3-3
「真耶がいじめられてるっぽい」
六月上旬。
学習塾『&STEP』の二階ラウンジで瞬が言った。
小雨が降っている。梅雨入りが近い。
「へえ」
考司は無関心な素振りで相槌を打った。
「教室遠いから詳しくはわからないけど、廊下ですれ違う時いつも一人なんだ。この前の遠足でも一人で弁当食べてずーっと本読んでたし、ハブられてるのかも」
「あいつ、いじめられそうな見た目してるもんなぁ」
「考司がそれを言うかよ。その髪、いい加減切ったら?」
「んー。まぁ、髪はその内な。学校はそろそろ行くかも」
「うん。え?」
自然な会話の流れで取りこぼしそうになった言葉を聞き返す。
「中学、そろそろ行こうと思って」
考司は平然とした顔で言った。小四からずっと不登校で、塾に通い始めるまでは本当に一歩も家から出ないような暮らしだったと聞く。家庭環境が変わって、瞬と一緒に塾に通うようになって、考司の中にもなにか変化があったのかもしれない。
「嬉しいよ。最初は無理しないでいいからな。授業には楽についていけるだろうけど」
長く遠ざかっていた集団生活に不安も多いはずだ。そんな素振りは欠片も見えないが、考司のことだから強がっているのだろう。
「おう。今は、梅雨だしな。毎日じゃないけど、たまに行くようになると思う」
「そっか。じゃあ、今までまかせっきりだった家事、僕も手伝うよ。とりあえず洗濯機の使い方から教えて」
瞬がそう言うと考司は笑った。ただ洗って干すだけなら簡単だ。部屋干しで綺麗に仕上げるにはコツがいるけどなと言う。瞬は肌にまとわりつく湿った空気が不愉快なことも忘れて、考司の話を聞いていた。真耶のことで不安だらけだった心も少し軽くなった気がする。こういう時はいつも、考司の方が兄らしいと思うのだった。
重い雲が覆いかぶさるY中校舎。中間テストが終わり、期末にはまだ時間がある、中途半端な時期。新学期の緊張が抜けた分、代わりに倦怠感が蔓延していた。
水曜日。週の真ん中。
一年一組の教室。
朝礼のチャイムが鳴り、朝から眠そうな生徒たちが中年の教師の連絡事項を聞き流していた。教師の声の他に、もう一つ音が聞こえる。廊下を内履きで歩く足音。隣の二組の遅刻した生徒か。一組は今日も生徒全員無遅刻無欠席だ。教師もクラスの生徒もそう思っている。ひとつだけ空いている席のことは勘定にいれない。そこに座る生徒が来ることは、ないものと思っている。
だから、足音が二組の前を通り過ぎて一組の前まで来た時、彼らは驚いた。
一斉に教室の入り口を見る。
暑さのために開けたままになっている扉から、見覚えのない男子生徒が顔を覗かせた。
「うっす」
覇気のない声で、男子はへこっと頭を下げた。
誰。誰々。あれ。
不登校のやつ?
俺、知ってる。小学校同じだった。
髪、長っ!
見た目ヤンキーじゃん。こっわ。
教室がざわつき始める。
担任教師は慌てて入り口の男子に声を掛けた。
「あ。えっと、君は。ああ。荒家、荒家考司くん、か? お、おはよう」
「はよーざいます。あの、先生。ボクの席は」
「そこの、後ろの席。名札が貼ってある」
「はぁ。ありがとうございます」
考司は教室に踏み入り、教えられた席に歩いていった。その間、クラス中の視線も考司を追うように動く。男子の平気よりいくらか身長が高い。適当に結わえた長髪がほつれて、前髪が束になって顔に落ちている。そこから覗く切れ長の瞳。怖そう。
誰もが席についた考司をちらちら見ながら話をしていた。
教師が言葉を考えている間に、朝礼の終わりを告げるチャイムが鳴った。助かったとばかりに、教師は手短に場を収める。
「みんな、今日は荒家くんが来てくれました。クラス全員が揃うのは初めてだな。これから、また気持ちをあらためてやっていきましょう。荒家くんは、この後ちょっと職員室に来てください。それじゃ、日直」
起立と礼の号令がかかる。
一気に騒がしくなる教室を抜けて、考司は初めて顔を合わせた担任教師と一緒に廊下を歩いた。皺の深い担任は、戸惑いながらも考司の登校を喜んでいるようだった。職員室では「よく勇気を出した」だの「一組は友達思いの子が多いから安心」だのと言われた後、遅刻届を書かされた。それから、見た目に関する注意。髪が非常識に長いことは自覚していたが、結んでまとめればなんとかなるかと思っていた。学校に行くために、まず髪を切りに行かなければならないという行程が面倒だった。結局、明日までに切るようにと注意されたが「まあその内」くらいの気持ちにしかならない。考司は髪を他人に触れられることが苦手だった。
職員室から出て四階に戻ると、一組の教室の前で手を振っている人影が見えた。
「おーい。西田、じゃなかった。荒家、考司くぅん」
わざとらしく作った陽気な声。六月になって突然現れた異分子を歓迎するクラスメイトなど、この学校にはまずいない。考司は返事をしないまま、ゆっくり廊下を歩いていった。
じれったそうに考司を待っていたのは、ニキビが目立つ顔の男子生徒だった。馴れ馴れしく考司の肩に手を回す。
「久しぶりじゃーん。俺のこと覚えてる? てか、超イメチェンしてんねぇ。髪とか結んじゃってさぁ。中学デビュー?」
