1-1

 Y中学校、仮入学の日。

 Y小学校を中心に近隣四校の新入生が古びた校舎に集う。仮入学では、クラス発表と担任との顔合わせがあった後、教科書が配られる。新入生は正午には解散となった。

 瞬は生徒玄関の手前の廊下に立っていた。硬そうな制服に身を包んだ一年生が次々と通り過ぎていく。しばらく待って、瞬は探しているひとりを見つけた。

 集団の中に沈み込むモノクロの姿。肩にかかる長さの黒い髪。その隙間から覗く白い顔。小さな肩をさらに小さくするように、猫背気味に歩いてくる。真新しい紺のセーラー服は、彼女の身体に重くぶらさがっていた。

「真耶」

 瞬が呼ぶと、うつむいていた少女は顔を上げた。

 凍りついたように動かなかった表情が少しだけ変化する。瞳が開き、口元がふわりと緩む。真耶は人混みを抜けて瞬の前に来た。

「兄さん」

 小さな声で言う。とても人目を気にしているようだ。髪で顔を隠しながらチラチラ周囲を窺っている。瞬はなるべく穏やかな声で聞いた。

「クラス、どうだった?」

 途端に真耶の表情が暗くなった。周りを気にすることもやめて、再度うつむいた。あえて感情を抑えた声で、淡々と答える。

「私は五組。担任の先生は新谷一馬((しんたに かずま)って名前。眼鏡かけた若い先生。クラスを持つのは初めてだって」

「そっか。まあ、若い先生なら怖くはなさそうだね」

「うん。怖くは、ない。先生はすごく優しそうだったよ。どっちかって言うとクラスの女子の方がよっぽど」

 語尾にかけて真耶の声は消え入るように小さくなった。

 瞬は真耶の顔を心配そうに覗き込む。

「なにか、あった?」

 真耶の口角がきゅうっと上がる。こんな時ばかり無理に笑おうとする。

「別に、大したことじゃないよ。名簿順で自己紹介させられたんだけど、失敗しちゃって。ちょっと笑われただけ」

「自己紹介なんてするのか。今時」

 そういう場面を負担に感じる子どもが少なくないと知れて久しい。指導する側も気をつかっているかと思ったが。新谷とかいう担任教師はクラスを初めて持つらしいし、変にやる気を出しているのか。性質(たち)が悪い。

「もういいの。私が勝手に緊張して間違えたんだから、私が悪い」

 卑屈な声が瞬をもどかしくさせた。

「私、もう行くね」

 返す言葉を探している内に、真耶がその場を去ろうとした。やはり周囲の視線をとても気にしている。瞬と一緒にいるところを他人に見られたくないようだ。

「悪くない」

 動き出す少女に、かろうじて声を送る。

「真耶は、悪いことはなにもしてないよ」

 真耶は足を止め、瞬を振り返った。

「大丈夫。気にしてないから」

 困ったように目を細める横顔は、少しも大丈夫そうには見えなかった。




 その日の夜。塾の講義後、瞬はいつものように窓際で迎えを待ちながら、考司に今日の出来事を話した。

「今時、自己紹介とかさせるのか」

 考司の最初の感想はそれだった。

「僕も、精々点呼とるくらいだと思ってたよ」

 重いため息が漏れる。

「なんか暑苦しそうな教師だな。新谷だっけ、名前」

「そう。真耶の話じゃ眼鏡かけた優しそうな先生らしいけど」

「優しさなんて空回りしたらめんどくさいだけだからなぁ」

 もっともだと瞬もうなずいた。

 今はまだ四月だ。新入生はしばらくオリエンテーション期間だし、生徒にも緊張感がある。数日たって本格的に学校生活が始まると、なにかと騒がしくなるのだろう。できれば真耶には喧騒の外にいてほしい。

 瞬は考えた。安心できる材料が欲しかった。

「考司は、まだ来ないのか」

 普段は尋ねないことを、慎重に聞いた。

「来ないって、なにが」

「なにが、じゃなくて。学校に、来ないかなって」

 はぐらかそうとする素振りにあえて踏み込む。予想どおり、考司はぴたりと唇を閉じた。だが沈黙は長くない。少しの間を置いてすぐに答えが返ってきた。

「行かねえと思う。塾通わせてもらってるから勉強は大丈夫だし」

「勉強は、そりゃ心配ないだろうけどさ。部活とか、他にも、色々あるだろ」

「その色々がしんどいから俺は行かなくなったんだよ」

 煩わしそうな声に、今度は瞬が口を閉ざす番だった。考司の長い前髪で隠れた表情は、ひどく気だるそうで、同時に張り詰めていた。拒絶を打ち破ってまで説得できるだけの意志と根拠が、瞬にはない。瞬は考司が学校に行かなくなった理由を知っている。理由というかきっかけだ。

