歩み寄り①

 格子の隙間から一枚の葉が風に乗って、少年が読んでいた木簡の上にひらりと降りてきた。


 少年は今の時代で言うところの十代半ばくらいの年齢で、柔和な眼差しを持ち合わせていた。細過ぎず、だが体格が良いわけでもない身体つきをしている。少年の名前は櫛角別くしつぬわけ。この国、倭国やまとのくにの第一王子である。



「んん?」



 葉を摘まんで、じっくり観察する。そして、櫛角別は目元を緩めた。



「あぁ、藤の葉か。そういえば、もうすぐ咲く頃だ。そうか、もうそんな時期か」



 彼の独り言を拾う者はいなかった。彼は一人で、木簡が保存されているこの部屋にいた。

 櫛角別は背を伸ばし、首を回す。ずっと同じ姿勢でいたせいか、ぽきぽきと音が鳴った。


 少し外に出て歩こうか、と立ち上がり扉を開けると、階(きざはし)の下を駆けて通る少年を見かける。その少年に覚えがあり、櫛角別は呼び止めることにした。



宿禰すくねくん! どうしたんだい?」



 宿禰、と呼ばれた少年は足を止めて振り返り、目を見開いた後に叩頭した。


 艶やかな黒髪に鳶色の瞳。すうっと通った鼻筋、凛々しく吊り上がった目に長い眉毛。今はまだ十歳だが大きくなったら、美青年になるに違いない、と女人が噂していたことを思い出す。


 櫛角別は宿禰に優しく微笑んだ。



「顔を上げていいよ。ああ、身体も起こしていいからね」



 宿禰はゆっくりと立ち上がって、櫛角別を見る。



「宿禰くん。慌てているようだけど、どうかしたのかな?」



 もう一度訊くと、宿禰が罰悪そうな顔をする。



「も、申し訳ありません。お騒がせして……」


「いやいや、僕はたまたま外に出ただけだよ。子供は子供らしく元気に駆け回らないとね。僕が訊いたのは、なんで走っているのか、だよ。君が宮の敷地内で走るなんて珍しいね? 追いかけている様子でもなさそうだし、何か探しているのかな? 例えば……小碓おうすとか」


 ぎくりとした宿禰に、やっぱりね、と櫛角別は肩をすくめた。



「やれやれ。また大碓おおうすに苛められて逃げたのかな? 大碓のいじめっ子ぶりには、ほとほと困ったものだよ。腕白すぎるのも限度があるというのに。まだ六歳だから仕方ないといったら、仕方ないことなのだろうけど。大碓に対して小碓は大人しいし……いやはや、本当に同時にこの世に生まれた双子の兄弟なのかな? 容姿も性格も全く違うし……あぁ、そんな顔をしないでおくれ」



 宿禰を一瞥すると険しい表情になっていたので、やんわりと指摘した。



「別に僕は本当に父上と母上の子供か、とは言っていない。大碓は父上似だし、小碓は亡くなった母上にそっくりだ。これ以上の証拠はないよ。本当にいじめっ子気質なところは父上似だよ、大碓は。つまり、何が言いたいかと言うと、大碓の乱暴なところは間違いなく父上譲りだねと言いたいわけで、宿禰くんはどう思う?」



 櫛角別の間の入らせない科白にやや辟易しながらも、宿禰は声を潜め告げた。



「……そこに関しては、返答しかねます」



 櫛角別ならともかく、大王おおきみの悪口を言って大王の耳に届いたら、罪に問われてしまう。



「あと、たとえ正妃の御子息であれ、大王に対する悪口は控えた方がよろしいかと」


「あはは、ご忠告どうも」



 階を下りながら、櫛角別はのほほんと返答した。



「それから逃げたのは、たしかに大碓王子の些か目に余る小碓王子に対する暴力もそうですが」


「些か、ね。他に理由があるの?」


「……大王、が小碓王子に」


「いや、もう想像がついたよ。父上、まーた小碓に酷いことを言ったんだね?」


「はい……」


「それを君は追ってくれているんだね。ありがとう」



 櫛角別は頬を緩みながら、宿禰の頭を撫でた。訝しげに見上げる宿禰に、さらに頬が緩む。



「あの子の事を気にしてくれる人なんて、この纏向日代宮まきぬくのひしろのみやにいないからね。僕や針間姫はりまひめの叔母様、伊勢におられる叔母上は例外だけどね。血が繋がっている僕達じゃない、それ以外にあの子を心配してくれる人がいてくれて、兄として嬉しいよ。大碓は見ての通りだし、異母兄弟たちは敵みたいなものだし、あの子の味方なんてほんの一握りだ。母上が生きていたら、また違っていただろうね。もしもの話をしてもしょうがないけど」


「櫛角別王子……」


「さて、あの子の居場所のことだけど、多分あそこに避難しているんじゃないかな?」


「あそこ?」


「針間叔母様の御部屋だよ。父上も大碓もあの人が苦手だからね。あの二人を避けるんなら、絶好の場所だ」


「あぁ……」



 得心した様子で、宿禰は遠い目をする。


 大王の大足彦おほたらしひこは分からないが、大碓は針間姫に対して苦手意識があるのか、あまり近付こうとしない。針間姫と大足彦の間には一人王子がいるので、関係があるみたいだが、そういえば一緒にいたところは見たことがない。


 針間姫は王宮の後ろにある後宮に住んでいる。塀に囲まれているそこに入ることが許されるのは大王か、妃たちの世話をする女人、妃たちの子供と近い親類と警備の者のみ。侵入できたとしても捕まれたら、重い罰を受けることになる。


 針間姫の部屋にいるのなら、針間姫に会うことになる。針間姫に会わずどうやって小碓を迎えに行こうか。



「大丈夫だよ」



 櫛角別はさらに言い募る。



「針間叔母様は身分に煩くない御方だ。多少の無礼は許してくれるし、誰も言わないさ」



 どうやら宿禰の考えていることが分かったらしい。



「ありがとうございます。さっそく行ってみます」


「でも、針間叔母様がいらっしゃる後宮は中々入れない。どうやって、そこに侵入するつもりだい?」


「小碓王子もこっそり入れたんですから、私も入れますよ」


「仰る通りで」



 櫛角別は微笑した。確かにその通りだ。小碓がこっそり入れるのだから、どこかに抜け道があるはずだ。



「では、失礼します」



 頭を下げて踵を返し、この場を去ろうとした宿禰を櫛角別は呼び止める。



「宿禰くん、あの子の事、よろしく頼むよ。一人で溜めこんでしまうから」


「それくらい分かっています」



 振り向かないまま言い放たれた言葉に、櫛角別は可笑しそうに笑った。



「だよねー」



 駆け出した宿禰の背中を、櫛角別は見送る。その眼差しは柔らかく、温かな光を灯していた。

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