リリーはなんでも知っていた
1
若い女性の生首だけが、袋に詰められ川に流される。
13人もの被害者を出した連続猟奇殺人事件は、片田舎の町を一気に全国規模の話題の的へと押し上げた。
警察による必死の捜査の甲斐あってか、犯人と思しき男の正体が明らかにされたのが一昨日のこと。
町医者、ヘンリー・リデル。13人の女性を手に掛けた、殺人事件の第一容疑者。
「でもそれは間違いだってわたしは知ってる」
夏の気配はとうに去り、すっかり秋めいた晴空の下。
赤いランドセルを背負って一人通学路を歩くリリー・リデルはそう、誰に向かって言うでもなく口にした。
『間違い? 君のパパが犯人なのは間違いないだろ、リリー』
周囲に不自然なほど人が寄ってこない中、若い男の声が宙から響き、そっと異議を申し立てた。
リリーは大袈裟にため息をひとつ吐くと、小さく首を振った。金糸の細い髪がふわりと舞う。
「全然違うわ。パパが殺したのは少なくとも14人だし、女ばっかりってわけじゃないもの。かわいそうなエイルマイル、あなたが死んだこと、誰にも気づかれていないのね」
『あー、殺された当の本人としては、なかなかコメントしづらいね……』
どう返事をしたものか悩みながら、といった調子でようよう呟かれたであろう言葉に、リリーはただ肩をすくめて返答とした。
背負ったランドセルが上下し、中に入っているものがごとりと鈍く重い音を立てる。
普段通りの憂鬱な朝、目を覚ましたリリーは自分の机の上に男の生首が置いてあることに気がついた。
リリーが叫び声をあげなかったのは、およそプライマリスクールの学生とは思えぬ常識外れの胆力故か、それが知った顔だったからか。
はたまた、
『あー、おはよう、リリー。気持ちのいい朝だね』
「……レディの部屋に入り込むなんて不躾じゃない? エイルマイル」
その生首がごく当たり前のように口をきいたからだったろうか。
ともあれ、リリーはランドセルをひっくり返して空にすると、生首――エイルマイルをランドセルに入れて学校に向かうことにした。
ここ数日、家の周りをうろついている警官たちに見つかることになるよりは手元に置いておくべきである、とリリーは判断したのだった。
田舎の町でトラブルが起きれば、それはほとんど瞬間的に町中に広まり、表に影に噂されることになる。
ましてやそのトラブルが『世間を震撼させた連続殺人の犯人』などといったショッキングなものであったなら。
噂で済むようなことではない、有形無形様々な嫌がらせと無遠慮な視線が向けられるに決まっている、そうリリーは確信していた。
「幸いなのは、わたしがまだプライマリの学生だってことかな。嫌がらせもこの程度で済むんだし」
『このひどい有様を見て『この程度』だなんて……言えちゃう子だったよね、君は』
「大袈裟ね。こんなの後で弁償させればいいだけでしょ」
机の中に入れていたリリーの持ち物。
色鉛筆や糊、分度器やコンパス、セロハンテープなどの道具が、みんな引きずり出されて、床に散らばっていた。
犯人は、ご丁寧にもその上から水をぶち撒けたようであった。
道具類を台無しにする為ではなく、ただただリリーを不快にさせてやろうという、単純な目的が見て取れる。
幼稚で衒いのない、わかりやすい悪意の表出がそこにあった。
「あれれ~? サツジンキの子供がなんでガッコーきてんだぁ?」
「タイガクだろ、リデル! サツジンキの子はタイガク!」
「みんなオメーと一緒にいたくねーんだよ! 帰れバーカ!」
自分の机の前で一人立ち尽くし、独り言を漏らしているように見えるリリーから、少し離れたところ。
机の上に乱暴に腰掛けて、仕様もない言葉と悪意の篭った笑みを投げかける男子達と、遠巻きにそれを眺めているだけのクラスメイト。
ぐるりと教室を見回して、リリーは小さく息を吐くと、なおも大声で騒ぎ立てる男子の側へと近づいた。
「おいおいリデル、なに一人でブツブツ言って――ッ」
「これ、あんたたち?」
吐き出した声は意図していた以上に冷たく、硬質に響いた。
教室中がその冷気に中てられ、凍りついたかのように静止した。
時計の針が進む音と隣の教室の喧騒だけが遠くから聞こえてくる。
「だったら何だよ」
静寂を破り、返事をしたのは中でも一番体格のいい少年だった。
(パン屋のうすのろアーノルド。偉そうにしてても、指がおどおど動いてる。怯えているのがミエミエ)
