第4話 剣は間に合った

1.リリララとユイ


(ああ、なんと———醜い)


 剣を握ったまま、残心。

 伸ばしたままの腕、その先にある指が目に入り、リリララは思う。

 森の民特有の透き通るような白い肌は泥と汗で褐色に汚れ、滑らかとは程遠い、節くれだち、皮の厚くなった、無骨な剣士の手がそこにあった。


「くそ……強すぎる!」


 その手のさらに先、無様に打ち据えられ、地に伏していたままの少年があげた悪態が耳に届き、リリララは我に返る。


「……そう簡単に越えられるものか。物心ついた頃から棒振りを続けて、かれこれ100年にもなるんだぞ」

「鏡見ろ! そんな若い100歳がいるか!」


 元気に跳ね起き、指をさして反論してくる少年に、リリララは苦笑いで応えた。


「本当だというのに……物分かりの悪いやつだな」

「もう一回!」


 大きな声で再戦を希望し、剣を構える様を見て、リリララの笑みから苦味が消える。


「本当に、物分かりの悪いやつめ」


 笑みのまま構えて、駆け出してくる少年を迎え撃つ。

 人と打ち合うのは、リリララにとって初めてのことで、それがこれほど楽しいとは知らなかった。




 リリララが行き倒れた少年を拾ったのは本当に偶然だった。

 いつものように川への水汲みへ向かったリリララは、家のすぐ裏手でうつ伏せに倒れている少年を見つけた。

 それが川からの帰りだったら、水桶が重かったから捨て置いたろうし、家からそう近くもなかったら、魔物避けの簡単な呪い(魔法で作られた道具を用いた、簡易的な魔法)をかけて去っていただけだろう。

 水桶をその場に置いて、少年を家まで半ば引きずるようにして持ち帰ると、臭いのキツい薬草を気付けにと口に放り込んだ。


「……うえッ!? げは、なん、なに!?」

「人間がよくこんな森の奥まで来られたね」


 少年は口の中の草を吐き出して、何度か口を拭うと、身体を起こして物珍しそうにリリララの家の中を見回した。

 森の民らしい質素な家の中には、囲炉裏と寝床と調理器具が転がっているくらいで、取り立てて珍しいものもなかった。

 窓の外を伺った後、少年の視線は改めてリリララへと注がれた。

 まず、尋常の美貌ではない。

 大理石のように白く透き通った肌に、翠の瞳。

 バラの蕾のように柔らかに朱い唇に、流れる星のように輝く金の髪。

 天上の美と呼ぶに相応しいものを間近で見た少年は、何か変なものでも見つけたように、目を丸くして、口をだらしなく半分開いてしまう。

 そして、見惚れていた自分に気づいたかと思うと、僅かに朱がさした顔を二、三度横に振った。


「……あんたが助けてくれたのか」

「気まぐれさ」

「その気まぐれに救われた。ありがとう」


 少年は素直に頭を下げた。


「あんたみたいな美人が、なんでこんなところに住んでるんだ。それも、一人で」

「とある理由で私はこの森にいなくちゃならないんだ」

「一人で? 危ないだろう」

「そうでもないさ。ここには魔除けの呪いがある。魔物は近づけないし、獣はこれで追い払う」


 そう言ってリリララは腰に刺した剣の柄を軽く叩く。

 少年は眉を寄せ、目を細めて、


「いや……女のあんたが剣なんて使えるのか?」

「それなりには使えるよ。修練も毎日欠かさずやっている」

「始めてからどれくらい経つ」

「100年」

「っくは!」


 少年は吹き出すようにして笑い出し、リリララはきょとんとしていた。


「なにがおかしい」

「くはは、いや、そーんな真顔で冗談言うやつだとは思わなかったからさ。くく、その若さで100歳って……いや、悪い悪い。あんた、すごく変わり者なんだな」


 笑いを堪えようとして堪えきれず、途切れ途切れに話す少年に、リリララは気を害した様子もなく淡々と言葉を継ぐ。


「冗談ではないぞ。私は森の民だからな」

「森の民? エルフか?」

「人間はそう呼んだりもするな」

「ますますありえねえだろ! いや、たしかにあんたはエルフかってくらい美人だけどさ……エルフは集落作って集団で住むんだろう。それに、エルフといえば魔法使いだ。エルフの剣士など、聞いたこともない!」

「だから言ったろう。一人でここにいなければならないと」


 リリララの表情に僅かに影がさした。

 少年は笑うのを止める。


「……あー、まあ、そうな。こんなところで住むってのは何かしらワケありだろ。命の恩人を詮索する趣味はないよ。あんたははぐれのエルフで、剣を握って100年のベテラン剣士だ」

