3-2
「第六感世代」
荒家瞬がぽつりと言った。
「ん、なんて?」。
「第六感世代って言葉。最近テレビとかネットとかで話題になってるじゃん」
「ああ。世代とか言われても困るよな。なんか特別な子どもが増えてきたのは事実みたいだけど、全員に第六感があるわけじゃないのに。つうか、無いやつが大半だろ」
「でも、ちょっとワクワクしない?」
「そうか? 俺はいやな予感しかしない」
二人は同時に笑った。
「考司はありそうだよな、第六感。成績いいし、勉強しててわからないって言ってるの、聞いたことないよ」
「そんなの第六感じゃない。成績がいいのは努力の結果だ」
考司は当然だという顔で窓の外を見た。春休みの体験入塾期間。車と自転車が多い。まだ少し冷たさの残る乾いた空気。
「瞬は、どうなんだよ」
話を続ける。
「眼科医の息子だろ? なんかそれっぽいのないのか。すっげえ視力がいいとか、見えないものが見えるとか」
「ないよ。視力は一.五。見えてる世界もふつうだよ。あ、でも、ただ」
ふと瞬がなにかを思い出す。
「変な夢を見るんだ。似たような内容の夢を、繰り返し。いつも女の子が死ぬんだ。その、僕にとって、結構、大事な女の子が」
「真耶か」
「なんでわかった? 第六感か」
「ちげえよ。第六感なんかなくてもわかる」
「……なんで、死ぬ夢を見るんだろう」
考え込む瞬を見て、考司は話題を変えた。
「もうすぐ仮入学だな、お前ら」
「考司もだろ。制服、ちゃんと届いてるぞ」
「自己紹介とかあったらさ、トチりそうだよな。あいつ」
瞬の話に耳を貸さないまま、考司は自分の言いたことを喋る。
「自己紹介とかするかな。今時」
ため息をつきながら瞬が話に乗る。
「もしあったとしたら、だよ。名字変わったばっかりだし。うっかり「西田真耶です」なんて言ったら、名簿とも席の名札とも違うから超目立つぜ」
そう言われると瞬にも想像できた。真耶は少し抜けたところがあるから、充分あり得る話だ。好奇なクラスメイトの視線にさらされて、またいやな思いをするかもしれない。
「わかった。帰ったらちょっと言っとく」
「おう。頼む」
「考司が言ってもいいんだけど」
「俺じゃ駄目だろ。学校行ってねえし。説得力ゼロのクソ兄貴だと思われるのがオチだ」
「そんな言い方すんなよ。僕も真耶も考司には助けられてる。父さんと有(ゆ)加里(かり)さんが忙しい分、家事はほとんどやってくれてるんだから」
有加里というのは考司と真耶の母の名だ。瞬は親同士が再婚して以来彼女をそう呼んでいる。実母が存命だから一応区別しているのだろう。
「俺は時間が有り余ってるからな。暇つぶしみたいなもんだよ。掃除も洗濯も慣れれば楽だし、生協で食材が届くから買い物に行かなくても料理つくれるし」
だが、考司がどこか不登校の免罪符にするような意味合いで家事を担っていることもまた事実だ。この町では学校に行かない子どもは変な子で、変なことはよくないこととされる。よくない子ども。悪い子ども。両親も瞬もそんなこと一言も口にしないが、周りの誰かがそう思っていることは間違いない。
「そうだ、今日の晩ご飯なに?」
瞬が気をつかって話題を変える。
「サバの味噌煮とかぼちゃサラダ。あと胡麻豆腐」
「お、胡麻豆腐は真耶が好きだよな。あ、車来たよ。行こう」
瞬は窓から見える駐車場を指差した。父の車が見える。助手席には母が乗っている。二人は荒家眼科での仕事を終えると、塾に直行して考司と瞬を乗せ、帰宅する。これが荒家家の日常だった。
瞬と考司は一緒に歩き出した。二人で同じ家に帰る。真耶が待つ家に。
Y中学校仮入学の日。
瞬は生徒玄関の手前の廊下に立っていた。硬そうな制服に身を包んだ一年生が次々と通り過ぎていく。自分も他人からは同じように見えているのだと思うと複雑な気分だ。しばらく待って、瞬は真耶を見つけた。
「真耶」
瞬が呼ぶと真耶は人混みを抜けて近づいて来た。
「兄さん」
「クラス、どうだった?」
「私は五組。担任の先生は新谷一馬って名前。眼鏡かけた若い先生。クラスを持つのは初めてだって」
「そっか。まあ、若い先生なら怖くはなさそうだね」
「うん。怖くは、ない。先生はすごく優しそうだったよ。どっちかって言うとクラスの女子の方がよっぽど」
語尾にかけて真耶の声は消え入るように小さくなった。言葉はそれ以上続かない。
「なにか、あった?」
「ううん。特には。自己紹介もあったけど、名字間違えなかったし。初めて「荒家真耶です」って声に出したから、みんな少しひそひそってしてたけど」
夜。塾の講義後、瞬は考司にこのことを伝えた。
「ありがとう、考司。念のため自己紹介のこと考えといてよかった」
「うん。担任が面倒くさいヤツだとやっかいだなと思ってたから」