 小学四年生の時、考司はクラス内で一部の男子にいじめられていた。冗談交じりにからかわれるところから始まって、エスカレートして、ものを奪われたりプロレス技の練習台にされたりしたらしい。

 瞬はその年転校してきたばかりで、考司ともクラスが違った。正直自分が環境に適応するのに精一杯で、他のクラスのことなど気にしていられなかった。だけど、そういう様子を何度か見た気がする。廊下で、あるいは昼休みの体育館で。まだ考司の名前さえ知らなかった瞬は、その度に見て見ぬふりをした。なにも感じとらないようにしていた。自分の行動に罪悪感を覚えたのは考司と仲よくなってからだった。

「ごめん」

 軽々しく学校に来ないかなんて言ったことを、瞬は後悔した。

「別に、謝らなくていいよ。でも学校は行かない。ただでさえダルいのにY中ってクソ荒れてるじゃん」

 否定はできない。Y中が「クソ荒れてる」という噂は何年も前から定評化していた。

「まあね」

 瞬は苦笑するしかなかった。「荒れている生徒が多い」ではなく「学校が荒れている」という評判は、特殊な効果を持っていた。それまで問題のなかった多くの小学生が、Y中に入った途端変わる。際立った一部の生徒だけでなく、全員が変質する。まるで「荒れている」という評価に合わせるように。どんな有望な世代が入学してきても、卒業する頃には皆荒んだ瞳をしている。だから、Y中は常に荒れていた。

「真耶も、Y中で変わっちゃうのかな」

 三年後の真耶を思う。瞬には真耶が大きく変わった姿は想像できなかった。

「全く変わらないってことはないだろ。なにかしら影響は受ける」

「せめて、率先して問題を起こす方向には変わらないといいけど」

「そっち側に回った方が、案外健全かもしれないぜ」

 うなずけるところはあった。真耶はそのくらい自由奔放でいいのかもしれない。言うまでもなくあきらかに、彼女は虐げられる側になる可能性が高かった。




 新学期が始まって数日が経った。

 瞬は珍しく寝坊して、余裕のない足取りで通学路を歩いていた。最近睡眠不足だったせいだ。相変わらずいやな夢を見る。真耶が死ぬ、例の夢。眠りの浅い日が続いていた。

 いつもより遅くなったものの、遅刻には至らず校舎に着いた。階段を上っていくと、バタバタと慌ただしい足音が下りてきた。踊り場に勢いよく飛び出してきた男子生徒は、瞬の知っている顔だった。思わずぶつかりそうになるのを、お互いになんとか回避する。

「おお、荒家! ちょうどよかった」

 瞬が挨拶をする間もなく、男子は興奮気味に言う。

「お前の妹が女子泣かしてるらしいぜ。もうすぐ朝礼だし、先生に見つかったらやばいんじゃね?」

 深刻さなど欠片もない、好奇心に浮ついた声は瞬を不快にさせたが、それよりも話の内容が気になった。

 女子を泣かせている。

「真耶が?」

 そんな馬鹿な。

 疑いつつも身体は反射的に動いていた。階段を駆け上がる。一年五組は最上階、四階の南東側にある。階段を下りてくる生徒と何度もぶつかりそうになりながら、瞬は急いだ。

 四階につく。廊下を歩いて五組を目指した。ざわめきが波のように打ち寄せてくる。その波を押し止めるように、朝礼のチャイムが鳴った。しかし、廊下に出た生徒は自分の教室に戻ろうとせず、五組の教室前に張りついていた。足早に歩いてくる瞬を一瞥してはっとした後、にやりといやな笑みを浮かべる。そんな野次馬たちを押しのけるようにして、瞬は教室に一歩足を踏み入れた。

 三十余名の視線が一斉に瞬に向く。真耶は窓側の最前列の席にうつむいて座っていた。席の前には背を丸くした女子が立っている。立ったまま指を目に当てて泣いている。教室が少し静かになったことで、まず真耶が瞬に気づいた。声を出さないまま「あ」と口だけが開く。怒りも悲しみもない表情はただ暗く冷えきっていた。次に真耶の席の前に立っていた女子がこちらを見た。見た瞬間に目を逸らした。そしていっそう泣き出してしまう。その反応に瞬は困った。なにもしていないのに、ひどく傷つけてしまった気がする。瞬は彼女を知っているからなおさらだ。

 中山優衣(なかやま ゆい)。真耶の一番の友だちだと、認識していた。

 まずは事態を把握しなければならない。二人に近づこうとする瞬を、後ろにいた誰かの声が止めた。

「やべ、先生来た」

 廊下を見ると、言葉どおり教師が歩いてきていた。眼鏡をかけた、若い男の先生。新谷(しんたに)、新谷、なんだっけ。下の名前は忘れた。いかにも優しそうな、親切そうな、悪くいえばナメられそうな教師。新谷は自分のクラスの異変に気づいたらしい。

