2-3

 次に真耶が優衣と会ったのは、始業式の日だった。

 廊下側の一番前の席で、新学期も変わらず一人で本を読む。しばらくすると優衣が教室に入って来た。真耶は周囲の目を気にして、わざと顔を上げない。

「おはよう、真耶ちゃん」

 しかし優衣は真耶の席の前で足を止めて、はっきりと言った。

 教室がざわめくのがわかる。鼻にかかった笑い声も聞こえる。もうそれだけで誰の声かわかるようになった。小川さん。優衣と同じテニス部の。

「おはよう」

 真耶は遠慮がちに挨拶を返した。顔を上げて優衣を見る。そして気づく。様子がおかしい。表情。雰囲気。瞳の輝き。なにか違う。この前会った時の優衣じゃない。

「なにかあったの? 具合悪そう」

 真耶が指摘すると、優衣は目を泳がせた。顔周りの髪をしきりに触る。困っている時の優衣の癖だ。優衣は声を出さないまま、ぱくぱくと口だけを動かしてなにか言おうとしていた。真耶は答えをじっと待った。

「はよーっす」

 優衣の後ろの入口から、男子が一人教室に入って来る。クラスの中でもよく目立つバスケ部の男子だ。登校日に見た時よりさらに身長が伸びて、男の子らしくなっている。

 男子は真耶の席の前に立っている優衣に気づいて、すっと顔を近づけた。

「お。中山ちゃん。この前は楽しかったなぁ。また遊ぼうぜ」

 その瞬間、優衣の身体がビクンと揺れる。

「今度は俺も混ぜてくれよなー」

 クラスの別の方角からも男子の声が飛ぶ。

 優衣は目を見開いたままうつむいていた。髪を触る指が微かに震えているのを、真耶は見逃さない。

 真耶は本を閉じて、席を立った。

「優衣ちゃんに、なにしたの」

 教室の中へ入っていこうとする男子を止める。

「は? なにお前」

 男子はなにか不気味なものでも見るような目で真耶を見下ろした。

「おい、小川ァ。こいつあの日のこと知ってんの?」

 窓際の席で足を組んでいる女子に声をかける。

「さあね。誰かさんが言ったんじゃない?」

 小川はちらっと優衣を見て、気だるげに言った。

 視線を向けられた優衣は大げさに両手を身体の前で振ってみせた。

「ちがう、ちがうよ! 私、なんにも言ってない。ほんとだよ!」

 優衣はあきらかに怯えていた。

 真耶は優衣の前に出ようと、机の位置をずらした。衝撃で、机の手前に入っていた道具箱が滑り落ちる。ガジャンと音を立てて、ホッチキスやコンパスが散乱する。

 だが真耶はかまわない。落ちた文房具を拾おうともせず、正面に立つ男子を見た。

「優衣ちゃんに、なにをしたの」

 男子は片眉だけ歪ませて笑った。悪意の声が聞こえる。

「言ってもいいの? 俺は別にまぁいいけどさ」

「やめて!」

 後ろにいた優衣が大きな声を出した。真耶の服の袖をぎゅっと掴んでいる。

「別に、なんでもない。ちょっと、悩み事があって相談に乗ってもらっただけ」

 なんて簡潔で無駄のない嘘なのだろう。

 真耶が黙ると、攻勢逆転とでもいうように男子が喋り出した。

「はあ。中山ちゃんはイイ子だねぇ。言ってやればいいのに。お前がいつまで経ってもクラスに馴染まないからめんどくせえんだって。中山に心配かけてんだよ、お前」

「そうそう。それで慰めてあげてたんだよ。先輩とかも一緒にね。これはマジ」

 窓際の小川がにやにやと笑いながら話を補完する。

「あとは流れでな。勢いっていうか」

 なー。

 まぁよくあることだよねー。

 ただの談笑のように聞こえる声。裏に潜む悪意の色。クラス全体から向けられる好奇と嘲笑の声。うるさい。頭が割れそうだ。

「もういい」

 真耶は屈んで、落ちていた文房具の中からハサミを取った。持ち手を大きく開いた状態で持つ。

 優衣が「あ」と思う間に、真耶は目の前の男子を切りつけた。

 きゃあぁっ!

