親子

 その頃、宿禰は川には行かず、薄暗い林の中を音も立てず、注意深く進んでいた。

 辺りを警戒し、視線を巡らせ、息を殺す。


 気配を探るが、虫の鳴き声や木々のざわめき以外、不自然な音もしなければ怪しい影もない。

 至って普通の、いつもの林の風景だ。



(気のせいか……? いや、たしかにこの林から)



 稲刈りをしていた時から感じていた、肌がぴりぴりするほどの鋭い視線。自分に向けられたものではない。間違いなく、小碓に向けられた殺気。この林の中から、感じた。



(逃げたか……?)



 宿禰がこの林に入ったとき、ここから去ったのか。



(小具那が辺りを見渡したから、ここから去ったのか? いや、休憩している時も感じた。小具那も気付いたみたいだから、早く片付けておきたかったのだが……)



 己の言葉で気のせいだと思っている間に、小具那に仇をなす誰かを始末しておきたかった。だが、逃がしてしまった。



(次感じたら、絶対に逃がさないようにしなくては……小具那に手を出す前に)



 小具那の身に危険が降りかかる前に、何としても。



(いつでも小具那を守れるように、常に傍にいるようにしないとな)



 今でも十分傍にいるが、これからはもっと傍にいないといけない。相手が手を出してきた時に備えて、準備も怠るわけにもいかない。

 その前に、やることがある。



「……水、汲みに行かなくては」



 水を汲むという口実で、あそこから抜け出したのだ。ちゃんと、水を汲んで帰らないと怪しまれる。


 踵を返して、今度こそ川の方に向かう。


 林を出ると、すぐ目の前に太陽の光を受けて煌めく川が流れていた。時の流れが遅く感じてしまうほど、ゆっくりと。

 川のせせらぎが、やけに耳朶を打つ。


 宿禰は川の傍で膝をつき、竹筒を川に浸して水を入れる。



「川の中に手を入れても、怯えなくなったか……感心、感心」



 気配もなく、突然聞こえてきた声に顔を上げる。


 川の向こうの薄暗い林の中に、浮き上がる人影。そこには中年の男がいた。白髪の交じった茶色の髪は薄く、顎にはうっすらと髭が生えている。


 男は林の中から出て、口角を吊り上げた。冷淡な炎が、瞳の中で揺らめく。

 剣呑な目で、宿禰は男を見据える。



「お久しぶりです、父上……このような場所におられるなんて、如何されましたか?」



 すると男は、ふん、と鼻息を漏らした。



「私は大王の耳であり、目であり、足であり、腕である者。纏向日代宮から、滅多にお出ましにならない大王の代わりに、この倭国を見て回るのは当然のこと。いつ、何処にいてもおかしくはない」


「……失礼しました。纏向日代宮の外で、お見かけになったことがなかったものですから、何か任務があるのではないかと思いまして」


「避けて通っているからな。仕方のないことだ」



 隠すつもりもなく、男はしれっと言いのけた。


男が小碓のことをあまり好いていないことを、宿禰は知っていた。表では、王子、と笑顔を向けているが、影では蔑ろにしている。


一応父親なので丁寧な対応をするが、宿禰にとって父は敵だった。



「それにしても、成長したな。昔は池や湖、川までも足が竦んで近寄ろうとしなかった奴が、水に触れるようになっているとは」


「それはまだ、私が幼かった頃の話です。今ではこの通りですよ」



 二つの竹筒に水を入れて腰を上げる。視線は、男を見据えたままだ。



「ところで、父上。私に用があって来たのでは?」


「息子の顔を見に来て、何が悪い?」



 その言葉に、宿禰は鼻で笑ってやった。



「顔を見に来た? ご冗談を。それだけの理由で、貴方が行動するわけがない」


「随分と断定した物言いだな」


「確信しているので」



 わざわざ息子の顔を見に来るような男ではない。そのような愛の概念など、この男は持ち合わせていない。

 理由があって、目的があって、この男は行動する。それがないと、この男は動かない。


 男は口角を吊り上げたまま、問うた。



「どうしてお前は、小碓に付く? あの王子に付いても、お前に得はないだろう」


「私は損得で、あのお方に付いているわけではないのですよ」



 物心付く頃から、男に言われ続けた言葉。一族の掟、あるべき姿。それらを無視して、宿禰は小碓の傍にいることを選択した。危険を背負っての覚悟だった。


 ただ、傍にいたいと思ったのだ。笑顔にさせたいと願ったのだ。守ると誓ったのだ。

 ただ、それだけなのだ。宿禰を突き動かしたものは。



「分からんな」



 小馬鹿にしているかのように、男は言葉を吐き捨てた。



「どうして、あえて忌み子である王子を選ぶ? 大王から仕事を貰うことがない。支給品を貰っているが、他の王子や姫に比べれば塵だ。民と大して変わらぬ生活をしている。どうして、お前のような優秀な男が大王から忌み嫌われているあれに執着している?」


「私は忌み子だとか、正直どうでもいいので。それに、貴方には分からないことですよ」


「ふん……まぁ、いい」



 苛立ちを孕んだ声を放って、男は踵を返す。



「だが、忘れるな。物心付いたお前に与えた名の意味を。そして、一族の掟を」



 ゆっくりと林の中へ消えていく男の背中を、ただ見据える。



「いずれお前は、大王に仕えなければならぬことを」



 そう言い残し、男は姿を消した。


 肩の力を抜いて、中に溜まっていた空気を吐き出す。

冷や汗を掻いている。どうやら、自分は思っていた以上に緊張していたらしい。



「与えられた名の意味、か。はっ」



 吐き出された笑声は、忌々しげだった。

 与えられた名。自分が「宿禰」である、その理由。

 そんなの。



「宿禰以外、与える名前がなかったからだろ……」



 いや、「宿禰」以外の名を与える必要がなかったのだ。


 男はただ作りたかったのだ。理想の「宿禰」を。あるべき姿をした「宿禰」を。途中からではない、最初から「宿禰」という駒を。



「宿禰ー!」



 後ろから、屈託のない声が聞こえた。

 顧みると、小碓が手をぶんぶん振りながら、走って来ていた。


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