「なんの騒ぎですか? 早く自分のクラスへ戻りなさい。もうチャイムは鳴っただろう」

 他クラスから見物に来ていた野次馬が散っていく。それでも瞬だけは最後まで教室の入り口から動けなかった。

「君は?」

 新谷が動揺を隠せない声で尋ねる。

「荒家瞬です。あの、僕の妹が」

 瞬は遠慮がちに教室の中を指差した。新谷は真耶の席を見て、少なくとも「なにかあった」ことを把握した。

「荒家瞬くん。君はひとまずクラスに戻って。朝礼が始まります。もしかしたら、後で呼び出しがあるかもしれません」

 戸惑った様子ながらも、新谷の指示は的確だった。瞬は軽く礼をして自分の教室に急いだ。ざわついた心のまま朝礼を受け、なにごともなく一日が始まった。休み時間になる度にそわそわしたが、結局放課後になっても校内のスピーカーは瞬の名を呼ばなかった。

 瞬は当事者ではないし、聞かれて答えられることもないから仕方ない。だが、非常に気になる。今朝なにがあったのか、推測すらできないのが問題だった。

 立ったまま泣いていた中山優衣と、座ってうつむいていた真耶。二人は言い争うどころか会話さえしていなかった。中学生の衝突にしては静かすぎると思った。中山優衣の涙に対して、真耶が落ち着きすぎている。感情的にならないよう、努めて冷静でいたというふうでもない。目があった瞬間。真耶の顔はただ空虚だった。

 最初は新谷に聞いてみようかと思った。しかし瞬が呼び出されなかったことから、事態は「二人の間の問題」として処理されたことがわかる。いくら兄とはいえ、簡単に詳細を教えてはくれないだろう。また、真耶のクラスメイトに探りを入れることも躊躇われた。自分が干渉することで影響が出ないとも限らないし、憶測と脚色が混ざった話で真耶を誤解するのもいやだった。

 やはり本人に聞くしかない。だが触れてもいい話なのか。

放課後の校舎を歩く瞬の足は自然と重くなった。考え事をしながら歩いていると、外部から聞こえる音が遠くなる。視界も同じだ。見えているが見えていない。瞬はその時自分が生徒玄関に差し掛かっていることだけ把握していた。

「兄さん」

 だから、背後から小さな声が聞こえた時はとても驚いた。振り向くと真耶が鞄を肩にかけて瞬を見上げていた。

「真耶か。びっくりした。もう帰り?」

 咄嗟に目の前にいる真耶と考え事の中の真耶が結びつかず、他愛ないことを聞いてしまう。真耶は首を横に振った。

「これから部活動見学に行くの」

 部活動見学。

「ひとりで?」

 言ってからまずいと思う。真耶の最も親しい友だちは、今朝彼女の正面で涙を流していた。真耶は他の誰かを誘うことも、他の誰かに誘われることもなかったのだろう。

 真耶は答えの代わりに話を切り出した。

「今朝のこと、なんだけど」

 瞬は聞こうと思っていたことを聞かずにすんだ。真耶の話に耳を傾ける。

「私、友だち……優衣ちゃんと小六の時から約束してたの。「一緒にテニス部に入ろう」って言われて、その時は部活なんてなんでもいいと思ってたから「いいよ」って言っちゃった。だけど、事情が変わったから」

 事情という言葉を紡ぐとき、真耶の視線は左に逸れた。

「部活一緒に入る約束、なしにしたいって今朝言ったの。優衣ちゃんは完全に私とテニス部に入るつもりだったし、なにより私の言い方がよくなかったから、傷つけちゃって、優衣ちゃんが取り乱して、それで」

 それで瞬が朝見た場面に至る。少なくとも真耶の話ではそういうことらしい。瞬の心はそれだけの話で随分落ち着いた。気になることはまだあったが、追及しない。真耶が言いたくないこともあるだろう。

「そっか。部活は、色々見てから決めることにしたのか」

 なにも尋ねない瞬に真耶も安心したのか、表情を和らげる。

「うん。やりたいこととかなんにも考えてなかったから、わからなくて」

「新谷先生は、なんか言ってた?」

「ごめんね。入学早々心配かけて」

 去り際、真耶は言った。気にするなと返す瞬にぎこちない笑顔を送り、真耶は背を向けた。一人で歩いていく背中は小さく、瞬の不安は尽きなかった。

 中山優衣とは仲直りできたのか。新しい友達はできそうか。つらいことはないか。

 考えたらきりがない。だが過度な詮索はしたくなかった。真耶本人にも、今はわからない状況や気持ちや、未来がある。それを焦って先回りする必要はない。瞬はそう思うことで不安を打ち消した。

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