歩み寄り②

「ちょっと~。いつまでそうしているのよん」



 そう言葉を発したのは、部屋の真ん中で寛いでいる女性だった。名を針間姫という。


 赤茶色で柔らかそうな長い髪を耳に掛け、吊り上がった目を半眼にして、針間姫は部屋の隅に蹲る小さな影を一瞥した。


 こちらに背を向けて顔は見えないが、たまに鼻を綴る音がすることから、大きな瞳には溢れんばかりの水溜まりが出来ているのだろう。


 鬱陶しそうにしているが、針間姫はその小さな影を追い出す気は毛頭なかった。小さな影……小碓が冷たい世間から逃れるために、自分の所に避難していることくらい分かっていた。大碓は極力針間姫に近付かないようにしているし、大王に至ってはここ数年針間姫の許に通っていない。だからここは、纏向日代宮内で小碓の唯一の避難場所になっている。


 小碓は第三の王子で、政敵にもなり得る。針間姫にも大王との間に一人だけ王子を授かっているからだ。だがそれ以上に、針間姫にとって小碓は血の繋がった身内であり、可愛い甥なのだ。。小碓の立場を理解しながらも放っておくのは、針間姫の矜持が許せなかった。


 大きく嘆息すると、小碓の肩がびくっと震える。


 別に怖がらなくていい、と思う。別に目障りという意味で嘆息したわけではないのだから。けれど、そう伝えてもこの子には届かないだろう。逆に、気を遣わせてしまった、と気を負わせてしまうかもしれない。


針間姫はおもむろに立ち上がり、小碓に近付いた。



「小碓~。そうやってめそめそ泣いたら、せっかくの可愛い顔が台無しよ~ん」



 小碓の傍で腰を下ろし、顎を掴んで強制的に顔を向かせる。


 案の定、小碓の真っ黒な目には沢山の涙が零れていた。


 真っ直ぐな黒い髪に左側だけ長い横髪に、卵形の黒い瞳。そして可憐な女子のような容姿。



(あぁ、本当にあの人の生き写しかっていうくらい、そっくりだわん)



 この子が一歳の時に、黄泉大神よもつおおかみの許へ旅立った彼の人の面影を重ねながら、その輪郭を撫でる。


 髪も瞳も顔も色も、何もかもが最愛だった姉譲りで、本当にあの大王の血が入っているのか、この子の血は姉のしか流れていないのだろうか、とそんなことを考えてしまう。


 小碓の顔を見る度に、懐かしさが胸に込み上げてきて、幼かった日々が鮮やかに蘇ってくる。あの頃の無邪気な姉の笑い声が、耳の中で木霊するのだ。



(泣き顔も泣き方も全く同じだから、尚更思い出すわん)



 あの人が泣いたところは、一度しか見たことなかったけれど。



「僕は、男ですよ」



 先程の可愛いという言葉に対して鼻声で突っ込む小碓に、針間姫は少し声を張り上げる。



「男ならわざわざ此処に来て泣くんじゃないのん。男が泣いていいのは、一人の時だけか惚れた人の前だけよん!」


「偏見……」


「つべこべ言わず、しゃきっとするのん! 貴方は一応、仮にもこの倭国の第三王子よん? こんなのだと下々の者が付いてこないわん!」


「どうせ、僕に付いてきてくれる従者なんて……」



 いるわけがない、と虫の羽音のような声で呟かれた言葉に針間姫は微笑する。



「そんなことないわよん。ほら、噂をすればなんとやらん」



 その直後、簾が捲られる音がした。



「小碓王子、お迎えに上がりました」



 その声に導かれるように、おそるおそると視線を向ける。そこには最近、小碓に付き添っている宿禰が小碓を見据えていた。

 針間姫は宿禰に呆れ混じりに嘆息した。



「ちょっと~。女性、いいえ。人の部屋に入る時は声を掛けてほしいわ~ん」


「忍んで此処まで来たので、声を出すのは拙いと思いまして。ですが、御妃に対する配慮が足りませんでした。お詫び申し上げます」


「まぁ、いいわん。私だからそうしたんでしょん? ほら、小碓。大王のやろ……ごほん。あの人や他の后にこの事がばれる前に帰るのよん」


「……」



 唖然とした表情で、小碓は宿禰を凝視する。


 いくら大王が信頼している右腕の息子だからといって、此処にいることが漏れてしまったら厳しい処罰が下されてしまう。それを分かっていないはずがない。一緒にいた時間はそれほど長くないが、彼が聡明だということは知っている。それなのに、危険を冒してまでどうして。



「王子、行きますよ。ここに居続けたら、見つかってしまいます。狩りから帰った真若まわか王子がこちらにお見えになるとか」


「あらん? もう帰ってくるのかしらん? まぁ、極度の面倒臭がりだから最後までするわけないわねん」



 真若は大王と針間姫の間に生まれた王子だ。あまり人と話したがらず、珍しく喋ったとしても、一言目に「めんどくせぇ」、二言目に「だりぃ」と言ってしまう御仁なのだ。今回の狩りも半ば強制的に行かされたようなものだから、早々に引き上げると針間姫は踏んでいた。



「真若は黙認するけどん、従者たちが面倒くさいから早く帰るのん!」



 そう言って針間姫は、固まって動かない小碓の脇を掴んで立たせると、その背を押した。

 宿禰は針間姫に軽く一礼すると、小碓の手を引いて退室した。


二人の背中を見送って、針間姫は呟く。



「ここまでわざわざ迎えに来るなんてねん」



 見つかったらただでは済まないだろうに。それなのに恐れずに来たということは。



「これから少し寂しくなりそうねん」



 その言葉とは裏腹に、針間姫は破顔していた。


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