「どうなんだろう。真耶の話じゃ眼鏡かけた優しそうな先生らしいけど」
「優しいだけじゃクラスはまとまらねえよ」
同意見だった。今はまだ四月だが、本格的に学校生活が始まるとなにかと騒がしくなるのだろう。できれば真耶には喧騒の外にいてほしい。
瞬は考えた。安心できる材料が欲しかった。
「考司は、まだ来ないのか」
普段は尋ねないことを、慎重に聞いた。
「学校か。わかんね。まだ(、、)、すぐには行かねえけど」
予想していたものよりもずっと前向きな返答に瞬は驚いた。頑なだった考司の意志が変化している。実際に考司が学校に戻るかどうかは別として、瞬は単純にその変化を喜んだ。
「そっか。考司のクラス、一組だったよ。僕は二組だから、隣だ」
「へえ。わかった。サンキュな」
考司が学校に来てくれたら、瞬の生活は今よりずっと楽しくなる。考司は瞬の周りにいるどんな友だちとも違う。不思議で頭が良くて、世界のことをなんでもわかっているような、特別な人間だった。ろくでもないY中でどうせ時間を潰さなければならないのなら、せめて考司と一緒がいい。瞬にとって考司は、義理の弟である以前に、一番の親友だった。
入学式から数日が経った。
登校した真耶が自分の席で鞄を開いていると、教室の後ろから優衣が近づいてきた。
「おはよ! 真耶ちゃん」
真耶の顔を覗き込むようにして、優衣が笑った。意図的に明るく元気に振る舞っている。それは新しいクラスメイトに、遠回しながらいい印象を与えようという彼女なりのささやかな努力。真耶のためではない。
「おはよ」
真耶は小さく答えた。眠たくはないが頭がぼんやりしている。だるい。緩慢な動作で教科書とノートを一冊ずつ机に入れていく。
「真耶ちゃんが左前の席って、不思議な感じ。名字「あ」から始まるんだもんね」
優衣が気をつかって話題を振る。真耶の席の正面に立って、チャイムが鳴るまでそこにいるつもりらしい。
「そうだね」
真耶は無関心な返事をした。
「席遠いよね。席替えしたいなぁ。私人見知りだから、周りの子と話すのまだ緊張する」
「そう」
「真耶ちゃんもあんまり他の子と話してないよね。よかったぁ、私だけ一人じゃなくて」
あなたも一人で。同じ仲間がいて。
真耶は鞄の中を見て、筆箱を家に忘れてきたことに気づいた。確かに昨日鞄に入れたはずなのに、なんで。
些細なことだった。そんな些細なことで、真耶の中のなにかが閾値を超えた。以前から抱えていた泥水のような感情が流れ出す。
「優衣ちゃん、あのね」
今までは懸命に抑えてきたけれど、もうどうでもいい。
「もう無理して私と仲よくしなくてもいいよ。優衣ちゃん、自分では人見知りって言うけど、同じ小学校から来た子とは話せてるし。わざわざ好きでもない私とつるまなくても、友だちできると思う」
優衣が言う「一人」と、真耶の「一人」は違う。優衣は孤立しなければ一人じゃないと思っているが、真耶は誰かと一緒にいてもいなくても一人だ。だったら本当に一人でも別にいい。もう余計なことを知りたくない。
「真耶ちゃん? いきなりなに言ってるの?」
「優衣ちゃんが仲よくしたいのは、私じゃなくて兄さんでしょ。もう、わかってるから」
びくっと優衣が身体をこわばらせる。なにも言い返してこない。
「六年生の時、一緒にテニス部入ろうって約束してたけど、やっぱりやめるね。自分で見てから決める」
そう言うと、優衣は声を荒げた。
「そんな、ひどいよ! 一人で部活入れって言うの?」
うっすらと瞳に涙を浮かべて取り乱す優衣に、クラスの視線が集まり始める。
「別に一人じゃないでしょ。テニス部に入る子はたくさんいるよ」
真耶は早々に話を切り上げようとした。
ここで目立っても損をするだけだ。特に優衣が。
「そういうことじゃないじゃん! みんな、仲いい子と一緒に入るんだから」
しかし、感情的になった優衣は簡単に引き下がらない。
「私じゃない子、誘えばいいよ。優衣ちゃんがそれなりに仲いい子の中で、まだ部活決めてない子もいるでしょ。私じゃなくてもいい。私じゃない方が、いいと思う」
優衣の顔がカッと赤くなる。下目蓋に涙が溜まって、きらきらと光を反射する。
「なんで、そんなこと、言うの」
今にも泣きだしそうな震えた声。
真耶はうつむいて、優衣の顔を見ないようにした。これ以上話す必要もない。黙って、うつむいて、ただ座っていることにした。少し待てばチャイムが鳴る。それまでこうしていればいい。
そう思った時、教室の入り口がにわかに騒がしくなった。
「お、荒家じゃん。おはよー」
「おはよ。妹が、筆箱忘れてってさ。届けに来たんだ」
「さっそく兄妹らしいことしてんなぁ。でも、その妹、今モメてるっぽいぞ」