「うむ」

「改めて。俺はユイ=ハクタイ。探索者やりながら剣の修行をしてる」


 少年が手を差し出すと、リリララは自分の胸に手を当てた。


くらもりほどくリリララだ」


 それだけ言うと、リリララは手を下げた。少年はしばらく差し出したままの手を所在なさげにふらふらとさせて、それから下ろした。


「あー、介抱してもらった礼をしたいが、あいにく今は礼になるようなものを持ってないんだ」

「なら、水を汲んできてくれないか」

「水を? そんなんでいいのか?」


 リリララは頷いた。


「水瓶に貯める。川に汲みに行く途中で君を拾った」

「拾ったって……なるほど。そんなんでいいならお安い御用だ、よっと」


 ユイは蔓で編まれたようなベッドから降りると、身体を伸ばし、手足を振り、軽く跳んで身体の感覚を確かめた。


「家の裏にまっすぐ進んでくれ。少し歩けば水桶が落ちてるから、それを持って行くといい。800歩もしないうちに川に出る」

「なんで水桶が落ちてんだよ」

「つまり私は君をそこで拾った」

「あー……なるほどね」


 ユイは納得したように何度か頷きながら、リリララの家を出た。




「……なんっじゃ、そりゃ」


 ユイが水桶に水を汲み、頭上で支えながら持ち帰ってくると、家の前の開けたところで、リリララが剣を持って素振りをしていた。

 それだけなのに、驚愕から声が漏れ出て、ユイは危うく水桶を落としそうになった。

 その素振りは、余りにも完成度が高すぎた。

 上段の構えから、僅かも揺れることなく、溜めもなく、流れる水のように、剣が振り下ろされる。

 ユイも師から剣を学んだことはあるが、これほどまでの剣閃を目にしたことはなかった。


「……早かったな」

「いや、あんたの剣のほうがよっぽど速いだろ。なあ、リリララ」


 そうとなれば、疼く。

 元より武者修行の身、これほどまでの使い手と試合えるなら、それに勝る経験はない。


「稽古をつけてくれないか。100年もののベテラン剣士の剣を、受けてみたい。頼む」


 リリララは剣を下ろすと、思案げに顎に指を当てた。


「構わないが、私は人を相手に打ち合ったことはないぞ」

「はあ?」

「それでもいいなら、やろう」


 そう言ったリリララの口元は、僅かに綻んでいた。




「すまない。私は加減が下手だったか、ユイ」

「そうじゃねえよ……」


 完膚なきまでに敗北したユイにとって、リリララの気遣いさえその身を打ち据える打撃でしかなかった。


「リリララ、あんたは本当にエルフで、100年剣を振り続けてきたんだな。一人で」

「そう言ってるだろう」

「いや、ようやくわかった……というか、思い知らされた。いい経験になったよ。ありがとう」

「礼ならこちらから言わせてもらうよ、ユイ。私は初めて人と剣で打ち合ったが……これほどまでに心躍るものだとは思わなかった」


 そう言って、リリララはユイの手を取り、自分の胸へと手を導いた。


「っ、おい!? おま、」

「星の巡りにかけて、くらもりほどくリリララは感謝する。ユイ=ハクタイ」


 慌ててユイが顔を上げれば、鼻の先には匂い立つばかりの美貌がそこにあった。

 ユイはすっかり身体中を緊張させて、微動だにすることができない。


「わかった、わかったから手を離してくれ」


 素直に手を離したリリララから、自分の手を取り返すように懐に戻し、ユイは小さくため息をついた。


「自覚あんのか、リリララ。あんた……」

「何が」

「あーあー、わかってるよ」


 何もその気などないということがわかって、誰にでもない遣る瀬無い気持ちを、ユイは悪態に変えて吐き出した。


「本当に楽しかったんだ、人と剣を交えることで、ここまで……意思が伝わるものとは知らなかった」

「いや、俺はそんな達人様の領域のことはわからないが……」

「そうなのか?」


 首を傾げてそう尋ねるリリララの瞳は、初めて知った喜びからか、星の瞬きのように輝いていた。


「……昔、師匠がそんな事を言ってたな。剣を交わせば相手の心根が知れるって」

「心根か。その通りだ。ユイ、君のことも確かに伝わった。君の剣は、雄弁だ」

「いや、わかんないってーの」




 ユイは、街に帰るのを引き延ばした。

 リリララと剣を交えて模擬戦をするのは、まさしく値千金にも代え難い、最高の修行となった。

 日を置くごとに、自分の剣技が研ぎ澄まされてゆくのを、ユイは初めて実感した。

 その感覚に、歓喜に、溺れそうになった。

 それは例えば僅かな足先の向きだったり、呼吸の律動だったり、指の間隔だったり、そういった全てを意識することで、かくも己の剣が変わることを、自ら体感しながら成長していくことができたのだ。

 とはいえ、ただの一度もリリララに勝つことはなかったのだが。


 リリララも、文句ひとつ言わず、毎日それに付き合った。

 文句などあるはずもなかった。

 行き場のないまま積み上げられ続けてきた研鑽は、ユイという相手が現れたことで、開花した。

 リリララは、型をなぞるだけだった剣の技、その意味を見つけ直した。目の前の友とどう語らうか。どう構え、どう振れば、どう応えるのか。無限とも思える組み合わせを前に、リリララもまた喜びを隠せなかった。