 どこからか悲鳴が上がる。

「いってぇ! なにすんだよお前っ」

 男子のまくり上げたシャツの袖口が赤く染まっていく。

 真耶はそれを無視して、まっすぐ窓際の少女に向かって歩いていく。小川の周りにいた取り巻きは悲鳴を上げて逃げ出した。本人は震えたまま動けずにいる。

 真耶は彼女の足を切りつけた。

 また悲鳴が上がる。

 次。次は誰だろう。悪意の声に耳をすませる。

 真耶が考えている間に、クラスの人間は次々教室の外に逃げ出していった。「嘘だろ。やべえよ、あいつ」「早く、先生呼んで来い」そんな声が廊下から聞こえる。

 気づけば、机や椅子がぐちゃぐちゃになった教室の中に、真耶ひとりがぽつんと立っていた。いや、違う。よく見ると隅で優衣が座り込んでいる。真っ青な顔で震えている。

 怖い。こわい。

 優衣は真耶のことを怖いと言っている。

 騒ぎを聞いて駆けつけたのか、人を押しのける瞬の声が聞こえる。

 ちょっと、どいて。ごめん。早く。僕の、妹が。

 扉から、瞬の顔が見えた。

「真耶」

 今の真耶はどんな風に見えるのだろう。血に濡れたハサミを持って、教室にひとり立っている真耶は。

「兄さん」

 真耶は開けっ放してあった窓枠に足を掛けた。ここは校舎の最上階。四階。もっと高いところがよかった。けど、まあ、いっか。

 止めようと飛び込んでくる誰かを待たずに、真耶は窓枠を蹴った。




 市立病院。集中治療室前。

 瞬は座り心地の悪い長椅子に座って頭を抱えていた。

 クラスメイトを二人刺傷した後、校舎から飛び降りた妹。

 すぐに救急車が呼ばれ搬送されたが、未だ意識が回復しない。頭を打っているらしい。

 真耶に切りつけられた男子と女子は、どちらも軽傷で済み、もう自宅に帰っている。

 その場には中山優衣もいた。新谷に頼んで、一緒に連れてきてもらったという。外傷はないが、ひどく動揺していた。

 事情は彼女から聞いた。話の途中で、優衣は自分が数人の男子生徒に強姦されたと言った。真耶はそのことを察して激昂し、ハサミを握ったという。泣きながら、それでも真実を告白した優衣を見て、瞬はまず傍らに佇む新谷を殴りたい気持ちになった。この男が全て悪いわけではない。だが、一年五組がこんなふうになるまで、本当に誰もどうしようもなかったのか。

 違う。なにか出来たかもしれないのになにもしなかったのは、自分も同じだ。

 瞬は唇をきつく噛んだ。

 真耶が孤立していると知っていた。担任教師が若く、経験不足であることも。Y中の生徒が夏休みに羽目をはずしすぎることも。知っていた。知っていた。知っていたのに。

 足音が聞こえて顔を上げると、看護師に案内されて歩いてくる考司の姿があった。瞬が連絡を入れてから一時間も経っていない。仕事も学校もない身だからすぐに駆けつけてくれたのだろう。

 君は、と声を掛けようとする新谷の前を通り過ぎ、考司は真っ直ぐ瞬のところへ来た。

「考司。真耶が」

 縋るような声になっているのが自分でもわかる。

「おう。どうだ、様子は」

 考司は軽く手をあげて、瞬の隣に座った。

 あまりにもいつもと変わらない様子に少し戸惑いつつも、状況を報告する。

「意識が戻らない。頭を打ってるって」

「そうか。他になにか言われてるか?」

「なんともいえない状態だって」

「そうか」

 考司はうなずいて、それ以上は喋らなかった。

 瞬は奇妙な感覚に陥った。考司の対応はまるで大人のようだった。瞬を落ち着かせるための静かな声と、最低限の質問。表に出さないだけで、内心動揺しているのだろうか。それにしたって中学生の子どもがこんなに表を取り繕えるものなのか。新谷でさえそわそわして、何度も眼鏡のフレームを触っている。

 誰も一言も喋らないまま、時間が過ぎていく。医師と看護師の声と、金属が触れ合う物音が、扉の向こう側から遠く聞こえる。

「あと、どれくらいかな」

 考司が言った。瞬はあえて見ないようにしていた時計を見る。考司が来てから、まだ三十分くらいしか経っていない。

「わからないよ。手術には時間がかかるって」

「ああ。悪い、そっちの時間じゃないんだ」

 は。

 考司がなんでもないような顔で放った言葉を、瞬は聞き逃さなかった。

 そっちの時間じゃない?

 手術が終わるまでの時間を気にしていたんじゃないのか。

 じゃあ、あとどれくらいって。

 あとどれくらいって、何まで(、、、)のことを考えて言った?

