1-2

 その週の土曜日。夜九時。

 瞬は風呂から上がり、脱衣所で体を拭いていた。つい先月までは汗もすぐ引いたが、気温が上がるにつれ熱がこもるようになってきた。脱衣所の扉を少し開けようとドアノブに手をかけた時。

「兄さん、入るよ! 歯みがき取らせて」

 声とともに、扉は向こう側から開かれようとした。

「わ! ちょ、ちょっと待った」

 慌てて扉の向こうにいる真耶を止める。

「あ、上がったところ?」

 聞かれて気づく。着替えの途中とはいえ下はハーフパンツまで履いている。

「いや、大丈夫。ごめん」

 兄妹なのに変に意識した自分が恥ずかしくなった。こちらから扉を開けると、真耶が飛び込むように入って来た。

「あのね、兄さん!」

 驚いたことに、真耶が明るい。

「私、やっぱりテニス部に入ることにした!」

 普段より数段華やいだ声で言う。見慣れない笑顔が眩しくて、瞬は思わず目をそらした。

「は、はぁ。そう、そっか。なんでまた」

 真耶は軽やかに洗面台から歯ブラシを取った。

「ねぇ、兄さんは知ってた? パパって高校生の時テニス部だったんだって」

 鏡越しに瞬を見ながら、唐突に話を切り出す。

「らしいね。聞いたことある気がする」

「さっきパパに「真耶はもう部活決めたの?」って聞かれて「正直迷ってる」って答えたの。前から私「友だちと一緒にテニス部入ると思う」って言ってたから、パパは不思議そうな顔して」

 瞬が風呂に入っている間、リビングで父とそんな話をしたらしい。

「それで、パパが実は元テニス部だって教えてくれたの。パパはね、私がテニス部に入ったら「休みの日とか一緒にテニスできるかもってこっそり期待してた」なんて言うの」

 ふふ、と嬉しそうに笑って、歯ブラシにチューブを絞る。

「色々見て回って、美術部とか疲れなくていいかなって思ったけど、別に興味はないし、パパと一緒に遊べるならテニスできるようになりたいし、テニス部に決めた!」

 ブラシを口に入れないまま、いつになく饒舌に喋る。

 気がかりな点はいくつもあったが、テニス部という言葉にまず彼女のことが浮んだ。

「その、中山……友だちのことはいいの?」

「うん。謝って仲直りして、やっぱり一緒にテニスしよって言う。優衣ちゃんは、たぶん許してくれるよ」

 瞬の心配をよそに、真耶は明るさを保ったまま言った。謝って仲直りして。たぶん許してくれる。そんなに簡単なものなのか、友だちって。

「そう、なの? 仲直りできそうなら、それはいいことだと思うけど」

 うん、と頷いて真耶は歯ブラシを咥えた。シャカシャカと磨きながら洗面所を出ていく。瞬は濡れた髪のまましばらく呆然としていた。真耶が元気になってよかったという気持ちと、言い知れない違和感が入り混じっていた。




 一年五組の月曜日最初の授業は体育である。一年四組と合同で男女別に行われる。大多数の生徒はそれをとても億劫に感じていた。中山優衣もその一人だ。

 今日はとりわけ気が重い。先週真耶と喧嘩してしまったからだ。クラスで一番親しい友だちだったのに。

 休み時間は他のグループの女子が会話に混ぜてくれるけど、今日の体育はペアをつくってシャトルランを測るらしい。五組の女子の「ペア」は、もうほとんど固まっている。優衣は真耶と気まずいペアを組むしかない。

 と、思っていたが、今朝一番に真耶が仲直りを申し込んできた。本当にごめん、反省したと何度も謝って、やっぱり一緒にテニス部に入りたいと言う。優衣は正直テニス部も真耶と二人でなければ入るのが不安だったから、快く彼女を受け入れた。

 わだかまりがあるとかないとか、そんなことはどうでもいい。中山優衣にとって、今日の体育でペアを組むことの方がよほど逼迫した悩みだった。それが解消されるのなら、なんでも大歓迎だ。