 二人の剣士の蜜月は一月続いた。


 一月しか続かなかった。




「私は行かない」

「……どうして」

「そういう決まりだからだよ」


 街に帰ると告げたユイは、リリララも連れて行こうとして、激しい拒否にあっていた。


「なんだよそれ」

「そう遠くないうちに、この森は瘴気に飲まれる。その瘴気を喰らい、鎮めるのが私の役目だから」

「瘴気って……おとぎ話にあるような大災厄かよ。そんなのいつ起こるんだ」

「もうすぐだよ。あと100年もしないうちだ」


 ユイは小さくため息をついた。


「リリララ。100年もしたら俺はとっくに死んでる」

「そうなのか?」

「そうだよ。100年つーか、50年先生きてるかもわかんねえよ」

「……それは、短いな」


 リリララは小さく呟いた。


「余りにも、短い」

「……余命短い俺の頼みだ。一緒に行こう、リリララ」

「それはできない」

「なぜだ!」


 声を荒げるユイに対して、リリララはあくまでも静かに答えた。


「私はリリララ。『くらもりほどく』リリララだ。その為に生まれ、その為に死ぬ」


 そう言ったリリララの眼に宿るものは、悲愴と言っていいほどの決意。

 しかし、その瞳が僅かに揺れたのを、ユイは見逃さなかった。


「リリララ。お前、死ぬつもりか」

「正確には命を森に返すというべきか。大いなる流れに身を委ねることになる」

「エルフの持って回った言い回しなんてどうでもいい。死ぬのと何も変わらない」

「……瘴気を全身に溜め込み、理性のない獣になるだけだ。そこに私の意識は既に無い。しかし、確かに私はそこにいるのだ」

「要するにお前がここに一人取り残されているのは……生贄ってことか」

「名誉ある役目だ」

「……ざっけんな」


 ユイはリリララの肩を掴んだ。


「なんでお前がそんな役目を負わなければならない!」

「それは、私が魔法を使えないからだ」


 リリララはいつかのように表情に影を落としながら、微笑んでみせた。


「魔法を使えない森の民など、森の民ではない。お前には何も歌えない。お前は森の為に踊れない。お前には何も作れない。けれど森を鎮めることはできるとね」

「……」

「私にはそれしかないんだ」


 リリララは、ユイが掴む肩に手をそっと当てた。


「あるだろ、お前には! 100年休まず続けた剣の稽古が!」

「ただの手慰みさ。暇潰しと言ってもいい。こんなもの、なんの役にも立たないよ」

「役に立たないだ? これからお前が、その手で役に立てるんだよ! 街に行けば、いろんな剣士がいる。お前はもっと強くなれる! こんな森など、滅んでしまえばいい! 100年後のことなんか知ったことか、一緒に行こう、リリララ!」

「役に立てる、か」


 縋るような表情で訴えるユイを、リリララは哀しげに一瞥すると、肩の手を強く払った。


「リリララ、」

「ならば今ここで役に立てよう。言葉の通じぬ獣を追い払うのには、棒振り程度が丁度いい」

「それは剣士への侮辱だぞ」

「私の拙い棒振りに勝てない剣に、何の誇りがある」

「……買ったぜ、その喧嘩」


 ユイは真剣を抜いた。

 リリララの目が薄く細められる。


「力づくで連れて行ってやるよ、リリララ」

「正気か? この一月、君は私にただの一度も勝てなかったのに」

「その一度目が今日であればいい、だけだ!」


 そしてユイは、猛然と斬りかかった。




 リリララの剣は、苛烈だった。

 袈裟斬りに斬りかかってくるユイの胴を、強か打ち据え、肋を折った。

 地を這うように近づき、跳ねあげたユイの突きを躱し、額を割った。

 大上段から振り下ろす、ユイの最速の一撃を上回る速度で顎を砕いた。

 そのどれにも、刃は使わなかった。

 棒振り。

 リリララのそれは、剣などではないのだと言わんばかりに、どこまでもそれは打撃でしかなかった。

 獣のような咆哮と共に突進したユイの、予備動作などほとんどない突き。

 それを難なく払い落とし、ユイの剣を叩き折った。


 しかし、剣は折れてもユイは折れない。

 口の中の血を乱暴に吐き出すと、ユイは折れて半分になった剣を構えた。

 リリララは凄惨な姿になったユイから目を背けた。


「……勝負はついた。失せろ、ユイ」

「逃げるのか、リリララ。それなら、俺の勝ちだぞ」


 息も荒くそう告げるユイの言葉には、既に力が無い。

 肩は弾み、脚は震え、腕は揺れていた。

 およそ、満足に戦えるコンディションとは程遠い。

 それでも、その視線だけは力を失っていなかった。


「そんななりでよく大口が叩ける」

「一緒に、行こう。リリララ。お前だって、そうしたいんだろ」

「知ったような口を利く。私がそんなものを望んでいるといつ言った」

「一月も、一緒に、過ごしたんだ、それくらい、わかるさ」

「100年生きる私と、たった一月を共にしただけだ」

「剣の稽古の時、お前は、嬉しそうだった。お前の眼は、星空のように、輝いてた」

「森の民の美貌に惑わされたか、人間」

「俺はッ、リリララが泣いてるのを見た!」


 リリララは言葉に詰まった。

 そんなはずはない。

 この数十年、涙を流した覚えなんて、ただの一度もない。

 流したいと思ったことこそ幾度かありはしたけれど———


「……ッ!」


 言葉に詰まったその瞬間、リリララの身体も僅かに固まっていた。

 僅か一呼吸もない、刹那の時間。

 その隙を突いて、ユイが駆ける。

 刹那の間で充分だった。

 先の突きよりも尚速い、今までの内で最速の突き。

 しかしその速度は、


(受け切れる)


 100年の差を埋めるほどではない。

 リリララは下から払いあげるように剣で受けようとして、気づく。


(剣先が、ない)


 それは先程リリララが叩き折っていた。

 そんなことは、この一月の間、一度もなかった。

 いつもと違う剣の間合いを、見誤っていた。


 (それでも)


