小碓と八柳
「暗くなってきたから、おいとまするよ」
格子を覗くと日が沈み、空が朱色の衣を羽織っていた。
もうこんな時間か。
「見送ります」
「いいよ。外は寒い。身体を拭いたとはいえ、まだ寒いだろう? あ、宿禰くんに少し話があるから来てくれるかな?」
「承知しました」
宿禰も立ち上がり、二人は部屋から出て行く。
足音が完全に消えると、八柳が大きく息を吐き捨てた。
「き、緊張したー……」
へなへなと姿勢を崩す八柳。小碓もその言葉に同意した。
「僕も緊張したよ……あんなに怒った兄上は、久しぶり」
「前にもあったのか?」
「小さい頃、僕が物部の下っ端に暴力振るわれたことがあったんだけど、宿禰が怒る前に兄上が笑顔で下っ端に迫って……あの時は怖かった」
小碓はその時、怪我をした。頭から血を流していたが、それほど深い傷ではなかった。その傷を見た瞬間、櫛角別はにこぉと笑ったのだ。その笑顔を見た下っ端が、青褪めて震えあがっていた。その下っ端の衿を掴んで、そのまま何処かへ連行した櫛角別。
さらに怖い事に、その下っ端はそれ以降見ていないのだ。
「あ、あー! そういえば、気になってたんだけど」
「なに?」
「宿禰の旦那って泳げないのか?」
ああ、と視線を泳がせた後、小碓は八柳の隣まで近付いて声を潜めた。
「宿禰ね、赤ん坊の時、川に捨てられて溺れたんだって。それを宿禰さんが助けて、そのまま育てられたらしいんだけど」
「宿禰さん? 旦那のことじゃないのか?」
「違うよ。宿禰さんは宿禰の義理の父上。宿禰っていうのは襲名でね、一族の当主がその名を与えられるんだ。宿禰にその名を与えたってことは、次の一族の当主は宿禰だってほぼ確定しているらしいよ」
もっとも宿禰は小碓に付いているので、本当に継ぐのか分からない。
八柳が己の頭を激しく掻く。
「ややこしいなぁ! 宿禰が二人もいるなんて」
小碓は苦笑した。
「そうだね……で、話は戻るけど、宿禰は赤ん坊の頃に溺れたのが原因で、水に近寄ろうとはしなかったんだって。今は大丈夫だけど、その時の名残で泳げないんだ」
「はぁ……難儀だなぁ」
先程のように、小碓が川に落ちた時も助けられない。護衛としては致命的である。
「本人も気にしているから、このことはあまり口に出さないでね?」
「わかった。ところで、あの人……櫛角別王子、だっけ? 一旦喋り出すとなかなか止まらないよなぁ。考える間というか覚える間がなくて、さっきの話、半分も聞き取れなかったぜ。はぁ、頭が痛い」
疲労した声に小碓も同意する。
「そうだね。僕はあれには慣れたけど、たまに頭が追い付かなくなるんだ……宿禰には分かっているんだけどね」
「旦那、すげぇな」
「うん、すごい。あ、よかったら今晩泊まっていく?」
「え、いいのか?」
「うん、助けてくれたお礼だよ。これくらいしか出来ないのが、申し訳ないけど」
「そんなことないぜ! すげぇ助かる!」
よかった、と小碓は笑う。
「夕餉作ってくるね」
「王子が作るのか?」
「ここ、僕と宿禰以外誰もいないんだ」
「そうなんだな。俺も手伝おうか?」
「お客様にそんなことさせられないよ。じゃ、ここで待っていて」
腰を上げて小碓も部屋から出て行った。
一人ぽつんと残されて、八柳は胡坐を掻いて息をつく。
「ふー。なんか、大変な事に巻き込まれたなぁ」
墓荒らしの犯人を影で追っている、この国の第三王子。その王子を殺害しようとした誰か。
頭を掻く。
「夜を一回越したら、帰るつもりだったけど、放っておけない件が出来ちまったなぁ」
八柳は小碓を見て、やたらと遠慮がちな性格をしているな、と思った。あの様子だと、自分の申し出をやんわりと断らせそうだ。
だが、誰かに命を狙われている事を知ったからには、放っておけない。事件が解決していないまま帰ったら、心配すぎておちおち眠れないではないか。
「うーん。この件が片付くまで居座るか……俺も何か出来るだろうし」
矛を扱えるし、自分の矛を持っている。宿禰がいない時も、小碓を守れることくらいは出来るだろう。
「そういや……」
ふと、疑問が浮かぶ。
「どうして旦那は、小碓のことを小具那って呼ぶんだ?」
小具那。その言葉は、男児という意味なのに。
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