 優衣は懸命にシャトルランを続ける女子の中から早々に脱落し、真耶の隣で息を落ち着かせていた。未だに残って線と線の間を往復しているのは、運動部で活躍を見込まれている子たちだけだ。

 今話題の第六感世代。体力自慢の女の子たち。優衣はそれを眺めてすごいなぁと思う。でも「第六感」という言葉にはピンとこない。あの子たちは運動が得意なふつうの女の子にしか見えない。もっともっとすごいスーパー体力自慢の、それこそ人間離れした女の子を見たらさすがに納得するけど、そういう子はこんな町のこんな中学校にいない。

 優衣の記録を報告した真耶が戻ってくる。当たり前のように隣に腰を下ろす真耶に、優衣は安心した。

「よかった、真耶ちゃんと仲直りできて。私、人見知りだから新しい友だちとか、すぐにつくれなくて」

 真耶は優衣を見て、少し笑った。

「ひとりぼっちは、いやだもんね」

 高いホイッスルの音が響いた。

 体育館の時計を見ると、もう授業時間が終わりそうだ。まだまだ走れそうな少女たちの記録も、時間切れで打ち止めらしい。最後の記録をつけて整列の指示をする新谷を見て、優衣は真耶にそっと言った。

「新谷先生、今日は眼鏡かけてないね」

「コンタクトにしたのかな」

「イメチェン? 男子にナメられないように、とか」

 まさか、と真耶は肩をすくめる。今日の真耶は元気そうだった。

 チャイムが鳴る。女子が一斉に歩き出す。第二体育館から男子も戻ってきた。優衣と真耶は女子の集団から少し遅れて歩いた。すぐ後ろには、戻ってきた男子の集団に捕まる前の新谷がいる。優衣はちょうどいいと思って声を掛けた。

「新谷先生」

 新谷は優衣と真耶を順に見て、にこりと笑う。

「なんでしょう」

「コンタクトに変えたんですか?」

「ああ、そうなんです。今年から体育も一部担当することになったから、その方がいいと思って。まあ副指導員だからそんなに動かないけど」

 真耶はその時あらためて眼鏡のない新谷の顔をじっと見た。意外と彫りが深く目が大きい。

 なんか違う。前より精悍な感じは増したけれど。

 真耶は前の方がよかったと思う。

「眼鏡でもよかったのに」

 ぽそっと漏れた真耶の言葉に、新谷は頭を掻いた。

「あはは。やっぱり眼鏡がないと変かな」

「変、ではないけど」

「まだ慣れないんじゃない? 私も、朝は一瞬誰かわかりませんでした」

 優衣がそれとなく新谷を庇う。

「新学期が始まる前に作っておくべきだったなぁ。コンタクトレンズって最初は色々大変なんですね。眼医者さんで検査して処方箋もらって、つけはずしの練習とかもして」

 へえ、そうなんだぁ。

 優衣はうなずきながら歩いていた。

 順調に、なにごともなく歩みを進めていた。

 だから真耶が「あ」と、声を漏らして突然立ち止まった時、隣から彼女が消えたような錯覚を起こした。

 優衣も新谷も、すぐに気づいて立ちどまる。一歩分だけ距離を空けて、真耶が立っている。立って、宙を見ている。とても具合が悪そうに見えた。

「真耶ちゃん?」

 一歩の距離を詰めようとする優衣を拒むように、真耶は言った。

「荒家眼科ですか」

 小さな、暗い声。

「うちの父に診察してもらったんですか。もしかしてこの前の土曜日?」

 反応したのは新谷だった。

「そうだよ。この前の土曜日に、お世話になったね」

 優衣はよくわからないまま二人の顔を見比べた。真耶はなんだか怒っているようだったし、新谷は少し「困ったな」というか「まずいな」という顔をしていた。

「先生は自己紹介の時、D町で一人暮らししてるって言ってた。あそこには色んなお医者さんがたくさんあるのに。わざわざ休みの日にY町まで来たんですね。まわりくどいやり方で、家庭訪問ですか?」

 しだいに真耶の声が大きくなる。

「そんな。違うよ。最初からそういうつもりで荒家さんのところに行ったわけじゃない。以前からコンタクトにしようと思っていたのは確かだし、四月は忙しくて、この前の土曜日も午前中学校に来てたから、帰りに診てもらったんだ」

「じゃあ、私のことはなにも話さなかったんですか?」

「それは……」

 新谷が言いよどむ。

 体育館と教室棟の間で立ち止まって話す二人は、おおいに人目を惹いた。後方から歩いてくる一年男子。先を行く一年女子も、なにごとだろうと振り返る。

「私が問題児だから? それとも、うちの家庭環境が複雑だからですか?」

 真耶が声を荒げたことで、立ち止まる生徒が出てきた。

 周囲の状況に気づいている新谷は、真耶をなだめるように言葉を紡ぐ。

「荒家さんは問題児ではないし、家庭のことも、僕は特別視してないよ。複雑といってもそう珍しいことじゃない。ご両親の都合で同級生と兄妹になるケースは最近じゃ少なくないから。生徒は興味半分でなにか言うかもしれないけど、荒家さんが気にすることは」

「私のどんなことを話したんですか」

 言葉を遮って真耶が尋ねた。

「真耶さんのことというより、半分は僕のことです。自己紹介をさせたのに、上手くフォローできなかったことを謝罪して、あとは」

 ないはずの眼鏡を上げるように、中指を眉間に当てる。

 新谷も冷静さを欠いていた。

「部活動をどういうふうに決めたらいいか迷っているようですと、伝えた。どちらもそんなに詳しく話してない。荒家先生も世間話のような感じで流していた。だけど、真耶さんに隠れて告げ口したように思わせたなら、謝ります」

 頭を下げようとする新谷に、真耶は一歩近づいた。

「最悪」

 真耶は新谷を平手で打った。

 バチンと音がして、周囲がどよめく。

 体勢を崩した新谷と、なにが起こったのかわからない多数の人間を置いて、真耶はその場を走り去った。

「真耶ちゃん!」

 優衣はかろうじて名を呼んだが、足が動かない。

 すれ違いざま、誰にも聞こえないような、泣きそうな声で、真耶が言ったことが耳についていた。

 恥ずかしくって、もうパパに会えないよ。

 優衣は、友だちなのに真耶のことをなにもわかっていないと気づいた。

 真耶と新谷が口論になったその時。

 真耶が新谷を打ったその時。

 真耶がすべてから逃れるように廊下を走っていたその時。

 瞬はなにも知らずに教室にいた。騒ぎは未だ一階に留まり、瞬がいる四階の教室には届かない。

 二時間目のチャイムが鳴る直前、窓の外から長いクラクションの音が聞こえて、ガシャンという音も聞こえて「ああ、またあの交差点で車が事故ったかな」なんて思った。Y中の前の道路はいつも車が多い。事故が多発する交差点まで百メートルもない。

 チャイムが鳴っても教師は来ず、代わりにY中全体がいつもより騒がしかった。Y中はいつも騒がしい。いつも騒がしいのにいつもより騒がしいのだから、なにか問題があったのだろう。だから教師がすぐに来ない。教師より先に、生徒が飛び込んできた。一年五組の男子。

「荒家!」

 瞬のところに届いた「お前の妹が」で始まる情報は「新谷とモメてる」でも「学校から逃げ出した」でもなく、「トラックに轢かれた」だった。

 真耶は死んだ。

 運転手は真耶が電柱の陰から飛び出してきたと言った。あきらかに信号を無視して。覚悟を決めるようにぎゅっと目を瞑っていた、と。

 わけがわからなかった。

 色んな人から色んな話を聞いたけど。

 どうして真耶が死んだのか。死ななければならなかったのか。少しもわからなかった。

 だってそんな簡単に真耶が死ぬわけがない。

 もしも仮にすべて事実で、瞬の推測が正しいのだとしても。

 そんなわけない。おかしい。こんな。

 こんな世界はおかしい。

 あってはならない。

 そう思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る