 それでも、リリララは一瞬だけ、身体を溜める。

 剣先を払う軌道を、根元へ払う軌道へ変えて、


「もらっ、たァ!」


 気づく。

 一瞬の遅れに対応して、ユイもまた一瞬遅れて対応したことに。

 リリララの払い上げが通り過ぎるのを待つように、ユイの踏み込む一歩が深い。

 剣の対話。相互理解。

 それは例え、時の流れが違う二人であっても、同じ一瞬を共有すること。

 その一瞬で何を選ぶか、相手を見定めること。

 リリララの意図を、ユイはこの瞬間、完璧に読み切っていた。

 そして、二人の選択の結果、ざしゃ、と草の滑る音と共に、ユイが地面に倒れこんだ。


「……はあ、はあ」


 リリララは、決定的な敗北感と共に、倒れこむユイを見下ろしていた。

 ユイの踏み込みは、深すぎた。

 全身の力が残っているならいざ知らず、満身創痍のその身でこなすには、無理のある動きに、脚が耐えられなかった。

 ただ、確かにその瞬間。

 ユイの剣は、リリララの剣を僅かに上回っていたのだ。

 それでも、敗北は敗北でしかない。


「くそッ……! おれ、は、どうして、あと、ひと振りが、届かない……ッ!」


 折れた剣を地面に突き立て、身を支えようとして、その腕にはもはや、上半身を支えるだけの力を持っていない。

 震える足は、何度も草に滑り、地面を醜く掻くばかり。


 リリララは、荒い息のまま、ユイに背を向けた。


「さよなら」

「……待てッ、リリララ! まだ俺は戦える! 行くなッ! リリララ!」

「……物分かりの悪いやつだ」


 それがどんな表情から放たれた言葉だったのか、ついぞユイには見えないまま、リリララはその場を去った。


「リリララ! 必ず俺がお前を連れ出してやる! お前より強くなって、お前を、必ず!」


 声を振り絞り、リリララに呼びかけ続けるユイの前で、森が僅かに歪む。

 森の民が使う、『森惑い』の呪い。

 気づけばユイは、森の外れにいた。

 森から追い出されていた。




2.ウィレドと初代



 ウィレドの父親は、控えめに言ってクズそのものだった。

 それでもウィレドは、それしか知らなかったから、そういうものなのだと思っていた。

 昼間から酒を飲み、暴れる。

 近づけば殴られたから、ウィレドはいつも、部屋の隅に座り、父親のことを見ていた。 

 見る。

 そうしていなければ、たまたま機嫌を損ねた父親が、自分を殴りに寄ってきたとき、避けられないから。

 見て、躱す。

 見て、逃げる。

 それは、ウィレドが生きていくのに、必要なことでしかなかった。


 身体が大きくなれば、そんな家の中に居る必要がないことにも気づき、ウィレドは一日中を外で過ごした。

 ウィレドの住む剣の聖地、ヴェレクート壁外地区。

 外周地区とも呼ばれる、市街外壁に寄り添うように建てられた、吹き溜まりのような街は、お世辞にも治安がいい所ではなかった。

 しかしそれでも、昼間に見る他の親子は、自分とは違い、また父親とも違う様子だった。


(なんであんなに近づいているのに、殴られないんだろう)