『天下無双のガキ大将も、君にかかっちゃ形無しだね』
リリーは軽口を叩き続けるエイルマイルを――背中のランドセルを軽く叩いて黙らせると、意地の悪い半笑いを浮かべるアーノルドの前に両足を開き、腰に手を当てて立った。
「片付けて」
「ヤダね。なんで俺たちがサツジンキの為にそんなことしなきゃいけねーんだ」
「わたしは殺人鬼じゃない。ねえ、はやく。片付けて」
更に一歩近づいたリリーを見ると、アーノルドは粘着質な笑みをそのままに、怯えたような声をあげた。
「おー怖! 来んなよサツジンキ!」
「わたしは人を殺してない」
戯けた様子のアーノルドに追従するようにして、怖い怖いと大声で騒ぎ立てる男子たちを、リリーは見向きもしない。
ただ真っ直ぐに、アーノルドの眼だけを射抜かんばかりに鋭く見つめていた。
自分たちの攻撃が、目の前の華奢な少女にはそよ風程にも影響を与えていないことに苛立ったのか、アーノルドは机から音を立てて降りると威圧的にリリーを見下ろした。
「教えてやるよ、リデル。サツジンキの娘はサツジンキになんだぜ」
「へえ、じゃあアーノルド。パン屋の息子のあんたは、パン屋になるってわけ」
歯をむきだすようにして威嚇するアーノルドに対して、見上げるように対峙するリリーの口元は笑みの形に歪んでいる。
アーノルドはそれに気づいていたろうか、大きな声と大袈裟な身振りでリリーに答える。
「そうとも! オレは町で一番のパン屋になる。お前はサツジンキになってケームショ行きで即シケイ!」
「シケーだ!」
「シケー! シケー!」
「それならアーノルド。わたしは将来殺人鬼になって、あんたのパン屋にきた客をみーんな殺してやるわ」
「なに?」
死刑だ死刑だと皆が騒ぎ立てる中、花が綻ぶような笑顔で物騒な事を口にしたリリーに、教室中が再び凍りついた。
すべての音が遠ざかっていくような静寂の中、ただリリーだけが自由に話す。
「皆殺しよ。あんたが町一番のパン屋になるなら、わたしは町一番の殺人鬼になるわ。あんたの店の店員も、あんたのパパもママも、あんたの嫁も、かわいい娘も、ひとり残らず刺し殺してやる」
淡々と、明日の天気の話でもするような、当たり前のことを話すような口調で語られた凄惨な内容に、その場の全員が顔をこわばらせた。
引きつった表情のアーノルドに向かって、リリーはゆっくりと一歩近づく。
アーノルドは後ろへ半歩下がった。
「そ、そんなことしたらオメーはおしまいだ! すぐシケーだぜ!」
「死刑にはならない。その場で自殺するもの。警察に捕まる前に首を切って死んでやる」
アーノルドの後ろに座っている男子が声を上げたならば、すぐさまそいつにリリーは目を向け、黙らせた。
教室中の誰もが、リリーの笑みに、リリーの言葉に縛られたように動けなかった。
リリーの独り舞台は続く。
次の台詞を歌うように諳んじる。
「想像してごらん。あんたのパン屋は血まみれ。呪われたパン屋は町のみんなに嫌われるわ。誰もあんたの店でパンなんて買わない」
「やめろよ……」
更に一歩、リリーは歩みを進める。
アーノルドの踵が、机の脚にぶつかって音を立てた。
ちらと後ろを振り返れば、仲間達は青褪めた表情で固まっている。
遠巻きに見ているクラスメイト達の視線が、リリーだけではなく自分にも向けられている。
ここに来てようやく、アーノルドは自分の傍らに立ってくれる者が、今この教室の中に一人もいないのだと気付いた。
しかし、自分の顔が赤く染まってゆくのには気付けない。
リリーは撫ぜるような柔らかい声で、アーノルドに語りかける。
「ねえアーノルド。あんたのこの前の算数のテスト、酷い点だったわよねえ。かわいそうなアーノルド。パンを焼くしかできない、うすのろアーノルド」
「やめろ……!」
「あんたはパパもママも奥さんも子供もみーんなわたしに殺されて、店もわたしに台無しにされて、誰にも買ってもらえないパンを毎日焼き続けて。そうして、一人寂しく野垂れ死ぬのよ」
「やめろー!」
笑顔のまま淡々と、暗い暗い未来を語ってみせるリリーに向けて、アーノルドは飛びかかるように突進した。
予め想定していたのか、闘牛士さながら鮮やかにスカートをはためかせてリリーが身を躱せば、そこは水のブチまけられた床。