覚えているかと問うので考司は男子の顔を見た。数年の隔たりのせいで互いに面立ちはいくらか変わっているだろう。だが、考司はその男子の顔をなんとなく覚えていた。つり目と、なぜかだらしない印象を受ける口元。ああ、思い出した。あいつだ。
「なんか言えよ、おい」
考司が顔を凝視していたので、睨んだと受け取ったのだろうか。男子は声変わり途中の喉を使って凄んでみせた。
「わりい、名前思い出そうとしてた。顔は覚えてんだけど、名前、なんだっけ。マジで久しぶりすぎてわかんねーわ。よし、吉田?」
「吉村だよ、ばーか。お前、小四ん時クラスでいじめられてたよなぁ! それからずーっと不登校の引きこもりになっちゃって。カワイソー」
吉村は考司の肩をドンと押した。一組の生徒が注目しているのを知って、わざと大きな声で話す。
「クラスでっつうか、俺をいじめてたのは主にお前とその周辺のやつらだったけど」
「あ? なに、喧嘩売ってんの? てか今さらなんで学校来てんの? 俺クラス一緒だしうぜえんだけど」
考司は吉村の見事な成長に感心した。小四の頃から素質はあったが、ここまでY中に似つかわしい生徒になるとは。いっそすがすがしい。
「そろそろ来るべきだと思ったから来た。つっても毎日は来ねえよ。まあ、しばらくは週に二、三回くらいかな。たまに来た時うぜえのは我慢しろ。てか、俺次の授業サボるわ」
「はぁ? 逃げんのかよ」
「お前から逃げるつもりはないけど、一限英語だろ? さすがにやる気しねえわ。無駄に発音とか会話の練習とかさせられても、この環境じゃ身に着かないからだりいだけじゃん。文法と単語はもう知ってるし。受ける意味ないってこと」
長く学校生活から離れていたとは思えない流暢な言葉に、吉村も聴衆の生徒も黙っていることしかできなかった。
考司は彼らを無視して廊下を歩き出す。だが少し歩いたところで足を止めて振り返った。
「俺、昔のことはもう別にどうとも思ってないから。よし、吉村? の、ことも名前忘れるくらいだからマジでなんとも思ってない。昔のことだからお前も気にしなくていいよ」
それだけ言い残して再び歩き出す。
吉村は呆気にとられていた。
「なんだあいつ」
思わず声を漏らすと、教室の窓から身を乗り出していた男子がうなずいた。
「俺も昔同じクラスだったけどさぁ、全然違うな。人って変わるもんだな」
こうして荒家考司の復帰はY中一年生の間に大きな衝撃を与えた。その影響は当然、兄妹である瞬や真耶のところへも及んだ。男子は瞬のところに、女子は真耶のところに、考司のことを聞きにくる。瞬は考司に悪い評判がつかない程度に、正確な情報を伝えた。この春から一緒に『&STEP』に通っていること。成績が抜群に良いこと。もっとも、これは同じ塾に通っている他の一年生から充分広まっている話だった。瞬は考司の中身について問われると、見た目はアレだが性格はいいやつだと念を押した。
真耶の周囲も騒がしくなった。孤立を極めていた真耶に、女子生徒が進んで話しかける。
学校に来てない間なにしてたの?
仲いいの?
双子なのにあんまり似てないね。
真耶は普段接点のない目立つ女の子たちに囲まれて落ち着かない気分だったが、質問には答えた。
「コウちゃんはね」
真耶が考司のことをそう呼んだだけで、女子は黄色い声を上げた。
あんな髪して、背高くて、声変わりもしてて、怖そうな雰囲気なのに。
コウちゃんだってぇ。カワイイ。
彼女たちの記憶の中には、Y小にいた頃の「西田考司」の姿はないらしい。確かに小学生の頃の考司は地味で静かで、それこそいじめられるような男の子だった。それでも、いなかったわけじゃないのに。真耶は知っているはずの考司のことを、初めて知るような顔で聞くY小出身の女子を不思議に思った。
真耶は、考司が家にいる間ほとんどの家事を担当してくれていたこと、考司の作る食事はとても美味しいこと、考司は瞬ととても仲がいいことなどを話した。結果、女子の間で考司の評価はうなぎ上りだった。
本人の言葉どおり、考司は週に二、三回学校に来るようになった。決まって曇りか雨の日。晴れ間が見える日には来ない。おまけに遅刻も早退も頻繁にする。
最初は長い不登校期間があったからと教師陣も多めに見ていた。しかし考司が吉村をはじめとする、不良に近い連中とつるみ出したことから、他の生徒と変わりなく相応の注意がされることになった。
瞬も考司の交友関係をあまりよく思えなかったが、口出しはしなかった。考司は確かに怠惰な行動をとるが、授業妨害や喧嘩をしたという話は聞かない。学校をサボっても塾にはちゃんと来るし、考司なりに考えがあるように思えた。なにより、考司の顔が広くなるにつれ、妹である真耶の周りにも人が近づくようになった。これは大きなことだった。
梅雨が明けると考司はろくに登校しなくなった。来ても午後だ。放課後は部活もせずに友達とフラフラしている。とうとう両親に連絡がいき、夏休み前の三者面談の際にきっちり叱られたという。それでも考司はなにごともないような顔をしていた。
そして事実なにごともなく、夏休みが訪れた。
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