 瞬は長椅子からおもむろに立ち上がった。

「考司。お前、なに考えてる?」

 座ったままの考司を見下ろす。長い前髪のせいで表情が見えない。だけどそれはいい。ただ答えてくれればいい。

 真耶のことを考えている。心配している。

 そう言ってくれることを願った。だが、考司の口からは違う言葉が漏れた。

「別に、なんでもいいだろ」

「よくないよ。だいたい、なんでそんな落ち着いてるんだ。真耶は、今」

 声がつまる。どう言えばいいかわからない。わかっても言いたくない。言葉にすることさえ怖い。それなのに、考司は簡単に口を開く。

「たぶん、死にかけてるな」

「そんな簡単に言うなよ!」

 反射的に叫んだ。新谷と優衣がこちらを見る。

「僕は今、頭の中めちゃくちゃだよ。どうしてこんなことになったのかとか、絶対なにかできることがあったのにとか、これからどうなるんだろうとか、不安と後悔と、よくわからない怒りでいっぱいだ。僕が、血の繋がらない僕でさえ、こうなんだ」

 瞬は考司の胸倉をつかんだ。隠れた表情を見るために。

「お前は繋がってるだろ、考司。お前は、真耶の双子の兄ちゃんだろ。妹が学校から飛び降りて意識不明なんだぞ。わかってんのか。正真正銘本物の兄貴のくせに、なんでそんな平然としてんだよ。お前はいつも、自分の妹のことなのに他人事みたいに」

「瞬くん!」

 瞬の腕に小さな手が触れた。

 横を見ると、離れた椅子に座っていたはずの優衣が隣にいた。止めに入ってくれたのか。急に体から力が抜ける。掴んでいた考司の服を離した。

「ごめん。本当に、動揺してるんだ。ごめん」

 優衣に謝る。彼女もつらいはずなのに、余計な心配をさせてしまった。

 瞬は考司から離れた位置に座りなおした。

 空いた長椅子の真ん中に、今度は優衣が座った。瞬に気づかうような視線を送った後、考司の方に向き直る。

「考司、くん。久しぶり」

 考司は前髪を指で除けて優衣を見た。

「中山優衣か」

「覚えててくれたんだ」

「まあな」

「あのね、一学期から真耶ちゃんがクラスで孤立してたこと、瞬くんから聞いて知ってるかな?」

「ああ」

「一学期、私も真耶ちゃんを避けたの。最低でしょ。その時、たくさん聞いた。真耶ちゃんに対する悪口。見た目のこととか仕草のこととか、本当に些細なことを誇張して馬鹿にして、耳を塞ぎたくなるような言葉に変えるの。わざと真耶ちゃんに聞こえるように言うこともあった」

 一言一言、懺悔のように優衣は話した。隣に座る瞬も、黙って耳を傾ける。

「ねぇ、考司くん。一番多かった悪口はね「偽物の兄貴は優等生なのに、本物の兄貴は不登校で引きこもりの根暗野郎だ」ってやつ。これで、みんな大笑いするの」

 瞬も言われたことがある。妹も(、)不登校になるんじゃないか、とか。少しも面白くない嫌味を何度か。

 優衣は続ける。

「真耶ちゃんは、自分のことはなんて言われても全然聞こえてないふりで毅然としてるんだけど、それを言われた時だけは睨むの。言った人のこと。すごく怖い目で」

 話はそれで途切れた。考司はなにも言わない。

「ごめんね、急にこんな話。ただ、知っておいて欲しかったの」

 すっと優衣が席を立つ。

「なるほどな。ありがとう」

 考司の声を無言で受けて、優衣は手洗い場へ歩いていった。

 ふう、と息をつく音が聞こえる。瞬はそっと考司を見た。髪をかき上げて首をそらし、天井を見ている。小さく、唇が動いた。

「気づかなかった。俺がいなけりゃ上手くいくと思ってたのに。そうか、そういうことも起こるのか」

 誰に言うでもない、独り言。

 だが、本当に誰にも聞かせる気がないわけじゃない。聞こえる距離に瞬がいる。考司はそれをわかっている。

「考司、お前」

 瞬は、なにかに気づきそうだった。

 その時。

「あ」

 考司の口がぱっと開いた。天井に向いた視線が急速に虚ろになっていく。

 どうしたと尋ねようとした時、治療室の扉が開いた。医師と看護師が数名出てくる。

 彼らは身体の前で両手を組んで、頭を下げた。

 医師の宣告に瞬は絶望した。

 ずっと立っていた新谷が床に崩れ落ちる。

 手洗いから戻ってきた優衣がその光景を見て全てを悟る。

 考司。

 考司は。

「瞬」

 背後から声がした。

 すぐ後ろに考司が立っている。

「今度はもっと上手くやるよ」

 なにを、言っているんだろう。

 振り返る気力もない。身体が石になったように動かなかった。

「真耶の本物の兄貴が俺みたいなので、ごめんな。兄さん」

 考司は最後にそう言って、目を閉じた。

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