足を滑らせたアーノルドは盛大にすっ転ぶと、そのまま机に突っ込んで派手に物音を立てた。
「い、っった……! う、うおおおーん!」
頭を抑えて転げまわり、泣き叫ぶアーノルド。
教室の凍るような緊張が解け、騒ぎを見ていただけの女子達の数人が、アーノルドにつられて泣き始めた。
僅かの間もないうちに、大きな物音と泣き声を聞きつけ、担任の教師がすっ飛んだように駆けつけてきた。
「何をしてるんですか!」
教師は荒れた教室を一瞥すると、倒れた机の横に転がっているアーノルドの側へとしゃがみ込んだ。
怪我の具合を確かめて、泣き喚くアーノルドに寄り添い、叫ぶような声で問いかければ、生徒達は無言でリリーに視線をやった。
その視線に従い、教師は息も荒く、僅かに上ずった口調でリリーに説明を求める。
「リリー、これは、どういうことですか。説明してください」
「教室に来たらわたしの道具が水浸しに。アーノルドは床の水で転びました」
「ちがう!!!」
アーノルドは床に転がったまま、リリーを指差して涙声で訴える。
「グズッ、せ、先生! こいつが、こいつが悪いんだ! こいつにやられたんだ!」
「リリー、それは本当ですか?」
「わたしは何もしてません」
「ウソだ!」
アーノルドは顔をくしゃくしゃに歪め、涙に濡れた目を赤く血走らせながら叫んだ。
「リデル! クソ女! サツジンキ! 先生、オレたちそいつに殺される!」
「リリーはそんな事をしません!」
殺すという言葉に対して、教師はヒステリックに反応した。
それから、それを誤魔化すように咳払いをして、教室中を見回し、猫なで声で取り繕う。
「リリーがそんなことするわけないでしょう。リリーがあなたに『殺す』と言ったんですか? アーノルド。優しい彼女がそんな事を言うはずが……」
「言った!」
アーノルドの取り巻きが大声を上げた。
教室中の視線が彼に向けられた。
リリーの視線から目を背けるように半身になって、それでも震える手でリリーを指差しながら、取り巻きは声をあげる。
「リデルは言った……アーノルドを殺すって! アーノルドも、周りの人も、みんな、みんな殺すって!」
恐怖に負けて泣き始めた女子は、その言葉を聞いて更に泣き声を強めた。
沼の底から泡が湧き出るように、ふつふつと賛同の声が上がる。
「言った」
「言ったよ、先生」
「リデルは言った」
「殺すって」
「殺人鬼になるって言った」
「言ったよ!」
「リリー。それは、あなた、本当ですか」
動揺を無理やり抑えつけるように切れ切れに、教師はリリーに問いかけた。
「事実です、先生」
「なんてこと! リリー、あなた、今の自分の立場をわかってるでしょうに! あなたのお父様は、」
そこまで口にして、教師は出来の悪い演劇のように口元を手で押さえた。
ランドセルの中から漂う苦笑いの気配に苛立ちながら、リリーは黙って教師を見つめていた。
「賢いあなたならわかっていると思っていたのに、リリー・リデル」
「わかっていますよ、ハーツ先生」
「いいえ。あなたはわかっていません。あなたは、」
「いいえ。わたしは知ってます。みんながパパを怖がってることも、それでわたしを虐めようとしていることも」
厳しい口調で説教を始めようとした教師を、突き放したような口調でリリーは遮った。
「わたしは自分を守ろうとしただけ。悪い噂も酷い言葉も、使えるものの全てを使って。それの何が悪いんですか?」
教師の口が、答えを求めて二、三度意味もなく開閉するのを、冷めた視線で見下ろすと、リリーはランドセルを背負ったまま教室の外へと足を進めた。
「今日は帰ります」
「待ちなさい、リリー・リデル!」
「そいつが悪いんだ! サツジンキ! サツジンキ! サツジンキ!」
リリーを追いかけようとした教師の側で、アーノルドが両手両足をバタつかせて暴れ始める。
一瞬それに気を取られてしまえば、あっという間にリリーは教室を去っていた。
2
穏やかな秋の空の下、リリーは足早に家に向かっていた。
朝といえども通勤や通学には遅すぎる時間であるからか、辺りに人影はない。
「何が殺人鬼の子は殺人鬼よ。ばっかばかしい」
『ねえ、リリー。なんか言って欲しそうな顔してる?』
「……言いたいことがあるなら、言えば」
こぼれ出た憤慨を嗜めるでもなく、寄り添うようなエイルマイルの言葉に、リリーはぶっきらぼうに応えた。
