺もついていくかもしれない。でもな、なにも言わないで勝手に一人で決めるのは、もうナシにしないか」
考司はふっと腕の力を抜いた。掴んでいた真耶の胸倉を離し、代わりに頬を打たれてからずっとうつむいていた真耶の顔を、両手で包み込むようにして持ち上げる。
「なんで全部、一人で考えて一人で決めて、一人で死ぬんだよ。俺とお前は、双子の兄妹だろ。生まれる前から、一緒だったじゃないか」
考司の白い指は震えていた。その指で、丁寧に真耶の髪を後ろになでつけていく。瞬からは見えない真耶の顔が、考司には今見えているだろう。考司は目を細めた。悲しそうに、優しく。喉がぐっと動いて、瞬は考司が泣きそうなのだと気づいた。
考司は腕を降ろした。うつむいて、消え入りそうな声で言う。
「置いていくなよ。頼むから。もう、一人に」
「コウちゃん」
いつの間にか力の抜けていた瞬の腕から、真耶がずるりと身を乗り出す。
「かわいそうに。ずっとつらかったんだね」
真耶は自分がされたように、考司の頬を両手で包んだ。
「ごめんね、私みたいなのが妹で。ごめんなさい、コウちゃん」
川の流れる音をしばらく聞いていた。
誰ともなく立ちあがり、三人は歩き出した。瞬と考司は自転車を引き、傘は結局真耶が一人で差した。
道の途中、誰も喋らなかった。結局一言も話さないまま、三人は家に着いた。
クリスマスイブに予定されていた家族の食事会は無事に行われた。父が予約したフレンチの店。予約した人数は五人。誰一人欠けることはなかった。
普段クリニックの仕事で忙しい両親は、子どもと会話する時間が少ない。こういう機会をとても喜ばしく思っているようだった。
真耶はそんな両親を思ってか、終始明るく振る舞っていた。しかし瞬と考司には、それが空元気でしかないことがわかる。あの日から、真耶は目に見えて暗かった。
食事後、両親は三人を家まで送り届けた後「少し仕事を残してきてしまったから自分たちはクリニックに戻る」と言った。帰りは何時になるかわからない。鍵を閉めて先に寝ているように。
子どもたちは内心冷ややかに「そういうことか」と思いつつ、何事もない顔で二人を見送った。クリスマスイブだし。再婚同士とはいえ新婚夫婦なわけだし、仕方ない。あの日のことがあったから、今の瞬はそう思える。
「寒い」
真耶がそう言って、真っ先に家に入っていった。
瞬も続こうとしたところで、考司が持っていたスマホがブーっと震える。食事中は機内モードにしていたようだが、さっきから考司のスマホは鳴りっぱなしだ。
「今日、誰かに誘われてるの?」
考司は相変わらず派手でグレた連中とつるんでいた。クリスマスなんてイベントのある日には、仲間同士で集まって騒いでいるのだろう。
「んー、まあ。小川とかその周辺が呼んでるけど、あんま行く気は」
言いかけたところで、ぱっと考司は瞬の顔を見た。じっと瞳を見てくる。瞬はなにかを見定められているようだった。
「いや、やっぱ俺行くわ。帰りはわかんねえ。明日になるかも」
は、と瞬が声を出す間にも考司は歩き出す。慌てて追いかけて、肩を掴んだ。
「お前、真耶が心配じゃないのか。まだ不安定なのに」
「瞬がなんとかしろ。二人で話でもすればいいんじゃないか。そういうのは俺がいない方がいいんだよ」
「でも」
「お前真耶のこと好きだろ。妹的な意味じゃなくて。だったら上手く相談にのってやれるんじゃないか。俺は、お前なら真耶の力になれるんじゃないかって思う。俺にできるのは精々真耶を死なせないことだけだ。どうやって生きていくかは、教えられない」
考司は肩にかかった瞬の手をはらった。
「そういうわけだから頼んだ。真耶がいやがらなければ、俺は許すよ」
「許す? なにを」
「あえて言うことじゃねえな」
考司は家から遠ざかっていった。明かりのついた家の前に、瞬だけが残される。
ガチャリと玄関の扉が開いた。
「二人ともなにしてるの? ストーブついたよ」
真耶が顔を覗かせる。その場に考司がいないことに気づいて、不思議そうに首を傾げた。
「今行くよ。考司は友達のところ行った」
はぁ、とため息とつく真耶と一緒に、瞬は家の中に入った。
風呂を沸かして、真耶とじゃんけんをした。勝った瞬が先に入り、真耶が後に入った。真耶がドライヤーで髪を乾かしてリビングに戻ってきたのを見て、瞬は話を切り出した。
「なぁ、真耶。一緒にゲームしないか。小学生の頃みたいに」
瞬が真耶を元気づけようと頭を捻って出した案だった。もう真耶はゲームに興味がないかもしれない。そう危惧したが、真耶はぱぁっと表情を明るくした。
「する!」
久しぶりに華やいだ声を聞く。