 笑顔というものは知っていた。

 ごく偶に、父親が浮かべている時があり、その間だけは殴られないことを、ウィレドは知っていた。

 だからあの子供は自分と違って殴られないのか、と気づいたウィレドは、胸の奥が熱く灼けるような居心地の悪さを感じた。

 その意味を深く考えることもなく、ウィレドはいつものように、そういうものなのだと割り切ることにした。


『そういうものなのだから、少しくらい悪い目に合ってもいいだろう?』


 父親に半ば強制される形で物盗りを始めた時、ウィレドの内に灯った昏い炎は、ウィレドにそう囁いた。

 少しくらい分けてくれてもいいだろう。

 お前たちは殴られないのだから。

 心の声に従って、ウィレドは盗みを働いた。

 盗みを始めて、ウィレドは自分が盗みにおいて天才的な手腕を持っていることに気づく。

 というか、何故周りの奴らがこんな簡単なことを出来ないで捕まっているのかが、ウィレドには分からなかった。


「おいウィレドよぉ。どうすりゃそんなにアホほど盗んで一度もバレねえでいられんだ。俺の知らねえ間に悪魔に魂でも売ったのか」

「よく見て、決定的な隙を見たら、盗めばいい」


 そう言ったら、父親にぶん殴られそうになったので、当たる振りをして派手に吹っ飛んでやった。

 ただそれだけのことの、何が出来ないのか、ウィレドには分からなかったが、殴られる時に避けたりすると、もう三倍殴られることはわかっていた。

 ウィレドの『見る』という概念は余りにも広すぎた。

 長年の生活で鍛えられ続けたそれは、もはや読心と言っていいレベルにまで昇華されていた。


 だから、壁内の人間が特別警邏に来ると聞いても、ウィレドは特に警戒しなかった。

 どころか、壁内のお高く止まった兵士共から、小綺麗な装飾品でも盗んでやろう、と思っていた。

 兵士達に紛れて、無造作に立っている老人を『見て』、ウィレドはほくそ笑んだ。

 見たこともないほど豪華な剣帯。

 それに対して、着けている老人は隙だらけだった。


「ボケたお貴族様か。少しくらい悪い目見てもらうぜ」


 そう呟くと、ウィレドは建物の隙間に隠れて、老人達一行が自分の目の前を通るのを待った。

 地べたに座り込み、俯いた姿勢で待つ。

 老人が横を通る瞬間、素早く短刀で剣帯を斬りつけようとして、

 手先が痺れた。


「物盗りか」


 遅れて来るのは激痛。

 ウィレドは何をされたのかまるで見えなかった。自分の手の先だったのに。

 それでも、失敗したことだけはわかったので、ウィレドは素早く駆け出そうとして、

 天地が突然ひっくり返った。

 背中を強く打ち、肺から空気が全て出る。


「……ッは、」


 兵士達が槍を向けるより先に、老人はウィレドの胸を踏みつけ、喉元に剣を突きつけた。


「死んどくか、ボウズ」

「な、あ。な、いま。何をしたんだ、アンタ」


 剣を突きつけられたウィレドは、狐につままれたような目をして、老人に向けて無邪気に問いかけた。


「初代様!」

「下がれ」


 ウィレドに目を向けたまま、一言で兵士達を下がらせた老人は、皺の重なった顔の唇を歪めた。


「死ぬのが怖くねえのか、ボウズ」

「アンタはそうしない」

「おめでたい野郎だな。物盗りは死罪だ」

「でも、アンタはそうしないんだろ」

「……どうしてそう思う」

「思ってない。見ただけだ」


 それはウィレドにとって、『見ればわかる』ような当たり前のことでしかなかった。

 けれど、

(どうせ言っても通じないだろう。今まで通り。これからも。それは、そういうものなんだから)

 そう思ったウィレドは、投げやりに答えた。

 しかし、老人はその答えを聞くと、さも愉快そうに大声で笑いだした。

 供をしていた兵士達も、ウィレドも、老人の突然の高笑いに、固まって動けないでいた。


「くはは、その通りだ、ボウズ。お前……いい『目』してんな? ちょっとウチに来い」



 それが剣の聖地、ヴェレクートでも最強の剣士と目される、ハクタイ流の初代であったと知らされても、ウィレドはよく分からなかった。

 剣が強いだけで、どうして盗む前に手を打ち据え、逃げ出す前に足を払って転ばせるなんて真似ができるのか。

 ハクタイ流の道場に連れてこられて、改めてそう問い直すと、初代は愉快そうに唇を歪めた。


「ボウズ、剣ってのはな、会話なんだ。剣を交わせば心根が知れる」

「ふーん。おれが斬りかかったから、わかったのか」


 ウィレドは深く考えないで、それはそういうものなのだと認めた。


「お前、俺の言ってることがわかるのか?」

「いや。でも、アンタがそう言うんだ。だったら、剣ってのはそういうもんなんだろ」

「張り合いのねえボウズだな」


 悪態をつきながらも、老人はどこか嬉しそうにウィレドを見た。


「お前、剣をやらねえか」

「なんで?」

「お前には才能がある」


 生まれて初めて言われた言葉に、ウィレドはしばらく何を言われているのか分からなかった。


「……おれに剣の才能? 盗みの才能ならあるけど」

「違うな。お前の才能はそこじゃない。わかってんだろ」


 老人は自分の眼を指差した。


「お前は目がいい」


 今まで誰にも、父親にさえ理解されなかったそれを、一瞬で見抜いた老人に、ウィレドはただ心のままに質問をぶつけた。


「……なんで、わかるの」

「言ったろう。剣を交わせばわかるんだよ」


 そう言って、呆然と立ち尽くすウィレドに向けて、老人は笑った。

 笑う老人を見ながらウィレドはぼんやりと、どうやら機嫌がいいから殴られずに済んだらしい、とだけ思っていた。


 老人の機嫌を損ねないため、ウィレドはハクタイ流の剣士見習いになった。

 素振りや剣の型をなぞる型稽古では、その振り方ではダメだとか、お前の構え方は間違っていると、しつこく注意されたが、ウィレドはただ、それはそういうものなのだな、と思って素直に従った。

 対人の稽古では、ウィレドはほとんど無敵だった。

 見習い達ではまるで相手にならなかった。ウィレドが『よく見れ』ば、相手が何をしたいのかすぐにわかったからだ。

 程なくして、正式な門下生として認められる前に、ウィレドは門下生達と混じって稽古するようになった。

 そこでは流石に連戦連勝とはいかなかったが、ウィレドが一度受けた技で負けることは無かった。

 そればかりか、ウィレドは自分以外の人間の稽古も『よく見て』いた。

 門下生達の剣筋を盗むように吸収し、次々に自分のものとしていった。

 ウィレドは、門下生の誰にも負けなくなった。

 ただ、戦ってもらえなくなったからだ。


「お前は、剣を盗む。盗人野郎。外周に帰んな」


 不気味なほど静かに、貪欲に、確実に強くなるウィレドを、門下生達は疎んだ。

 そこに来てウィレドは、再び初代に呼び出されたのだった。


「おめえを破門にしろって弟子どもがうるさくてよ」

「それならもう、おれは来なくていいのか」


 ウィレドはそう言いながらも、胸の奥が締め付けられるような、足元が頼りないような気持ちになった。

 初代はそんなウィレドをじっくりと見て、問いかけた。


「俺がお前に何を期待したと思う」

「剣で強くなること」

「そうだ。なんで俺がお前に強くなってほしいかわかるか」

「わからない」

「相変わらず、張り合いのないボウズだ」


 即答するウィレドを見て、老人は楽しそうに笑うと、傍らの剣を取って立ち上がった。


「構えろ。稽古をする」



 ウィレドは老人の前で剣を構え、『よく見て』驚愕した。


(すごい、この爺さんは、なんて……)


 かつて隙だらけだと思ったその立ち振る舞いは、明確な意図に彩られていた。

 剣を誘う動きと、剣を阻む動き。

 全身の隅々までもが、一つの意思に従い、一つの目的を果たすべく稼働していた。

 即ち、目の前の相手を斬り倒すこと。

 剣をかじった今だからこそ、ウィレドにはそれがわかった。

 驚愕に眼を丸くするウィレドをみて、老人は笑う。


「どうだ」

「全然違う。いや、違うのは、おれだ。見えるようになったから、わかる。アンタ……すごいな」

「そう。俺はすごい剣士なんだ。だがこんなものじゃ足りない。俺はまだ強くならなければいけない」


 目の前の枯れ木のような老人は、そう告げて不敵に笑う。


「アンタ、ヴェレクートで一番強いんだろ。それ以上強くなってどうするんだ」

「約束を果たすんだ……それはいい」


 何かを言い淀んで、老人は構えを変えた。

 ウィレドはそれを見て、即座に反応する。

 迎撃はなんとか間に合って、硬質な金属音が跳ねる。


「それよ」

「不意打ちやめろよ。ズルだぞ」


 お喋りの時間かと思えば、突然斬りかかってくる。

 ウィレドの不平も、老人は鼻で笑い飛ばした。


「お前は目がいい。俺の意図を読める剣士は、この辺りにゃそういねえ。だから、お前を鍛える」

「おれは、アンタの練習相手か?」

「そうだ。俺はユイ=ハクタイ。ハクタイ流剣術創始者だ。今日から俺を師匠と呼びな」


 ウィレドは、門下生達と混じって稽古することはなくなり、毎日ユイの稽古の相手をした。

 といっても、始めのうちのそれは、ユイの稽古というよりはほとんどウィレドの稽古と言ったほうがよいものだった。

 門下生を相手に負けないくらいの腕前のウィレドを、ユイはまるで子供をあしらうように簡単に打ち負かした。

 ウィレドがどれだけ『よく見て』も、ユイの剣を防ぎきることはできなかった。

 剣に込められた意味を感じ取ることができなかったからではなく、その逆。

 ユイの剣には、あまりに多くの意図が込められすぎていた。

 それでも臆さず斬りかかれば、返しの技にやられた。

 ウィレドの袈裟斬りは、鋭い横薙ぎの一撃で胴を打たれ、止められた。

 下から這うようにして突き上げてみれば、脳天に一撃をもらった。

 大上段から振り下ろしてみれば、それより先に顎に一発喰らわされた。

 ならばと突きを放てば、下から剣を払われ剣を失った。

 無限とも思えるありとあらゆる攻撃の組み合わせ、そのことごとくを捌く術を知り尽くしているかのように、ユイはウィレドの攻撃をいなし、急所を軽く叩いた。

 ウィレドは、素直に尋ねることにした。


「なんでだ。全然勝てない」

「お前が『よく見る』のと同時に、俺もお前を『よく見て』るんだ。ウィレド。お前は見られていることに無頓着すぎる」

「おれのことなんか見てるやつはいないよ」


 ウィレドはそう呟くように答えた。


「おれは、外周産まれのコソ泥だ。チンピラの息子で、どうしようもない悪ガキだ。おれを見るやつなんて誰もいなかった」

「……バカ野郎」


 ユイは、ウィレドの頬を強く叩いた。

 そこに稽古でもないくらいの気迫が見て取れて、ウィレドは眼を丸くした。


「お前には剣があるだろう。俺が教えた。お前は、どうしようもないやつじゃない」

「でもおれ……おれなんかが強くて、何の役に立つんだ」

「何の役に立つじゃねえ。お前が何かの役に立つんだよ」

「なんだよ、それ」

「どいつもこいつも……剣をなんだと思っていやがる」


 どこか遠い所を見ながら、そんなことを呟くユイのことを、ウィレドは見上げた。

 ユイは、ウィレドの頭に乱暴に手を乗せた。


「俺の前に剣を持って立つからには、俺がお前を見ないなんてことはありえねえ。お前が何であれ、お前の剣は本物だ」

「……」

「ウィレド、俺にはお前が必要だ。まあ、差し当たっては、俺の稽古相手としてな」


 ウィレドは、ユイがそう言うのならそうなのだろう、と思おうとして。


「そうか。それは……なんか、こう、元気が出るな」


 もし本当にそうなら、なんて暖かいんだろう、と思った。




 ウィレドとユイが二人で稽古を始めて、三年ほどすると、ウィレドはそう簡単にユイに負けなくなってきた。

 ウィレドが、乾いた砂が水を吸い上げるようにユイの剣技を吸収していくのもあったが、ユイの身体の調子が徐々に悪くなっていったのもあった。

 毎日行われていた稽古は、やがて二日に一回となり、三日に一回と減った。


 四年目の夏が過ぎ、ヴェレクートに秋が来るころ、その報せは訪れた。

 ヴェレクート南の大森林に、大規模な瘴気が発生し、手のつけられないほど凶悪な魔族が出現したという。

 大規模瘴気の発生原因は不明。凶悪な魔族は、斥候の持ち帰った情報によれば、単独で、黒い大腕状の魔力を振るう、ダークエルフの女であるとのことだった。

 ヴェレクート聖騎士団はこれを大災厄と認定。魔族を『災厄の魔女』と名付けた。

 ヴェレクート聖騎士団の剣術顧問として、ヴェレクート一の剣士ユイは王城に召還された。



「……爺さん。どうだった」

「俺は、ついに間に合わなかった」


 王城から戻ったユイの、変わり果てたように生気を失った姿を見て、ウィレドはそっと声をかけた。

 そこにいるのは、ヴェレクート最強の剣士などではなく、ただの、痩せた老人のように見えた。


「何の話だ。爺さんよ。これから災厄の魔女とやらの討伐部隊を組むんだろ。まだ何も遅くない」

「遅かったんだ。俺は……俺の剣は。リリララ、お前を救うために、それなのに……」

「爺さん?」

「俺は今、どうして、こんなにも弱い!」


 胡乱げに俯いて、呟いていたユイは、突然、腰の真剣を抜いて、ウィレドに斬りかかった。

 稽古とは違う、本気の殺意が混じっているのを、ウィレドは『見た』。

 しかし、不意を打たれてなお、ウィレドには余裕がある。

 ウィレドの剣は既に、ユイの剣筋をほぼ完璧になぞる域にまで至っていた。

 ユイの斬りつけに、そっと剣を合わせて力を流そうとして、その剣に以前より力が込められてないことに、ウィレドはわずかな哀しみを感じた。


「爺さん。何だよ。何を捨て鉢になってんだ」

「俺は、間に合わなかった。すまない、リリララ……」


 喉の奥から、引きしぼるようにして出された言葉を残して、ユイは詫びるように、その場に崩れ落ちた。


「おい、爺さん? 爺さん!」


 倒れたユイを抱き起こすと、ユイは大粒の涙をこぼしながら、子供のように嗚咽を漏らし、泣いていた。

 そして枯れ果てた枝のように細い、力なく震える腕で、ウィレドに向けて自らの愛剣を差し出した。


「ウィレド。頼む……お前にしか頼めない。『災厄の魔女』を、リリララを。俺の代わりに、俺の剣で斬ってくれ」


 涙に震える声でそう頼まれて。

 ウィレドの内に火が灯る。

 かつて暖かいと感じたそれが、今はこんなにも———熱い。

 ウィレドは、肩にかけていたマントをユイにかけると、


「任せろよ」


 ユイの剣を携え、南に駆け出した。



3.再会


 瘴気の渦に飲み込まれてリリララが感じたのは、微睡みのような安らぎだった。

 万物は流れ。その大いなる流れの内の一つとなり、己という境界を溶かしてゆく。

 微睡むような感覚の中、曖昧になった自我は、自分の身体が暴れ周り、無秩序に、目的もなく、森を、獣を、目に映る物すべてを破壊していくのをぼんやりと他人事のように眺めていた。

 この感覚。

 流れの中に揺蕩い、移ろいゆく万象が、過ぎていくような感覚こそが、森の民……エルフの感じる本来の世界だというのなら、


(私がしてきたことは本当に無駄だったのだな)


 スケールが、違いすぎた。

 剣など振ることに、何の意味があるだろう。

 はるか昔に、里のものに言われたことは、悪意からではなく、ただの事実だった。


 魔法を使えないなりにそれでも何かを掴むためにと始めた剣。

 しかし、結局何も得られなかった。

 何も実らなかった。

 剣を振るい、無骨に節くれだった、醜い手で、リリララは何も掴めなかった。

 それでも。


(ああ、それでも)


 自我を塗り潰され、獣に成り果てて尚、リリララは剣を捨てられなかった。

 腰に刺したままの剣の重さ。

 瘴気に満ち、力に溢れた身体にとって、小枝ほどの重さでしかないそれを感じながら、リリララは思い出す。


 あの日拾った、人間の子供。

 剣を戯れに交えたのは、本当にただの気紛れだった。


 目を閉じれば、目の前にその姿が浮かぶ。

 あの日から何度思い返して来たろうか。

 剣を交わし、語らい合ったあの一月は、何物にも代えがたい宝だった。

 大切な瞬間を何度も反芻するように、リリララはあの剣戟を思い出す。

 剣を構える人間の子供を幻視して、リリララは僅かに唇を歪める。

 楽しい夢想のひと時。かつての想い出に浸る、意味のない感傷。

 意思のないはずの身体は、瘴気で象られた腕を霧散させ、生身の腕で腰の剣を無造作に引き抜いた。

 それは全く、身に染みついた動きだった。

 思い出をなぞるように、目の前の幻影と相対し、リリララは剣を振った。


 不満といえば、彼我の実力差。

 100年積み重ねたリリララと比べれば、少年の剣は拙いものだった。

 それでも。

 ユイ。

 何故あの時君は、勝たなかった。

 ユイ。

 