『君なら、もっと穏やかに事を収めることだってできたろうに』
「なにそれ」
『感想だよ。ただのね』
続きを待っていたリリーは、それだけ言って黙り込んだエイルマイルに向けて、語気を強めた。
「向こうがケンカを売ってきたのよ。パパとわたしの悪口を言ったのはあいつ」
『でも煽ったのは君だ』
「エイルマイルも、わたしが悪いっていうの」
歩みを止めて、前を向いたまま俯いて、リリーはそう問いかけた。
「やられたらやられっぱなしでいることが、正しいってわけ?」
『リリー。君は知ってるだろう。そんなはずないって』
エイルマイルは棘のあるリリーの言葉に対しても、どこまでも穏やかに語りかける。
『やられたからやり返すってのは、まあ、悪いことじゃないよ。けれど、良いことでもない』
「ただの言葉遊びだわ。良くも、悪くもないことなんてない」
『そうやってすぐ白と黒の二つに世界を塗り分けようとするのは君の悪い癖だ、リリー。ぼくが言いたいのは、それは君が選択したんだってこと』
「選択?」
予想していたような説教ではなく、聞きなれない単語が持ち出されて、リリーは眉間に皺を寄せ、オウム返しにそう問った。
『正解だとか間違いだとか、正義だ悪だというのは客観的な判断基準だ。客観的に正しい行動は、十回繰り返しても百回繰り返しても正しい。けれど、選択は違う。それは客観的に見て妥当性がある行動のうちから一つを、自らの意思で選ぶということだ』
リリーの理解が追いつくのを待つようにして、エイルマイルはそこで言葉を止め、再び話し始める。
『君は、彼の言葉がただ君を傷つけるためだけに振るわれた幼稚ないちゃもんだとわかっていた』
「幼稚だからって、暴言が許されるわけではないでしょう?」
『けれど君は、それが彼を面と向かってみんなの前でやり込める口実としてこれ以上ないってことにも気づいたはずだよ。先にやられたのは君だから、やり返したとしても正当性は君にある』
リリーが言葉に詰まったのに気づいてか気づかずか、エイルマイルは更に言葉を続ける。
『あの哀れなガキ大将がやったのは、ドン・キホーテよろしく、目をつぶって突進するに等しい、無謀で愚かな特攻だ。そんな相手を避けるか、迎撃するか。選ぶ立場だったのは君だ。君が、彼とぶつかって、コテンパンにやっつける事を選んだ』
「それはつまり、見えてる側に責任があるってこと? 頭の良い人は、バカに合わせてあげなさいって?」
『すこし違う。この場合の責任というのは、君の中で君だけが負うべき……自分のあり方についての責任だ』
挑発的にも聞こえるリリーの問いかけが、そうではないと知っている。
リリーの賢さを、相手の言葉を理解しようとする善性を、エイルマイルは信じていた。
『『先に相手が喧嘩を売ってきたから』『仕方なく応戦した』んじゃない。君は、君の意思で相手をやり込めることに決めたんだ。正しいだとか間違いだとか、そういう言葉で自分の選択から逃げてはいけない。君が選んだんだ、そうなることを。バカで幼稚なクラスメイトに売られた喧嘩を、二倍の値段で売り返す、そういう自分であることを、君が選んだ。君はそこから、その責任から逃げるべきじゃない』
たっぷり八秒ほど、エイルマイルの言葉を正面から受け止めるのにリリーは時間を要した。
そして、静かに口を開く。問いかける。
「……それじゃあわたしは、どうすればよかったの?」
『彼をやり込めて、満足したかい、リリー』
「ええ。これ以上なく。でも……」
そこでリリーはようやく眉間の皺を緩め、自嘲的に小さく息を吐いた。
「今は、もっと上手く出来たかも、って思ってる」
『それでいい』
ランドセルの中で、お節介な友人が満足そうな笑みを浮かべているようにリリーは感じた。
『君は彼をコテンパンにやっつけて、そこから一つ学んだ。『これは違う』『これは望む私のあり方じゃない』ってね』
「そうね。認めるわ……わたし、失敗したんだ」
『そうだね。失敗だったかも。でも、君はそこに価値を見出した。失敗それ自体に価値があるんじゃないよ? これから先の生き方次第で、価値を生み出すことができるってだけ。君はその糸口を見つけた』
「うん……」
『君が今日の失敗を、価値あるものにしてくれると嬉しい。僕の言いたいのはそれだけ』
「うん」
リリーは小さく曖昧に頷いた。
指を唇に当て、僅かに俯いた彼女の胸の内に、苛立ちはもうどこにもない。
