3-4
夏休みの考司の生活態度は怠惰と放埓を極めていた。まだ涼しい早朝の間に起きて、家族分の朝食を用意すると、すみやかに二度寝にかかる。日が高くなった頃、暑さにうんざりした顔で起きてきてシャワーを浴び、そうめんを茹でて食べる。残り物のおかずがあればそれも食べる。たまに真耶もいるからその時は一緒に食べる。ほぼ無言だ。夕方まではクーラーの効いた部屋で課題をしたりゲームをしたりして過ごす。気が向いたら布団を干す。午後四時になると夕食の支度に取り掛かる。サッカー部の練習から帰ってきた瞬が、繋ぎに菓子パンを食べている間に料理の後始末を済ませて、一緒に塾に行く。瞬は部活のない日は夏期講習にも出ているが、考司にはそこまでの体力はない。日中に外に出るなんて考えただけで目眩がする。
塾が終わるとそのまま帰るのが本来だが、最近は同級生からの誘いが多い。勉学にも部活にも熱を上げられないやつらが、夏休みに体力を持て余して活動的になっている。瞬や両親の咎めるような視線を振り切って、考司はなるべく彼らと会うようにしていた。夜ならば夏の空気も不愉快ではないし、時間も有り余っている。彼らの話も、彼らと遊ぶのも、少しも面白くなかった。だが、やつらは周囲の人間の動向に驚くほど敏感で、些細なことでもすぐに情報を仕入れてくる。おかげで、そいつらとつるんでいれば学校に行かずとも学校の様子がわかる。いわば情報収集が考司の目的だった。
よくつるんでいるメンバーの中に、一年五組の小川という女子がいる。彼女はテニス部に所属しているがほとんど練習に出ず、そのわりに部活の愚痴を毎日のように話していた。聞くところによると、女子テニス部は半ば冷戦状態らしい。真面目に練習に励む部員と、適度にやろうという部員で意見が食い違い、度々対立しそうになるという。小川は、同じクラスの中山優衣のことをひたすら蔑んでいた。
クラスではウチらに媚びてきたくせにさぁ。
部活だとウチらの側につかないで、誰にでもいい顔して、中途半端だし。
しかもあいつ運動神経よくないから真面目に練習やっても無駄なのに。
ああいう子が一番きらい。
どっちつかずでみんなと仲よくしようとか、結局誰とも仲よくしてないのと同じじゃん。
考司は適当に話を聞いていた。小川もそうだが、なぜかこの手の女子によく愚痴を聞かされる。彼女たちは人間関係の重要そうな話でも気を許した相手には簡単に話すから便利だ。ちょろい。
ともかく、女子テニス部内で中山優衣が苦労しているだろうということがわかった。中山優衣は、今こそ距離を置いているが、真耶と友だちでいたような子だ。小川のような女子に目をつけられて平気でいられるわけがない。
八月の下旬。テニス部の練習が終わる時間帯を狙って、考司は久々に学校に行った。テニス部の活動時間は、最近よく学校に行くようになった真耶に聞いた。真耶はクラスに比較的馴染んだ今でも優衣のことを気にしている。
額に滲む汗を手で拭いながら、ひと気のない生徒玄関にそっと入る。誰もいないかと思ったが、カタンと物音が聞こえた。音が聞こえた方の靴箱の列をひょいと覗く。
中山優衣が立っていた。ひどく思い悩んでいる様子で、なにか紙を握りしめている。
あれは、手紙、か。
優衣が手紙を渡す相手というとまず一人しか思い浮かばないが、それならば彼女は一年二組の靴箱の列にいるはずだ。優衣が今立っているのは、一年一組の列。考司のクラスだ。
「よう。久しぶり」
考司はわざと唐突に声を掛けた。
ひゃっと奇妙な声を上げて優衣が驚いている隙に、握っていた手紙をパッと取り上げる。
「考司くん! ち、ちがうの。それは」
「ちがわねえじゃん。俺の名前が書いてある」
封筒には丁寧な字で『荒家考司くんへ』と書かれている。
「あの、か、勘違いしないで! これ、その、ちょっと真耶ちゃんに伝えてもらいたいことがあったから書いただけで、そういう、変な内容じゃないから! 本当に!」
「わかってるって。中山が好きなのは昔からあいつだもんな」
優衣はまたひゃっと言って、固まってしまった。その間に封筒を開いて、手紙を読む。読みながら歩いて、校舎の廊下に人がいないか確認した。
「ふうん。真耶とまた元どおり仲よくしたいのか。直接言えばいいのに」
顔を赤くしたまま立ち竦んでいた優衣が、ゆっくり唇を開く。
「うん、そうなんだけどね。なんか、時間空いちゃったから話しかけづらくて、とりあえず考司くん、双子のお兄ちゃんだから相談してみようと思って手紙書いたんだけど、冷静に考えたら考司くんって夏休み学校に来てないし、今さらどうしようってなって」
「あいつにはそんな気ィつかわなくていいんだよ。そのまま言えば万事解決。なぁ?」
考司は生徒玄関の手前で隠れるように立っていた真耶を呼んだ。真耶は静かに歩いてきて、優衣の前に姿を現す。
「真耶ちゃん!」
優衣は驚き、真耶も恥ずかしそうに顔を赤らめる。考司は優衣が書いた手紙を真耶に渡して、再び外へと足を向けた。
「じゃあな。俺は晩飯の支度するから帰る。今日は冷やし中華な」
真耶がうん、と小さくうなずく。
優衣は考司がなにをしに学校に来たのか疑問に思った。
まさか。あの考司くんが、こんなことのために?