入口から真っ直ぐに視線が注がれるのがわかる。教室前方の入り口からこの席はひと目で見える。真耶は瞬に見られていると知りつつうつむいたままでいた。
「ちょっと入るぞ」
瞬が教室に入ると、クラス全体の空気がさらにざわついた。瞬は周囲には少しもかまわず真耶の席に近づいて、水色のキャンバス地の筆箱を渡した。
「あ、私の筆箱」
瞬は席の前に立っている優衣を見た。
「どうした、中山」
優衣は顔を真っ赤にして、とうとうポロンと一粒涙を零した。
「荒家くん」
涙をせき止めるだけで精一杯の優衣の代わりに、真耶が状況を説明した。なるべく客観的に、言ったことと言われたことをそのままに。ただ「優衣ちゃんが仲よくしたいのは、私じゃなくて兄さんでしょ」という言葉はさすがに伏せた。
ひととおり事情を聞くと、瞬は落ち着いた声で話し始めた。
「真耶が中山に言ったこと全部が間違ってるわけじゃない。僕も、なんでもかんでも人と一緒に決めるのは違うと思う。でも、言い方がよくない。今までずっと仲よくしてくれた友だちに、そんな突き放すようなことは言っちゃ駄目だ。あと、どんな内容でも一度した約束を破るのもよくない。破るような約束なら、最初からしない方がいい。よく考えてね」
真耶は初めて瞬のことを「兄らしい」と思った。忘れた筆箱も、机の上に乗っている。波が引いていくように、真耶はいつもの冷静さを取り戻した。
「わかった。謝る。優衣ちゃん、ごめんなさい」
席を立って言った。言い方が悪かったことと、約束を破ったこと。その二つについては謝るべきだと理解した。
「うん……」
優衣はまだ不満げな表情ながらも、そっと手を伸ばした。真耶がその手を握る。
ちょうどタイミングよくチャイムがなった。
瞬はホッとした気持ちで五組の教室を去った。今日は考司に感謝しなければならない。寝坊しかけていた瞬を起こし、真耶の忘れ物を持たせてくれたのは他ならぬ考司だった。いつもは朝食だけ作ってすぐ二度寝しに部屋に戻るのに、今日は随分親切だ。よほど機嫌がよかったのだろうか。
そんなことを考えながら、瞬は長い廊下を急いで歩いた。
一年五組の教室は、瞬が去った後もまだ浮ついた空気に包まれていた。女子二人の間にちょっとした衝突があっただけだが、動揺や混乱は集団全体に波及する。優衣の目蓋の腫れが引き、クラス全体が落ち着くには少し時間が必要だった。
しかし、その日に限って担任が来るのが遅い。五分、十分と時間が経過していく。クラスの話題は「新谷遅くない?」というそれだけに絞られていく。そして五組はいつの間にか元の様相を取り戻した。
ようやく教室に入って来た新谷は、困った顔で笑いながら朝礼を始めた。
「はあ。おはようございます。町の人から不審者が出たという電話が入りまして。その関係で遅くなりました。みんな、これから放課後はなるべく誰かと一緒に帰るように」
真耶と優衣の小さな衝突を、今さらあえて担任に言う生徒は誰もいなかった。
月曜日の一限目の体育。
先日の一件以来優衣と気まずくなってしまった真耶は、他クラスの女子と組んでシャトルランを測った。部活動を決めないといけない。走っている間もずっと考えていた。
長いホイッスルの音を合図に、散らばっていた生徒が整列し、礼をして授業が終わる。真耶は一人でゆっくり靴を履き替えながら、ふと新谷が美術部の副顧問だと言っていたのを思い出した。美術部は見学した感じでも楽そうだったし、候補のひとつに入っている。
真耶は新谷に駆け寄って声を掛けた。
「新谷先生」
新谷は眼鏡を上にずらして、シャトルランの記録をチェックしていた。
「荒家さん。なんでしょう」
真耶はその仕草が気になった。部活動の相談を脇に置いて聞く。
「先生は近視?」
唐突な質問に一瞬ぽかんとしてから、新谷は眼鏡の位置を戻した。
「ああ、はい。近くのものは裸眼で見た方が疲れないので、つい」
「眼鏡、はずしても結構見えるんですか?」
「家にいる時ははずしてます。でも、車の運転はできないね」
「ふうん」
「体育の指導もあるし、いっそコンタクトに変えようかなぁ。その時は荒家さんのお父さんに診てもらって」
「うーん。先生は眼鏡似合ってますよ。必要ないならそのままでいいと思う。優しそうに見えるから、私はそのままがいい」
「そうですか。あはは」
新谷が笑うので、釣られて真耶も少し笑う。真耶は久しぶりに他人と憂いなく会話している自分に気づいた。
「先生。私、美術部に入りますね。今決めた」
もはや相談する必要はなかった。新谷は近くにいても真耶を息苦しくさせない稀有な人間だ。入部の理由はそれだけで充分だった。
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