エイルマイルの言葉でさえ、半端にしか届いていない。
指摘を受け、自分が行うべきだったやり方について、吟味と検討を繰り返すのに夢中になっていた。
つまり彼女は、反省しているのだった。
(ああ、そして)
そして、そんな彼女を尻目に、誰にも届かない、どこにも行くことのない思いが巡る。
(もう先のない僕には、反省することさえ許されない)
3
公園を横切れば、もうすぐ家につくというところで、リリーは見慣れない人間がそこに立っているのを見つけた。
猫のようだ、と思った。あるいは豹。
しなやかな身体を持った、異常なほどに眼光鋭い、生来の狩人。
黒のタイトなスーツに身を包んだ、都会の匂いを漂わせる女。
(警察の関係者かな。あるいは記者とか)
どちらにせよ、望ましいものではない。
足早にすれ違おうとしたところ、宙に向かって女が呟いた。
「どっかで嗅いだような匂いがするね。甘くて、人工物で……わずかな刺激臭。なんだったっけな?」
口を開けば鋭い八重歯がぎらりと輝く。
リリーはとっさに距離をとって、ランドセルに付けられた防犯ベルを、見えるように握った。
「おいおい。よしてくれよ」
女は苦笑いをしながら両手を挙げた。
「不審者には近づくなって言われています」
「そのベル鳴らして、飛んでくる役が私だよ。警部のチェシャ=マクローレンだ」
その名の通りチェシャ猫のように唇を大きく歪めた笑顔を作ると、チェシャ警部は懐から手帳を取り出し、中を開いて見せてきた。
それでリリーはますます、警戒を強める。
ランドセルの中のエイルマイルを意識しないよう、息を吐いて覚悟する。
今は、子供であるということを最大限に利用するほかなかった。
「わたしにはそれが本物かどうかわからないので」
「小賢しいお子様だこって」
わざとらしく鼻を鳴らしたチェシャは、手帳を懐にしまうと、一歩下がって右足でざり、と地面に線を引いた。
「なに、これ以上近づかないからちょっと話を聞いてくれないか。人を探しているんだ」
「何度も話したと思いますけど、パパのことなら知りません」
「ああ、そっちは別にいい」
チェシャは懐に再び手を伸ばし、一枚の写真を取り出した。
茶髪の人懐っこい笑みを浮かべた男性が写っていて、リリーは思わず呼吸を止めた。
「名前はエイルマイル=ハーグリーヴス。ヘラヘラ笑いが特徴の、甘ちゃんで、私の部下。知らないかな?」
「し」
息を吐く。大丈夫。わたしは動揺していない。
全霊を賭して、リリーは動揺を内に押し込め、笑顔で蓋をした。
「らないです。誰ですか」
「へえ。彼はきみを探していたはずだったんだけどな……リリー・リデル。まさかガキ一人見つけられない無能だったとは」
「そんな部下がいて大変ですね。それじゃあ失礼します」
足早に去ろうとするリリーを、チェシャは引き止めもしない。
「ああ。気をつけてお帰り。できればパパのいる方の家に」
「家にいないことはご存知でしょう。中に入らないだけで、あなたたちは周り中見張ってますもんね」
早く立ち去ってしまいたい。
けれど、このまま逃げてしまったら負けてしまう。
ささやかな意地のような感情から、リリーは振り返って、精一杯の反撃を投げ返した。
「悪かったよ。もう引き上げさせるさ。無駄をさせられる部下がかわいそうだからね」
苦笑いをするチェシャを見て、今度こそ立ち去ってやると思ったそのとき、
「ああ、思い出した。ホルムアルデヒドだ。甘い匂いの人工物。わずかな刺激臭。生体標本を作るのに使われる薬品」
わざとらしい独り言が聞こえた。
何を言われているのか、言われた言葉を噛み砕くまでに一瞬の時間。
汗が額にじわりと吹き出て、頭が熱を持っているのを、さらに一瞬遅れてリリーは感じる。
チェシャ警部は気づくと線を越え、リリーのすぐ横にまで歩いてきていた。
耳から耳まで裂けるような、三日月に歪んだ口元に笑みを浮かべて。
「動物の標本とか、あとは人体標本とか。きみ、何か持ってる? 例えば若い女の生首とか」
親しげな様子で、リリーの右肩に手を置いた。
リリーは標本のように微動だにせず、チェシャを見上げたまま、その目を真っ直ぐ覗き込んで答えた。
「いいえ」
「冗談だよ。そんな親の仇を見るみたいな目で睨まないでくれ」
「……冗談にしては随分悪趣味ですね」