ない。ないない。そんな親切なわけ。ない?
「あ、あの。考司くん」
遠慮がちに呼び止める優衣に、考司は振り向いて言った。
「ああ、そうだ。中山、お前小川に目ェつけられてんぞ。テニス部続けたいなら早めに立場はっきりさせとけ。俺はいっそ辞めてもいいと思うけどな」
優衣は告げられた言葉にショックを受けた。薄々感づいていたことでも、明言されると堪える。だが、おかげで理解した。なにかを諦めて、なにかを選ばなければいけない時が来ている。
考え込む優衣を置いて、考司は再び歩き出した。その背中に向かって、優衣はなるべく大きな声で伝える。
「ありがとう、教えてくれて」
考司は軽く手をあげて、振り向かないまま去っていった。
残された二人は、無言で目を合わせた。お互いのぎこちなさがおかしくて笑ってしまう。
「考司くんって、真耶ちゃんに似てるね」
優衣がそんなことを言った。
「そう? 初めて言われたよ。みんな、双子なのに似てないねって言うのに」
「私も小学生の頃はそう思ってた。でも、なんだろう。今は、中身が似てる気がしてる。周りに流されないで、芯がしっかりしてる感じが」
「そうかな。コウちゃんはそうかもしれないけど」
久しぶりの会話を楽しみながら、真耶と優衣は一緒に帰ることにした。田畑の向こうの燃えるような夕陽を浴びながら、二人はゆっくりと歩く。優衣は腕を大きく空に突き上げて、うんと伸びをした。
「はあーぁ。テニス部、辞めよっかな」
冗談めかして投げやりに言ったのは、不安を打ち消すためだ。
真耶は真剣な顔で聞き返す。
「いいの? 放っといたら小川さんの方が先に辞めてくれそうだけど」
「いいの。そもそも私、そんなにテニスやりたかったわけじゃないんだ。地味な子だと思われたくなくて、テニス部の明るいイメージに憧れてただけ。不純な動機だよね。運動得意じゃないのに無理して入ったから、練習もキツくって。しかも人間関係までギスギスしちゃって散々だよ。危うく真耶ちゃんまで巻き込むところだった。一緒に入らなくて正解」
優衣の表情は不安げながらも、どこかすがすがしかった。以前の優衣はこんなふうに自分の弱い部分を言葉にしなかった。
変わった、と真耶は思う。今は優衣の隣にいても苦しくならない。とても居心地がいい。真耶も変わったことをしてみたくなった。今までなら言わなかったことを言ってみる。
「今度、美術部見に来ない? 私、昔から優衣ちゃんが描く絵、好きだったよ」
真耶の言葉に、優衣は一瞬目を丸くした。
「本当? 真耶ちゃんが言ってくれるとお世辞に聞こえないから嬉しい! 美術部、見学に行くね」
八月の夕陽に照らされた、少女の顔は晴れやかだった。
翌週。八月二十九日。
夏休みいっぱいでテニス部を辞めることを決意した優衣は、今日も練習終わりに美術室に来ていた。手洗い場で真耶が絵の具を片づける様子を、楽しげに眺めている。
真耶がキュッと蛇口を閉めた時。
「真耶ちゃーん」
廊下の奥から、はしゃいだ声が聞こえてきた。小川とその取り巻きが近づいてくる。小川はあからさまに優衣を視界から外して真耶に言った。
「これからご飯食べにに行かない? お好み焼き屋さん予約してんの。友だちみんな誘ったから結構色々来ると思う。帰りはママが送ってくから」
「ウチらも行くし、クラスの子もいっぱいいるよ」
「心配だったら考司くんとか瞬くんとか誘ってもいいよ」
それが狙いだということは優衣にもわかった。
「コウちゃんと兄さんは、塾があるから」
真耶は静かな声で答える。
「そっかぁ、残念。でも、真耶ちゃんは来るでしょ?」
「あ、優衣ちゃんは無理して来なくていいから。練習で疲れてるだろうし」
露骨な嫌味。鼻にかかった笑い声が耳に障る。
覚悟はしていたが、ダメージが大きい。優衣は黙ってうつむいた。
「私、行かない」
凛と冴えた声が嘲笑を止める。
「優衣ちゃんと一緒に帰るから。バイバイ」
顔を上げる間もなく、優衣の手は真耶に引かれていた。咄嗟に言葉を返せない小川たちの横をすり抜けて、早足で廊下を歩いていく。優衣の背後で舌打ちの音がした。口々に「感じ悪い」とか「うざい」とか言いながら、小川たちが離れていくのがわかる。
真耶は美術室に入ると優衣の手を離した。歩いてきた方の廊下を確認して、扉を閉めてくれる。美術室にはもう誰もいなかった。
優衣の鼓動は耳に響くほど大きく、早くなっていた。不安と屈辱と疎外感。真耶の手がひやりとして心地よかった。色んな感情が混ざり合って、涙が出そうになる。
