纏向日代宮を中心とした都を囲む山々が赤く色付き、実りの時期を告げていた。


 そんな山のある一角。一人の少年が木の陰に隠れていた。十四歳になった小碓である。


 小碓は息を殺して、草を食べている鹿の様子を窺っていた。


 音を立てないように、ゆっくり、ゆっくりと草を踏む。

 鹿はまだ小碓に気づいていない。


 慎重に、慎重に歩み寄る。

 鹿はぴくぴくと耳を動かしているが、小碓が立てている微かな音を拾っていないらしい。


 一歩ずつ、確実に近寄って。



「わっ!」



 鹿を驚かした。


 鹿は驚いて、小碓とは反対方向に逃げる。小碓は鹿を追いかけた。

 木々の間を編み込むように躱しながら、鹿の後を追う。


 足を速める。

 鹿は足を止めない。


 足の速さは、両方一歩も譲らないという感じだ。小碓は息を切らすことなく、ただ鹿を誘導した。


 突如、草むらの中から人影が現れて、鹿の行き先を阻む。

 驚いた鹿は左折した。


 そして。


 どすん


 落ちた音がした。


 速さを緩めながら、小碓は人影に話しかける。



「引っ掛かった?」


「引っ掛かったな」



 草むらから出て、人影は音がした方向に歩む。その人影は、十八歳になった宿禰であった。小碓もその後に続く。


 穴がある。そこを覗くと、鹿がじたばたと前脚と後脚を動かしていた。

 脱出しようとするが、落とし穴の深さは鹿の背丈を越えている。とてもじゃないが前脚が届くような深さではなかった。



「まさか引っ掛かるとは」


「え、引っ掛からないって思っていたの?」


「正直に言うと、鹿は別方向に逃げると思っていた」



 二人は、住み処から程近い山へ狩猟と木の実や薬草の採取に訪れていた。採取した後に、鹿を狩るかという話をして、小碓が作戦を立てた。落とし穴を掘って、小碓が待ち構えている宿禰の許へ獲物を誘導して、落とし穴に落とすという。落とし穴の場所も小碓が、この辺かな、と決めて、待ち伏せをする宿禰の場所も小碓が考えた。そして、成功した。



「よくこんな落とし穴の予備もない中、たった一つだけの落とし穴まで誘導したな」


「うーん……なんとなく、鹿の動きが予測出来たというか……まあ、勘かな?」


「勘、か」



 本人もよく分かっていないようだから、訊くだけ無駄だろう。


 涼風が頬を撫でる。


 青々と草木が茂っていた山々は、その色を無くした。変わりに黄と赤で彩られ、季節の変わり目を告げている。野葡萄や栗、団栗などの木の実が実りはじめ、これから来る冬に備えて食糧を確保しなければならない時期だ。冬でも鹿、兎、猪を狩れるが、木の実や野草は採れない。



「今日はこの辺りでいいか」


「そうだね。木の実もけっこう集まったし」



小碓は、木々で狭くなっている空を仰いだ。



「最近、涼しくなったね」


「そうだな。もうすぐ寒くなるから、館も防寒対策をしないといけないな」


「薪もたくさん集めないといけないね」



 くしゅ、と小碓が小さくくしゃみをする。



「寒いか?」


「ううん。鼻がむずむずしただけ」



 そう言って、またくしゃみをした。


 先ほどから小碓は、晒している腕の部分を手で擦っていた。肌寒いのだろう。

宿禰は鹿を見下ろす。鹿は脱出することを諦めて大人しくしていた。


 鹿の真っ黒な瞳が宿禰を見据える。まるで、殺すなら殺せ、と言われているような、ありえない幻聴が聞こえてくるようだ。


 宿禰は草むらの中に置いていた矛を手に取ると、鹿の喉元に狙いを定めた。



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