「そうかい? いいセンいってると思うけどな。親の仇ってとことか」
何が面白いのか、ひっひ、と息を漏らしながら、チェシャはリリーの肩を二、三度叩いた。
その拍子に、ランドセルの中で音がならないことだけを考えて、リリーは身体を固く緊張させる。
リリーの様子に気づいたのか気づかなかったのか、チェシャは三日月のように唇を歪め、深々とお辞儀をした。
「んじゃまた。何かあったら警察までご連絡ください」
駆け込むようにして家に帰り着くと、リリーは玄関口にランドセルを下ろし、中の生首を取り出した。
そして、両手で抱え込むようにしてエイルマイルを抱き上げ、目を合わせてから話しかけた。
「警察の人だったのね。エイルマイル」
『……うん』
「どうして隠してたの」
『リリー。君は僕と会ったときのことを覚えてる?』
リリーの問いかけには答えずに、エイルマイルは別の質問を投げかけてきた。
「覚えてるわ。一昨日のことだもの」
(やあ! 女の子が一人で帰るなんて物騒だな。
殺人鬼が暴れまわってるっていうのに!)
(警察を呼びますよ)
その時の情景を思い浮かべながら、リリーは答えた。
『じゃあ、昨日のことは?』
「エイルマイル。ごまかさないで。わたしの質問に――」
何かを隠そうとしているかのようなエイルマイルから、さらに話を聞き出そうとして、リリーは気づいた。
昨日。
昨日のことを思い出せない。
『君が何も覚えていないなら、それは僕が話すべきことじゃあ、きっとない』
「あなた、何を」
『君が忘れたいと思ったことを、僕は思い出させたくない』
気さくでお調子者、ちょっと情けないけれど、話のできる友人として、気の合う相手だったエイルマイルが、こんなにも頑なだったことはこれが二度目で、リリーは口を噤んだ。
……二度目?
(いいかい、リリー。君はここにいるんだ)
緊張したエイルマイルの声だけが脳裏に響く。
聞いたことのないはずの、けれど確かにどこかで聞いたことのある調子。
「じゃあ、質問を変える。エイルマイル。あなたはどうして、パパに殺されたの。どうしてあなたは、今朝わたしの机の上にいたの」
『リリー。僕は……答えられない』
「確かめなきゃ……パパのところに行くわ」
(確かめなきゃ。パパのところに行くわ!)
そう。
それはおそらく、昨日も口にした言葉だった。
自分の父が殺人犯だなんて信じられる話ではない。
それなのに、リリーは父、ヘンリー・リデルが連続殺人犯であることを、単なる事実として受け止めてしまっているのだ。
リリーはようやく、自分の記憶が大きく欠けていることを自覚した。
4
山中の湖、その畔にある別荘地帯に、リリーは一度行ったことがあった。
どうしてさほど遠くもないここに別荘があるのか、その時のリリーは特に気にもとめていなかったが、ともあれ。
手配中の犯人が、隠れて身を寄せるには最適の場所だ。
そう、昨日の自分でも考えたはずだ、とリリーは考えた。
そして、その考えが間違っていないことは、黙り込んだままのエイルマイルが証明しているようなものだった。
『リリーは、お父さんの味方になりたいのかい』
湖に向かうバスの座席に座ったとき、肩掛けカバンの中のエイルマイルは力ない声でそう問いかけた。
リリーは、バスの外の風景をぼんやり見ながら、少し考えてから返事をした。
「いまは、世界中すべてがパパの敵みたい。それなら、せめて私だけはパパの味方でいてあげなきゃ。たった一人の家族なんだから」
『……そうだね』
「止めないの、エイルマイル。警察でしょ」
『僕には君を引き止める腕がない。君の選択を止める資格もない』
「資格?」
『僕は君をひどく傷つけた』
それっきりエイルマイルはまた、黙り込んだ。
二人は無言で、山中の湖に向かうバスに揺られていた。
「いいかい、リリー。君はここにいるんだ。僕がお父さんと話してくるよ」
「だって、パパは本当に、たくさんの女の人を、」
「大丈夫だよ、リリー。僕がついてる」
そう言って、エイルマイルはリリーの身体を強く抱きしめた。
(その暖かさにほっとしたのを覚えてる)
「お父さんはきっと興奮してる。危ないから、付いてきちゃいけないよ」
「でも、あなたが危ないわ! エイルマイル!」
「大丈夫。僕って結構、こういうの得意なんだ……
スパイみたいに潜入するのとかね。安心してよ、リリー」
「違うの! 行っちゃだめ!
