帰り道
稲穂が風に揺られて、しゃらしゃらと歌っている。それと同時に稲穂が波になって風と一緒に踊っている。
見渡す限り、黄金色に染まった田んぼの畔を小碓と宿禰は歩いていた。宿禰の肩には仕留めた鹿、小碓は木の実や茸、野草と薬草の入った籠を背負っている。
「今年は豊作だね」
黄金の田んぼを見渡しながら、小碓は嬉しそうに呟いた。
今年は干ばつ、大雨や台風がなく稲が順調に育ってくれた。昨年は台風が到来し、稲を薙ぎ倒されたので尚更嬉しかった。
「そうだな。これは、
「ふふ。二人とも、張り切りすぎて腰痛めなきゃいいけど」
真呂呼と粥菜は、二人がよく世話になっている農民の老夫婦だ。王子である小碓とその側近である宿禰を分け隔てもなく、まるで孫のように接してくれる。
(それにしても、あれから四年か……)
小碓が十歳になった年、二人は纏向日代宮を出て、与えられた館に住むようになった。他の兄弟たちも別居をしているものの、物資を父から与えられている。だが、小碓には僅かしか与えられていない。女人も警備の者もない、二人だけの暮らし。
纏向日代宮に住んでいた頃に比べたら不便ではあるが、誰の言葉も耳に入らないしとても静かなので、小碓は今の生活が気に入っている。
物資の事は何もないよりもいいか、と思っているが、それだけでは暮らしてはいけない。
だから農民の手伝いをして米を分けて貰い(もっとも米の半分は纏向日代宮に納められるし、物々交換にも使うのであまり贅沢に使うことができないが)、狩りもして山に赴き食料探し。それらをやって生計を立てている。
「
小碓は後ろにいる宿禰に振り返る。
「鹿の肉は半分、真呂呼と粥菜に分けるか」
「うん! 二人、家にいるかな?」
頷いて、少し歩く速さを上げた小碓に宿禰は言う。
「急ぐのはいいが、転ぶな」
「うわっ!」
よ、と口にしようとした瞬間、小碓の足が滑って、田んぼの中に落ちた。
覗き込むと、小碓は尻餅をついただけで転んではいなかった。
「大丈夫か?」
宿禰は動じなかった。小碓の少々間抜けたところはとっくの昔に慣れた。これくらいでいちいち騒いではいられない。
もうすぐ収穫なので、田んぼに水は張っていないのが救いだ。水が張っていたら、泥んこになっていたに違いない。
小碓は起き上がって、宿禰を見上げたまま弱々しく笑いながら、うん、と答える。
「ほら」
伸ばされた手を、小碓は躊躇いもなく握った。引き上げると、宿禰は肌が曝け出しているところを見た。
「怪我はないな。木の実も……落ちてないようだな」
転げ落ちなかったおかげで、籠に入った木の実が零れずにすんだようだ。
「気を付けろ。お前は何もないところでも転ぶんだから気を付けろって、何回言えば気を付けてくれるんだ?」
「ごめんなさい……」
宿禰はしゅんと項垂れる小碓の頭を撫でる。頭から尻へ手を移動して、衣についた土を払う。衣が白いので、汚れは目立つが大分ましになった。
「ありがとう」
「怪我がないからいいが、今度こそ気を付けろよ」
「はーい」
まあまた転ぶだろうな、と宿禰は半ば諦めた気持ちになる。実際、そんなに期待はしていなかった。小碓は宿禰が言ったことを忘れているわけではない。それは分かっている。ただ、転ぶという点では天才というだけなのだ。
昔からそうだった。石も何もないところで転び、石に躓いて転び、段差で転び、地面が濡れ滑って転び……転ぶ前に腕を引っ張って引き寄せたりはしているが、目を離した隙に転んでいたり間に合わなかったりで、やはり転んでしまう。
「小具那、今度からもっと足腰を鍛えてみるか」
「え、急にどうしたの?」
「転ぶ原因は、足腰のせいかと思ったから」
「えー……関係ないと思うけど」
そう言いながら、小碓は己の身体を見下ろした。衣で足と腰は見えないが、いつも見慣れている身体なので直接見なくても分かる。たしかに自分の身体は、宿禰のように引き締まっていない。貧弱に見えても仕方ない。
「やってみるだけやったらどうだ? 特訓にもなる」
「そうだね。宿禰みたいな身体になるには、もっと鍛えないと」
「や、それはなんか嫌だ」
即答されて、小碓は目を瞬いた。
「え、どうして? 宿禰だって僕が逞しいほうがいいでしょ?」
仕えるのなら、貧弱で精神が弱い者より、心身共々に逞しく強い者のほうがいいような気がするが。
だが、宿禰は首を横に振った。
「よくない。心が逞しいのはいいが、身体的になるとそのままでいてほしい」
「意味分からないよ! 普通両方ともじゃない?」
「複雑な兄心というか何というか……」
「宿禰は僕の兄上じゃないでしょ」
「似たようなものだ」
そう言って宿禰は、肩に乗せていた鹿を抱え直す。
「あらま、小碓ちゃんと宿禰ちゃんじゃないの」
枯れた声が聞こえてきた。視線を向けると、老婆が一人、微笑んでいた。
今から行こうとした家の住人である粥菜だ。
粥菜は小碓の服が汚れていることに気付き、こてっと首を捻った。
「どうしたね?」
「小具那が田んぼに落ちて」
「あらま! そりゃ、小碓ちゃん大丈夫だったかい?」
「うん、大丈夫」
それを聞いて、よかったよかった、と粥菜は安堵の息を漏らす。
「水が張ってなくてよかったねぇ。張っていたら、今頃小碓ちゃん泥んこだよ。ところで、二人は猟の帰りかい?」
「うん。ちょうどよかった。二人に鹿を届けようとしてたんだ」
「血抜きはしている」
「あらま。それはありがとうね」
曲がった腰に両手を組み、皺だらけの顔が一層深くなった。
この時代、平均寿命が男は三十、女が三十四だったわりに粥菜、そして真呂呼はお互いに三十五歳だというのに、健康そのものだった。腰は曲がっているが、足取りがしっかりしているし、顔色が良い。
「粥菜はどこに行こうとしていたの?」
「市場にね。焼く時に使う
土師器とは紋様のない、赤色の土器のことだ。
「土師器? だったら、僕たちが行ってこようか?」
土師器は重い。粥菜の家は市場から遠い場所にある。今は真呂呼がいないようだから、一人で持って帰るのは困難だろう。
「そんな悪いよ。鹿を分けてもらうのに、そこまでしてもらうなんてねぇ」
「気にしなくてもいいよ。一人で土器を持って帰るの、しんどいでしょ? いつもお世話になっているし、それくらいさせてよ。たくさん木の実も採れたし、交換するものも困らないから」
粥菜は、そうだねぇ、と考える風に呟く。
「なら、お願いしちゃおうかしらね」
「任せて! あ、鹿を届けてから市場に行った方がいいか」
「そうだな」
「奈良その間に、鹿を捌いておくよ」
「重労働だけど大丈夫?」
「吊してくれたら、捌くくらいあたしにだって出来るよ。何十年もやってきたからねぇ」
「なら、吊してから行くか」
「それじゃ行くよ!」
駆け足で先に行く小碓に、宿禰は呼び止めようとする。
「また転ぶ」
「ぎゃふっ!」
ぞ、と言い掛ける前に小碓の身体が傾き、地に伏せた。木の実もばらばらと転がっていく。
またか、と溜息をついて宿禰は小碓に駆け寄った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます