歩み寄り③

 誰も見つかれることもなく無事に妃たちが住む一帯から抜けた二人は、小碓に与えられている小さな住居に向けて歩いていた。


 大王が住む纏向日代宮には、大王の住居の他、后たちが住む住居、さらにその子供が住む住居まで、一人一人に与えられている。さらに食糧庫や武器庫などといった倉庫が設置されている一画に、謁見の間と大王の寝室として利用されている大型建物。そして、纏向日代宮で働く者たちが寝泊まりする建物など、様々な施設が密集しており、かなり広大な敷地なのである。


 警備兵たちと擦れ違う。挨拶はするものの、こちらを見ながらひそひそと話す。

 きっと僕の悪口だ、と小碓は咄嗟に後ろを歩く宿禰と距離を取ろうとした。



「王子」



 宿禰が話しかけてきた。小さく、なに、と振り向かず訊ねると宿禰は小碓にとって、予想外の言葉を返してきた。



「帰るまで、手を繋ぎましょうか」



 小碓は弾けるように振り向く。宿禰は、やっとこっちを向いた、と言わんばかりに微笑む。



「人が見ている、から」



 その微笑みがむずかゆくて、小碓は俯いた。



「貴方と同じくらいの子でしたら、手を繋いでも全く恥ずかしくはありませんよ。王子だって然りです」


「でも、それだと君が……」


「俺のことならお気になさらないでください。人々が囁く、悪口や悪評など俺は気にしない性なので。王子は嫌でしたら、別に良いのですか」



 そう言って宿禰は小碓に手を差し出す。どれくらい戸惑っていたのだろう。小碓は恐る恐るとその手を己の手と重ねた。


 暖かい。


 じわり、と涙腺が緩みそうになる。


 そういえば、いつ以来だろう。針間叔母上でもない、伊勢大御神宮にいらっしゃる倭の叔母上でもない、櫛角別でもない、本当に赤の他人の温もりを貰うのは。

 初めてのような気がする。


 重なった手をぎゅっと握り締め、宿禰は目を細める。



「では、王子。帰りましょうか」



 と、先程とは逆に宿禰が先頭を歩いて、小碓の手を引く。小碓は何も言わず、ただその後ろを歩く。


 無言が続く。


 けれど、握り締められている手が温かくて、会話がなくてもそれで十分だと思った。



「先ほど」



 ふいに宿禰の口が開いた。



「大王が仰っていたことは、あまり気にしないでください」


「気にしてなんか……」


「気にしているから、針間姫様の許へお逃げになったのでしょう?」


「……」



 小碓は俯く。そして、先程言われたことを頭の中で反芻した。



『どうしてお前のような奴が生まれてきたのか』



 父から発せられたその言葉は、鋭利な刃物のように幼い心を突き立てた。


 生まれて来なければよかった。

 そう言われたのも同然だった。


 大碓や他の異母兄弟、妃たちに言われても別にいいから。

 父だけには、言われたくなかった。


 大碓に苛められているというのに止めず、酷薄と言い放つ父に絶望した。だから声も出さず泣かず、その場から走り去った。



「王子、人の悪口や褒め言葉は当てにならないのですよ。父君である大王に言われたのですから、深く傷付いていらっしゃるのはお察ししますが」


「いいよ、本当のことだし……」


「小碓王子」



 諭すような優しい声音に導かれて、小碓は顔を上げる。



「そんな事は、思っていても言わないでください。生まれてきたことを、誰より貴方が悔やんでどうするんですか。悔やむ前に、全力で立ち向かってください」


「たちむかう?」


「そう。大王の御言葉に、周りの戯れに。確かに他人に言われたことを思い込むことは簡単で、言い聞かす事で無駄に自分を傷付かずにすみます。ですが、さっきも言った通り悪口と褒め言葉は当てになりません。そのような戯言を振り回されては、貴方の良さが埋もれてしまいますよ」


「ぼくの良さ……? あるの? 忌み子のぼくに」



 忌み子。それは父や異母兄弟、大碓や妃たちに言われ続けられた言葉だった。理由は分からない。双子だからと思っているが、それだったら大碓だって忌み子の筈だ。それなのに、大碓に対してみんな他の王子と変わらぬ態度で接している。


 警備兵や女人に直接忌み子だと言われたことはないが、陰ではそう言っているに違いない。皆がそう噂話をしているから。



「たくさんありますよ。まず、貴方はお優しいではありませんか」



 自信溢れる声で宿禰は言い続ける。



「怪我をした犬の手当をしたり、大碓王子の暴行で死んでしまった子兎の墓をこっそり作ったり……私が足を挫いた時も、まるで我の事ように痛そうに顔を歪めておられました。人の痛みを知る貴方がどうして忌み子なのでしょうか? そもそも、忌み子という習慣自体、私は悪習であり間違ったことだと思っております。ただの周りの、とても悪意に満ちた戯れに過ぎません。だから、貴方は絶対に忌み子なんかじゃない」



 悪口と褒め言葉は当てにならないというのは受け入りなのですけれどね、と宿禰は小さく笑う。



「だから小碓王子。今は無理でも、いつかは胸を張ってしっかり歩いてください。そして自信を持ってください。自分には良い所があると。周りの言葉に左右されず、しっかりと前を向いてください」



 思い込むこと、耳を塞ぐこと。それは逃げだ。

 逃げてもいい。だから、いずれは立ち向かってほしい。

 それは、怖いし、痛いし、苦しい。

 けれど、それに立ち向かうことが勇気であり強さだ。

 そんな強さを持ってほしい。



「自分に誇りを持ってください。私が傍で、その手助けをします」


「そばに……? ずっと一緒にいるわけでもないのに?」



 彼は大王が一番信頼している一族の長であり、右腕である男の一人息子だ。とても優秀で、父親も彼を跡継ぎにと考えているらしい。


 だから、今は一緒にいることができても、いずれ小碓の許から離れる時が来るのだ。彼の一族は大王のみ仕えるのだから。



「いいえ」



 強い響きだった。宿禰は振り向いて、小碓に微笑みかけて告げた。



「ずっと傍にいますよ。貴方の傍に」



 小碓は目を見開く。


 そんな。第三王子だけど、王位を継ぐことは決してない、碌な地位も与えられない自分の傍に。

 ずっと、いるだなんて。



「本当に……?」


「はい」


「本当に本当?」


「私が貴方の傍にいたいのです」


「うそじゃない?」


「嘘ではないと、誰よりも貴方に誓って」



 暗雲から流れる一筋の光のような、その言葉に小碓はまた俯く。


 嬉しかった。何も価値がない自分の傍にいたいなんて。

 そんな事言われたのは、初めてだった。

 嬉しくて、また涙が溢れそうになる。



「小碓王子。笑ってください。悲しい時は大きな声で笑えばいいのですよ。それに、貴方には笑顔が一番似合います」



 小碓はおそるおそる宿禰を仰いで、そして笑った。


 それは涙でぐしゃぐしゃになっていて、とても不細工だったが、それでも嬉しそうに笑った小碓の顔を、宿禰は心に刻み込んだ。


 二人は互いの手を握り直す。


 そのぬくもりを離さないとばかりに、ただお互いの熱を分け合っていた。

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