だってエイルマイル、あなた……死んじゃうのよ!!」
「大丈夫、リリー。リリー……リリー……大丈夫」
『リリー、リリー。大丈夫かい』
気遣うエイルマイルの声に、身体をびくりと跳ねさせると、いつの間にかバスは停車しており、運転手がリリーの側に立っていた。
「終点だよ」
ぶっきらぼうなバスの運転手の声に頭を下げながら、リリーはいそいそとバスを降りた。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
長閑な山中のバス停の周りには、人の気配はほとんどない。
記憶を頼りに、リリーは車通りから脇道に、別荘が群集する方へと足を進めた。
「何か言いたそうな顔してる?」
『顔も見れないのに、すごいね』
「そういう気配をしてた」
器用に口笛を吹くような音を立てるエイルマイル。
しかしリリーは、そろそろ気づいている。
彼が本当に口笛を吹いているわけではないということに。
この声が、自分の頭の中でだけ響く、幻のようなものだということに。
そしてその声は、エイルマイルの気配は、別荘に近づくに連れてどんどん小さく、弱くなっていく。
『じゃあ、最後に一つだけ言わせてくれないかい』
「……なんでも言ってよ」
『リリー。君は賢い。大人よりもずうっとね』
「うん」
『でも、賢いからといって、強いわけじゃないんだよ』
「……うん」
『それでも君は、道を選べる子だから』
「うん……エイルマイル、あのね」
『僕は君の選択を応援するよ』
「待って、エイルマイル! ごめんね、わたし、わたしのせいで」
急速に気配が遠くなっていくのを感じて、リリーはかばんの中からエイルマイルの首を取り出した。
生首はもう何も答えなかった。
気づけばそこは別荘地の中でも奥まったところにある、洋館の前だった。
生け垣の中に隠してある箱の中から鍵束を取り出し、門を開ける。
荒れた前庭を抜けて、館の扉を開けば、埃っぽい空気が外へと流れ出てきた。
薄暗い館の中に、リリーは躊躇いなく足をすすめる。
場所はもう知っている。地下室だ。
階段の脇にある小さな扉を開けて、地下への階段を降りれば、ぶつぶつと呟く声が聞こえてくる。
リリーは唾を飲み込んで、息を吸って、吐いてから、扉を開けた。
「ただいま、パパ」
その声に、中の男は飛び上がるように振り返る。
金の髪は額に張り付き、深い隈の上の目が、リリーを責めるように睨めつけた。
「ああ、リリー。馬鹿者が。遅すぎる。ちゃんと川へ捨てたのか」
そして、抱えるようにして生首を持っているリリーの右腕に目を向けると、顔を真赤にして叫んだ。
「なぜその首を持っている!」
大音を立てながら距離をつめ、乱暴に首をはたき落とす。
エイルマイルの首ががつんと鈍い音を立てて床に落ちた。
言葉もなく、まるでただの物であるように、それはごろりと転がったまま、何の反応もない。
「あっ」
「どこまで私の邪魔をすれば気が済むんだ! ええ!? ママが帰ってきたらお前も嬉しいだろう!? それなのにおまえときたら、警官を連れ込んで、その証拠を隠しもしない!」
ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱し、怒りを顕にする父親――ヘンリーを前に、リリーは震えながら、ごめんなさい、と小さく零した。
その首に、ヘンリーの両腕が伸びる。
「はじめからこうするべきだったんだ」
そして、じわじわと力を込めて締め上げる。
リリーは声を出すことさえできない。
「愚かなお前にも、エリーの血が流れてる。お前の身体なら、さぞ順応するはずだろう」
霞みゆく視界の中、そう言って壊れたように嗤うヘンリーの後ろに、リリーは母親の生首が置かれているのを見た。
そして目の前の男――父の目に自分が写っていないことに、初めて気がついて。
「パパ、わたしは」
苦しさからではない涙が、リリーの目元いっぱいに溜まった。
「わたしは、パパの家族じゃなかったの……?」
か細いその声を聞いて、ヘンリーが表情を歪め、大声を出そうと息を吸った。
