櫛角別の館にて
櫛角別は邸にいた。今日は責務を放棄する日だったらしい。
女人に部屋を案内してもらうと、案の定元気な姿で、悠々と座っている櫛角別が笑顔で二人を迎えてくれた。
「やぁ! 小碓に宿禰くん! 珍しいね、二人が来てくれるなんて。世間話をしに来たわけじゃなさそうだね。僕としては世間話をしたいところだけど、まずは二人の用件を聞こうではないか。さぁ、何の用だい? うん?」
「とりあえずお久しぶりです、兄上。お元気そうで何よりです」
「そういえば、前の会合以来だね。うん、久しぶりだね」
会合、とは纏向日代宮から出た兄弟たちを大王が集結させ、一緒に食事をする儀式だ。これには兄弟同士、そして大王との親睦を深める目的がある。そして、大王に対する忠誠を示すための儀式でもあるのだ。
体調が悪い、遠い土地へ行っていたとなれば別なのだが、これに長らく参加しないと、大王に不満を抱いていると解釈され、危険人物として認定される恐れがあるのだ。
出来れば会合には参加したくない。父や異母兄弟たちに忌々しげな視線を向けられ、小さな嫌がらせをされて、委縮しながら食べる食事がなんと不味いことか。だが、そう思われてこれ以上自分の立場を悪くしないため、毎回参加しているのだ。
「おっと、そういえば立ったままだね。さぁ、
部屋の隅で重なって置いている茣蓙を、宿禰が持ってきてそれを床に敷く。ありがとう、と礼を言って小碓は茣蓙の上に座った。宿禰も小碓の斜め後ろに茣蓙を敷いて腰を下ろす。
「さて、今度こそ本題に入ろうか。君たちは何しにここに来たんだい?」
櫛角別は
「兄上に訊きたいことがあるのです」
「聞きたいこと? なんだい?」
「先日、おじい様の御墓が荒らされましたね」
「うん。玉だけが見事に盗まれたあれだね。それがどうしたんだい?」
「父上が御墓を荒らした犯人が、僕だと疑っていると聞きました」
それを言うと、櫛角別は虚を突かれたような顔をした。珍しい顔だなぁ、と小碓はそれを眺める。
「誰から聞いたんだい? 君は最近、纏向日代宮には来ていないはずだけど」
「あ、本当だったんですね」
実の所、信じていない気持ちがあったのだが、櫛角別の言葉でそれが確定となった。やっぱりかぁ、と思う反面、衝撃を受けている自分もいるのだが、予想はしていたのでその衝撃も少ないものだった。
「大碓兄上です。今朝、父上に疑われている僕を笑いに、わざわざ館までいらしました」
「大碓が? そうか、そうか。大碓がねぇ……」
大碓の名を聞いて、はにかみながらしきりに頷く櫛角別に小碓は怪訝な顔をした。
「兄上? どうしてそんなに嬉しそうなのですか?」
「いやー。なんていうかね、うん。余計な事を言ったら、大碓に殴られそうだから言えないのが、実に残念だ。あの子はすぐ、暴力で片付けようとするからな~。たく、あの子の悪い癖だよ。他の兄弟たちもそうだけど、そういう所があるってことは自分たちが民の上に立ち、民を守り国の為に責務を全うにするという王子、いや上に立つ者の自覚がなっていないってことなのかな? 民がいてこその国であり王であるというのにね。いや、舐められるわけにはいかないっていう気持ちが、暴力という形になってしまうのかな? その暴力的で強引なところが皆に舐められる原因になるってこと、分かっているのかな~?」
「兄上、話が脱線しています」
「おっと、いけない。で、何の話だっけ……ああ、大碓のことか」
櫛角別は笑いを堪えながら、小碓に訊ねる。
「大碓、君を疑っているようだった?」
「いいえ、そんな様子はありませんでした。やってもないのに父上に疑われている、と言われたので、僕の潔白はまぁ……信じているようですが」
直後、櫛角別が腰を曲げて、爆笑し始めた。可笑しそうに、愉快そうに。
突然そのような反応を見せられ、小碓は狼狽えた。その斜め後ろで、宿禰は呆れたように肩をすくめる。
「あ、あの、兄上……?」
「ああ、ごめんごめん。それにしても、あの子が珍しく……あはは!」
「櫛角別王子、落ち着いてください」
深呼吸して、姿勢を正して。大分落ち着いた櫛角別は、再び小碓を見た。
「これくらいは、言っても許してくれるかな? 大碓は遠回しに君に忠告しに来たんだよ」
「へ? 大碓兄上に限って、それはないんじゃ」
わざわざ忠告しに来るほど、律儀な性格はしていない。小碓に対しては尚更だ。
「あはは、そうだね。小碓からすれば、そう思っちゃうか」
苦笑に似た笑み浮かべて、頬をつく。