「ありがとう、真耶ちゃん。ごめんね」
優衣はなんとかそう言った。真耶はパレットと筆を片づけながら優衣を見た。
「なんで謝るの?」
「せっかくクラスに馴染めたのに、私のせいで、たぶん一緒にハブられる」
「いいよ。優衣ちゃんがいれば平気」
真耶の声は特に優しくない。いつもどおり、淡々としている。それでも優衣の心はじわりと熱くなる。堪え切れずに涙が零れた。
「ごめんね、本当に。今までのことも、色々、全部」
泣き出す優衣を見ても真耶は動じず、ただ首を傾げた。
「今までのこと?」
「四月のこと、とか」
「あれは、私が」
「ううん。真耶ちゃんが言ってたことは全部本当だった。私、小六の途中くらいから真耶ちゃんのこと、ちょっと怖かったの。なんでも真っ直ぐ正しいこと言っちゃうから、他の女子といる時ハラハラすることが多くて。でも、中学で同じクラスになって、一番話しやすいのは真耶ちゃんだったから、とりあえず仲よくしようと思ったの。新しい友だちを作るより楽な方法を選んだだけだった」
優衣はぐすんと鼻を鳴らした。真耶がスカートの内ポケットから差し出したティッシュを一枚もらう。
「それから、瞬くんのこともね。私、ずっと好きだったから。真耶ちゃんと仲よくしてたら瞬くんとも仲よくなれないかなぁって。下心も超あった」
鼻や目を抑える。今の自分はひどい顔をしているだろう。
「真耶ちゃんに言われて、自分がすごくズルくて汚い人間みたいな気がした。恥ずかしくて、後ろめたくて、だから避けたの。真耶ちゃんが孤立してた時も、ずっと」
言葉が続かなかった。
もし考司くんが学校に戻ってなかったら、どうなっていたんだろう。
孤立する真耶ちゃんを、ずっと黙って見ていたのかな。
そうかもしれない。私はズルくて汚いから。
真耶はティッシュをもう一枚とって優衣に渡した。
「優衣ちゃんは、悪くないよ。みんなズルくて汚いんだから。そういうものだって、知ってたのにわざわざ口に出した私がいけないの。優衣ちゃんが私を怖いと思うのも、優衣ちゃんが兄さんを好きなことも、なにも、悪いことじゃない」
悪くない。
泣いている優衣にはその言葉だけが強く届いた。
「私、今はね、もう怖くないよ。真耶ちゃんのこと」
涙を拭って、顔を上げる。
「うん。知ってる」
うなずく真耶は、少しだけ微笑んでいた。
それからしばらく、優衣は水で濡らしたハンカチで目を冷やした。強くこすらなかったから、すぐに腫れも赤みも引いた。真耶と一緒に美術室の鍵を職員室に返しに行き、校舎を出る頃には宵の色が空に滲んでいた。
歩きながら深く息を吸い込む。夏の終わりの匂いがする。すっと胸が透いた。
「あはは。やっぱり、私が瞬くんのこと好きだって、昔からバレバレだったよね。本人も気づいてるのかな」
恰好悪いところを散々見られたから、もう真耶にはなんでも話せる気分だった。
「兄さんは気づいてないと思うよ。色んな女の子に人気だから、逆によくわからなくなってるみたい。好意を向けられることに慣れすぎて鈍感っていうか」
「へぇ~。なんかすごいね」
優衣には想像もつかない話だった。
弱い風がずっと吹いていて、真耶の髪がさわさわと揺れる。普段隠れがちな表情がよく見えた。優衣はふと思いついたことを尋ねた。
「ねぇねぇ、真耶ちゃんは誰か好きな人いないの?」
いない、と即答するかと思っていたが、意外なことに真耶の頬はさっと赤くなった。素早く数回瞬きをして、唇を開く。
「……いる」
「きゃあ、ホント? やっぱり、瞬くん?」
「ううん、ちがう。兄さんは、血は繋がってないけど、本当に家族みたいだから」
「そうなんだ。じゃあ、真耶ちゃんの好きな人って誰だろう。誰かなぁ」
興奮した様子の優衣を止めるように、真耶は人差し指をぴっと立てた。
「ごめん。まだ、内緒」
真耶が恥ずかしがっている。貴重な表情が見られた。優衣はひとまずそれで満足した。
「そっかぁ。わかった。もう聞かない」
「うん。助かる」
「なんか、色々喋っちゃった。鬱陶しかったかな?」
「全然。優衣ちゃんは前よりすごく静かだよ。だから今は話しやすい」
静か?
そうかな、と優衣は思ったが、口にはしなかった。真耶に話しやすいと言ってもらえたことが嬉しかった。こうして同じ帰り道を歩けることが嬉しかった。夏休みが終わっても、真耶と一緒なら楽しく学校生活を送れそうな気がした。
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