その瞬間。
破裂音と共に、リリーの首を絞める手から、ぐにゃりと力が抜けた。
痛みに悲鳴を上げるヘンリーを尻目に、リリーが振り返れば、そこにはチェシャが銃を構えて立っていた。
「動くな、ヘンリー・リデル。そのまま虫ケラのように床に這いつくばってりゃあ、お前には治療を受ける権利と黙秘権がある」
5
窓のない灰色の部屋に、二人きりで閉じ込められていた。
リリーの目の前には、不機嫌そうなチェシャが一人、椅子を踏みつけにするように、乱暴に座っていた。
張り詰めて割れる寸前の風船のようなリリーの表情を見て、チェシャは聞こえよがしに舌打ちをした。
「素直に警察に協力しないからそうなる。ガキが一人で何かできると思ってたか?」
「いいんですか。取調室の中で、そんな乱暴な言いかたで」
リリーは努めて感情の出ないよう、声をそろそろと吐き出しながら、視線を部屋の中の鏡へと向けた。
チェシャは大きく鼻を鳴らして、そんなリリーを嘲ってみせる。
「私は優秀だから、ある程度お目溢しがある。どんな汚い手を使おうと、結果を出すやつが正義」
そう言うと、チェシャは軽い足取りでリリーの側に近寄り、右肩から何かを剥がし取った。
いつの間に貼られていたのだろうか、ごく小さな機械のチップのようなものが、シールの内側に貼られている。
「こういうのが、汚い手ってやつだ。ガキを連れ回すのは汚い手というよりは、バカのやることだな。足手まとい」
そう言って、チェシャは懐の写真を机の上に放り投げた。
先の言葉がエイルマイルのことを指しているのだと気づいて、リリーはチェシャをきつく睨んだ。
チェシャはそんな視線など意にも介さず、苛立ちを隠さない口調で言葉を継いだ。
「自分を冷徹で頭の回る切れ者だと思ってた。汚い手段もなんのその、自分は他人を操る側だと、信じて疑ってもいなかった。きみを利用したつもりで、最後にきみを庇って殉職。馬鹿野郎だよ」
「わたしが、憎いですか」
リリーの問いに、一瞬目を丸くしてから、チェシャはひっひ、と息を漏らして笑った。
「買いかぶりだな。私は部下の間抜けっぷりに呆れ果てていただけだよ」
「わたしが殺したのに」
「違う。あいつがきみを巻き込んだ」
「わたしがいなければ!」
「自惚れるなよ」
机を蹴り上げる大きな音に、リリーは口を噤んだ。
わざとらしい笑みも、恫喝の意図ある怒気も。
表情という表情をいっぺんに消して、チェシャはリリーに詰め寄った。
「子供なりにちょっと頭が回る程度で、命を背負えるだなんて思うな。それができないからガキなんだよ」
リリーは頷くようにして、俯いた。
しばらくの間、部屋の中を時計の針が動く音だけが満たしていた。
チェシャは小さく息を吐いて、それから再び椅子に乱暴に座り直した。
「まあ、きみには特にお咎めがあるわけじゃない――少しお説教はされるかもしれないが。これからは善良に生きて、私と敵対しないよう、震えながら生きて行け。今日の失敗を糧に」
「失敗?」
リリーはチェシャの言葉に身体をびくりと痙攣させ、呆けたような表情で顔を上げた。
その異様な反応に、チェシャが眉を顰める。
「失敗……」
「どうかしたか」
「…………ごめんなさい、今までの、全部ナシ。わたし、また間違うところだった」
「なに?」
「わたし、善良に生きます。そして、警察官になります」
エイルマイルみたいに。
視線を机の上の写真に向けて、言外にそう言ってのけたリリーの目を見て、チェシャは鼻を鳴らして応えた。
「殺人犯の娘が警察に? 極端から極端だな、そりゃ」
「そうなりたいって決めました。今」
「ふーん。まあ、悪くないんじゃない。茨の道だがね」
目の前のチェシャすら見ていないような、どこか遠くを見つめる瞳を爛々と輝かせ、リリーは宣言した。
「悪くもない、正しくもない道から、わたしは選ぶんです。彼の失敗に価値があったと、証明してみせる」
料理大会に出した短編小説集 遠野 小路 @piyorat
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