瞬は自室のストーブをつけに階上に行き、真耶はその間に一階の暖を落とした。ガスの元栓を閉め、内鍵をかける。瞬は軽く部屋を掃除した。床は散らかっていないが、机の上は教科書と参考書でごちゃごちゃしている。ベッドに置きっぱなしだった洗濯物も、雑に畳んで衣装ケースに突っ込む。部屋がちょうどよく暖まってきた頃、階段を上ってくる足音が聞こえた。
控え目なノックを待つような気持ちで聞いて、瞬は扉を開けた。
真耶は瞬の部屋に入ると、すぐに細かい傷がたくさんついたゲームハードを見つけて「懐かしい」と言った。
「コウちゃんが引っ越す時に全部捨てちゃったのかと思ってた」
「考司がもういらないっていうから僕の部屋に置いたんだけど、結局あいつもたまにゲームしに来るんだよな。気づいたらセーブデータが増えてたりして」
ソフトを選ばせると、真耶は昔好きだったレースゲームがいいと言った。真耶は謎解きやレベル上げが必要なゲームには手を出さない。瞬と考司が交代でやるのを後ろから眺めているだけだった。簡単なアクションゲームや対戦型のゲームをする時に考司が試しにコントローラーを渡すと、下手ながらも楽しそうに笑っていた。
「勝った!」
十回カーレースの対戦をして、ようやく真耶が瞬を抜いて一位になった。
「ありがとう、兄さん」
真耶がコントローラーを置いて、瞬を見る。
「わざと負けてくれたんでしょ。昔から兄さんはそうだった」
瞬はぎくりと肩を引いた。考司にも以前同じことを言われた。
「ばれてたのか。恰好悪いな」
「兄さんはわかりやすいよ。素直ってこと。いい意味だよ」
照れくささをごまかすように、瞬はセーブしてゲームを終了した。
「真耶。この前のこと、ごめん」
コントローラーを置いて、瞬は言った。ゴウゴウと灯油ストーブから温風が噴き出す音だけが部屋に響く。
「僕はあの日の夜、真耶の様子がおかしいって気づいたのになにも言えなかった。次の日だって、学校でいつでも会いに行けたのに、放課後まで行かなかった。僕はなにも出来なかったんだ。真耶のことを、なにもわかってあげられなかった。だから、ごめん」
瞬が静かに言うのを、真耶は黙って聞いていた。ゆっくりと首を横に振る。洗ったばかりの髪が艶やかに揺れた。
「兄さんは、私を見つけてくれた」
「考司と一緒にね。あの時も、結局真耶に届いた声は」
「そんなことない」
真耶は突然身を乗り出して、瞬の口にぺたりと手を当てた。温かく柔らかな感触に戸惑う。息が止まる。その間に真耶は続けた。
「ちゃんと、わかったよ。兄さんは私のことが好きなんだって」
瞬は驚いて身体ごと真耶から離れた。あっという間に顔が赤くなる。鼓動が早い。
どうせ気づかれているなら、今さら取り繕うのは往生際が悪い。わかりやすくて素直なのが瞬のいいところだと、真耶も言った。もう覚悟を決めよう。
「そうだよ。好きだ」
これ以上は熱くなるまいと思っていた顔がさらに熱くなる。耳の奥がじんじんした。真耶はそんな瞬の顔を少し面白そうに覗き込む。
「ねぇ、兄さんも私とああいうことしたいの?」
「ああいうことって」
「パパとお母さんが、たぶん今、してること」
意識が現実に引き戻される。父さんと有加里さんが、今。
いやだ。そんなこと。
「したくない」
「そうなの。どうして?」
「真耶が僕を好きじゃないから」
「好きだよ。兄さんはとっても静かだから。最近背も伸びたし声も低くなって、ちゃんと男の人なんだなぁって思う」
それを言うなら真耶だって、と思う。細い枝のようだった手足にふんわりと肉がついた。寝間着の胸元を持ち上げるふくらみも、知り合った頃にはなかった。女の子なんだなと思う。だけど、真耶が言う好きと瞬が思う好きの間には、隔たりがある。
「なんか、ちがうよ。もし本当に真耶が僕を好きなんだとしても、そういうのは駄目だ」
「どうして? 私に触るの、気持ち悪い?」
「そんなわけない。そんなこと、ないよ」
触れたくない、わけじゃない。
洗いたての髪もなめらかな頬も。微かに甘い香りがする首筋にも。
「好きだから、意識はするよ。そういうことを考えたことがないわけじゃない。今だってすごく緊張してる。でも、僕らはまだ子どもだ。不安定な感情で簡単にそういうこと、すべきじゃない。いつか、未来の真耶が後悔するかもしれないから」
瞬が言うと、真耶は弾けるように笑い出した。大変珍しい光景だ。真耶が息もつかずに笑っている。目に涙まで浮かべて。
「ごめんね、おかしくって。兄さん、学校の先生みたいなこと言うんだもん」
んふふ、と未だ止まらない笑いを喉で押し殺しながら真耶が言った。
瞬はどこか情けないような気持ちになりながらも、満足だった。結果的に真耶は笑っている。久しぶりに元気そうに。それだけで充分幸福なクリスマスイブだった。
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