「おじい様の御墓を荒らした犯人の話だったね。うん、たしかに父上は小碓を未だに疑っている。でも安心しなさい。物部と解部は小碓を疑ってないよ」
「え、そうなんですか?」
予想外だ。てっきり、物部も解部も小碓を疑っていると思っていた。
「つまり、犯人に繋がる証拠が見つかったのですか?」
宿禰が問うと、櫛角別は首を縦に振った。
「ああ。犯人と思わしき、毛が見つかったんだ。色は黒茶色。どちらかといえば茶色に近い色だ。小碓は黒髪だから、容疑者から除外されたわけ」
「そっか……よかった」
小碓の口から安堵の息が漏れる。宿禰も幾分か表情が和らいだが、すぐ険しくなった。
「ですが、未だに大王が小碓王子を疑っている、と仰っていましたね?」
「そうなんだよね~。それだけじゃ証拠にならんわ! とか言ってねー。たく、我が父親ながら呆れたものだよ。小碓は今まで悪い事なんてしていないというのに、性懲りもなく小碓を疑うなんて。怒りを通り越して僕は呆れ……いや、一周回って怒っているよ。本当に馬鹿馬鹿しい。政に関しては尊敬に値するけど、人柄とそして何より小碓に対するあの態度! 正直、腸が煮えくり返りそうだよ。もういっそ、あの顔面に木簡……いや、それよりもぴっちぴっちでぬめぬめした魚のほうがいいかな? とりあえず、精神的にくる何かを投げつけてやりたいね!」
「そ、それは止めてください!」
「大丈夫、大丈夫! そこは想像で我慢するから! ところで小碓。君は父上のあの態度、正直どう思っているんだい? 君は父上を憎んでもしょうがないってくらい、酷い事を言われてきたし、されてもきた。それなのに、君は不満を言ったことも怒ったこともない。それが不思議でたまらないんだけど」
「正直、と申されましても……」
身を竦めて、小碓は困惑した顔で考え込む。
考えたこともなかった。そういえば、泣き言や弱音を言ったことはあるが、恨み言い漏らしたことも怒りを出したこともなかった。怒りは、仕方ないか、と流していたが、恨みのほうは抱いていない。なんで、恨みがないだろうか。どうして、怒りを流すことができたのだろう。
(あ)
思い当たって、得心した。
なんだ、そういうことか。
「たしかに、父上に疎まれて傷付きました。邪魔だと問答無用で蹴られたこともあれば、理不尽に殴られることもありました。生まれて来なければよかった、と言われたこともあります。あと、傍から見ても大碓兄上が悪いのに、父上はいつも大碓王子の味方について、お前が悪い、と怒鳴られましたよ。それは数えきれないほどに。けど」
小碓は、穏やかな笑みを浮かべた。
「その度に宿禰が慰めてくれて、宿禰が怒ってくれました。櫛角別兄上も、時間を置いて僕の様子を見に来ては、慰めて怒ってくれました」
そう、自分が恨み言、怒りを漏らす前に、二人が父に対して憤慨していた。だから、もういいかと思えたのだ。
「僕のために怒ってくれる人が二人もいてくれるなんて、僕は果報者ですよ」
自分を想ってくれる人が二人もいる。それだけでも、小碓は充分だった。それだけで幸せなのだ。
すると、櫛角別が目頭を押さえながら、天を仰いだ。
「兄上?」
なにか変な事でも言ったのだろうか、と首を傾げると鼻を綴った音が聞こえた。
「小碓~……君はなんて良い子なんだ! それだから、君は可愛すぎて可愛すぎて放っておけないんだ! 兄弟たちも小碓の爪の垢を呑ませてやりたいよ、ほんと! うう……小碓が僕の事をそういう風に思ってくれていたなんて、この湧き上がる喜びをどう表現したらいいのだろう! 歌、それとも踊り!? あ、そうそう小碓。叔母上たちのことも忘れないでくれ。特に、
「そ、そうですね」
倭の叔母上とは、
倭姫は甥である小碓の事をえらく可愛がっており、会うたびに強く抱きしめては、なかなか離そうとはしない。小碓が伊勢に訪れる時には盛大に歓迎してくれるし、帰る時も必ず何かを持たせようとする。
もう一人の叔母、針間姫は一見小碓を邪険に扱っているように見えるが、行動や言葉の端には小碓を気遣う優しさが見えていた。倭姫は直球で小碓に愛情を示すが、針間姫はそれとまた違った形の愛情を示してくれた。だから小碓は、いつも針間姫のところに逃げていた。彼女に甘えていたのだ。
二人じゃなくて四人か。うん、幸せだ。
「さて、いい加減話を進めないとね」
腕を降ろして、櫛角別は姿勢を正す。
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