3-1

 目を閉じると真っ暗になる。

 声や音も聞こえなくなる。

 真っ暗な世界に慣れてくると、どこからかあたたかい光が差し込んでくる。考司はそこに広がるおぼろげな風景を、目を閉じたまま覗き込む。いつも必ず、最初に見えるのは生家だ。住宅街から少し離れた丘の上に建つ、大きな三角屋根の家。

 若くて美しい女性が見える。庭で花の世話をしている。台所で料理を作っている。こちらに気づくと優しく笑いかけてくれる。母さん。あの頃はいつだってすぐ近くにいた。

 父は大学教授で、家にいる時さえ絶えずぼーっと考え事をしている、不思議な人だった。それでも考司や真耶が傍に寄ると、力強い腕で抱え上げて、何度も頭を撫でてくれた。

 双子の妹は、兄より成長が早かった。言葉を覚えるのも、おむつがとれるのも真耶の方が先だった。幼稚園でもかしこい子だと褒められていた。真耶は、考司の考えていることならなんでもわかってくれるような気がした。

 幸せな記憶はここで終わる。

 小学校一年生の夏休み。家族で海へ行った。初めての海水浴に、考司も真耶もはしゃいだ。真耶は海岸から離れた位置にある岩場でカニを見つけたと言って、考司にも見せてくれた。真耶はカニが気に入ったのか、留まって長い間観察している。考司はすぐに飽きて岸に戻り、砂で遊び始めた。父も母も、近くの陰にいた。潮が満ちる。ふと考司が岩場を見ると、まだそこに真耶はいた。水位が随分高くなっている。真耶はまだカニに夢中なのか、他のことに目がいっていない。その時、ざぶんと一際大きな波が岩場に打ち寄せた。岩場の端に紐で引っかけてあった真耶の浮き輪が、波にさらわれる。考司は急に怖くなってしまった。

「まやァ!」

 大きな声で名前を叫ぶ。

 真耶はハッと顔を上げて浜辺にいる考司を見た。そして自分の状況に気づく。

 流された浮き輪。水位の高くなった岩場。

 真耶もきっと怖くなった。心配そうな考司の顔を見て、なおさら慌てた。

 そして、海に飛び込んだ。

 まだクロールもできない。バタ足でやっと二十五メートル泳げるようになったばかりの真耶が。それより距離があるとわからないまま、泳いで岸を目指そうとした。

 考司は砂に足をとられながら、父を呼びに走った。

 父が見つけた時、真耶はすでに溺れかけていた。父も海に入る。母がライフセーバーを呼びに行く。父は泳いで、ぐいぐい真耶に近づいていく。助けに来た父親に、真耶が縋りつく。しかし父は、自身の力で海岸へ戻れなかった。波が沖へ沖へと巻いている。流されていく。どこからか悲鳴が上がる。海面に二人の姿が見えなくなった。考司と母は声も出なかった。ただ見ていることしかできなかった。

 すぐにライフセーバーが救助しに行ったが、岸に戻った二人に意識はなかった。病院に搬送され、真耶の意識は戻った。父の意識は戻らなかった。父は死んだ。

 それが始まりだ。

 父の死を境に、明るく積極的だった真耶は別人のようになった。口数も笑顔も少なくなり、人がたくさんいる場所を怖がる。母に対してはいつも申し訳なさそうに、ビクビクと怯えながら接する。母も変わった。とてもあっさりした人になった。

 三角屋根の家を引き払い、母の実家で祖父母と一緒に暮らし始めた。母は医療事務の仕事を見つけて、夜遅くまで働いた。祖父は双子を甘やかすことも躾けることもなく放任したが、祖母は教育熱心な人だった。毎日祖母が見ているところで宿題をさせられる。自転車に乗れるように訓練を受ける。考司はなかなか乗れずに何度も叱られたが、真耶はすぐに乗れるようになった。

 風景は連続している。だが、所々に継ぎ目がある。それは考司にしか見えない。考司だけにわかる、世界の継ぎ目だ。そこで世界は変わっている。だから、正確には連続していない。継ぎはぎだらけの世界。

 小学四年生の時。荒家瞬が転校してくる。新しく町にできた荒家眼科クリニックで、母が医療事務員として働き始める。家族ぐるみの付き合いが増えていく。考司は瞬と仲よくなったし、真耶も瞬の父親によくなついた。

 小学校を卒業してすぐ。春休みの間に、母は瞬の父と再婚した。それまで瞬のことを「荒家くん」と呼んでいた真耶に、母は言った。遠く、声が再生される。

「今日からは、真耶の名字も荒家になるのよ。瞬くんの呼び方を変えなくちゃね。そういえば、瞬くんはあなたたちより誕生日が早いわね。瞬くんは真耶のお兄さんになるのよ。同級生だけどね」

 おにいさん。

 真耶は母の言葉を繰り返す。荒家くんがおにいさん。お兄さん。兄さん。

 それから真耶は瞬を「兄さん」と呼び始めたが、考司は呼び方を変えなかった。友だちでいる間から「瞬」と呼んでいたし、変える必要もない。

 祖父母の家を離れて、新築の家に住み始めた。田園風景に馴染まない、スタイリッシュなデザインの家だ。両親と真耶と瞬と考司。五人の家。両親の寝室は一階。兄妹三人の部屋は二階。

 同じく春休みの間に、塾に通い始めた。瞬と二人で。真耶は学問への興味も、高い進学意欲もなく、ただのんびりと春の日を過ごしていた。

 今回はここだ。ここを継ぎ目にしよう。ここから違う世界の枝を伸ばす。

 中山優衣のために真耶がハサミを取った世界は、なかったことにしよう。

 見えていた風景が暗くなっていき、代わりに色んな場面がちらつく。

 ここまで来る間に切り落とした世界の断片。

 双子を叱る時の祖母の顔。

 嘲笑と、身体を羽交い締めにする子どもの腕。

 家に遊びに来る、瞬とたくさんの女子。

 その全ての最期を飾る真耶の死。真耶が死ぬ世界。真耶が死んだたくさんの世界。切り落とす。真耶が死ぬ世界は、切り落とさなければならない。

 閉じた目蓋の向こうに光を感じる。

 また始まる。

 この世界を始める。

 真耶が生きる世界をつくる。

 これは、そのための力だ。

 考司は目を開いた。

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