 剣士の打ち込みが、瞬間的に加速する。

 それは、思い出の中にない動きで、微睡むような心地でいたリリララが、目を醒ますのに十分な違和感をもっていた。

 剣を振り上げるという過程だけが省略されたかのように、踏み込まれた瞬間には、既に振り下ろされ終わっている。

 それは、リリララの、『災厄の魔女』の身体能力をもってして、避けきれぬほど鋭い一撃であった。

 それは、夢想ではない。

 微睡みの向こう、『災厄の魔女』の眼前に、立ち塞がる一人の剣士がそこにいた。


「あは」


 それはきっと、歓喜だった。

 覚えている。

 そう。

 そうだったね、ユイ。

 君は必ず来ると言ったのだった。

 私より強くなって、ここから連れ出すと。

 その為に技を磨いて。

 私の域にまで、登りつめて来てくれた。


「おかえり、ユイ。待ってたよ、ずっと」


 もう心を隠す必要はない。

 揺蕩うような心地よさから抜け出して、リリララは思う。

 どうせ、伝える術もないのだし———




 袈裟斬りは、水平に薙ぐ一撃への予備動作である。

 しかし、その意図をウィレドは隠蔽する。

 殺意を込めて斬りつけることで、それははじめて牽制足り得る。

 剣を引き力を溜めるのではなく、自分が前に進むことで、自然に溜めた形にする。

 そして、牽制に次ぐ本命の、横薙ぎ。

 無理矢理とも思える剣筋で斬りつけるウィレドに、魔女は難なくついてきた。


 ウィレドは混乱していた。

 何故か魔力を使わない魔女。

 巨大な腕の魔法さえ潜めて、魔女はただ、腰に刺した無骨な剣一本でウィレドに向けて斬りかかってきた。

 その剣筋は苛烈。

 瘴気による身体強化はもちろんのこと、剣技の冴えが尋常ではない。

 全盛期のユイの、本気の一撃よりもそれは、なお鋭いかもしれない。

 それなのに、


「あはは」


 目の前の魔女から、その剣閃からは。

 一切の害意が感じられなかった。


『嬉しい』

『試してやる』

『これはどう?』


 こんなものと共に、こんな思いを乗せて斬りかかってくる敵を相手に、どうすればいい。


『俺は、間に合わなかった。すまない、リリララ……』


 思い返すのは、ユイの言葉。

 何の因縁があるかは知らないが、これ・・を倒すために、ユイは力をつけようとしていたのか。

 納得し、そして痛感する。

 これは、ダメだ。

 生半な修練では、この域には届かない。

 ヴェレクート最強の剣士が、なお上を目指した理由は、これ・・だったのか。

 彼我の実力差を認め、それでもウィレドは魔女の剣閃に追い縋る。


 出鱈目な速度と、人外の冴えを見せる魔女の剣技に、ウィレドが着いていくことができているのは、二つの理由があった。

 一つは、この魔女がまだ自分と『技比べ』をしようとしているから。

 魔女の攻撃に殺意はなく、こちらの意図を探るように受けにもどこか遊びがある。

 けれど、ウィレドは技比べに来たのではない。

 魔女を斬りに来たのだ。

 技で勝てないならば、別の所で勝てばいい。


 もう一つは、ウィレドはこの剣筋を『見た』ことがあったから。

 ユイ=ハクタイ。

 魔女の放つ剣筋は、速度こそ違えど、かのハクタイ流創始者との稽古で、繰り返されたものと、違わぬものだった。


 だからこそ、かろうじて対応できるというだけのこと。

 ウィレドは、剣の腕でこの魔女に遠く及ばない。

 ユイの言っていた通り、ユイの剣でもまだ、この魔女に届きはしないだろう。

 そこにはウィレドにとって、『見て』わかるほどに明快で、確かな差があった。


 しかし、頼まれたのだ。

 涙ながらに、振るえる手で託されたのだ。

 それに応えられないならば、それは。


「そんなの、認められるかよ」


 小さく呟き、剣を握る両手に力を込める。

 絞るように強く。労るように優しく。


 魔女が突如、動きを変える。

 剣を巻き取るようにしてかちあげる、武装解除の技だ。

 ウィレドはその力に逆らわず、剣を上に払い、生まれた隙に大きく一歩飛びすさり、距離をとった。


「リリララ」


 魔女を斬る、そのためならなんだって使う。

 剣術で勝つために来たのではないのだ。

 試しにウィレドが漏らしたその言葉に、駆け出そうとした魔女の剣が一瞬鈍った。

 僅かな隙。

 一呼吸もない、刹那の時を突いて、ウィレドは駆け出している。

 走るのではなく、身体を倒すような、重力を用いた加速。

 最速の一撃に、選ぶのは刺突。

 しかし、その攻撃を待っていたと言わんばかりに、魔女が下から払いあげるように剣で受けようとしている。

 のを、ウィレドは確かに『見』た。


「遅い!」


 その剣閃は、ユイが癖のように何度も繰り返した返し手だった。

 ウィレドはその動きを、稽古の中でもう何度も『見て』きた。

 それはきっと、この時のため。

 この瞬間のために、ユイ=ハクタイが積んできた研鑽の日々を、ウィレドは誰よりも近くで『見て』きたのだ。

 だから、対応できる。

 常軌を逸して冴え渡る魔女の剣技にさえ、追い縋り、追い越せる―――


 身体ごと回転するように踏み込み、突きを、垂直に払う斬撃へと変じる。

 魔女の下からの払い手を、更に下から払い上げるように、斬り飛ばした。

 身体から斬り離れた魔女の手首から先は、剣を握ったまま弧を描いて飛び、大地に刃を突き立てた。

 剣を失った魔女は、その表情を変じた。

 歓喜から、安堵へ。

 穏やかな凪の時のような顔に。

 ウィレドはそれを、確かに『見て』とった。


(剣を落として、何を、安心している。こいつは)


 魔女から見える感情は、急速に曖昧になってゆく。

 残されたのは、行き場のない魔力を振るう、ただの獣だった。

 斬り落とされた腕の断面から、黒く噴き出すのは、実体化した魔力で編まれた手。

 ウィレドを掴むように殺到する。

 しかし、それにウィレドは臆さず、更に一歩を深く踏み込んで、魔女の心臓を刺し貫いた。


「待ってた、ユイ」


 魔女は胸元まで突き通したウィレドの剣に触れるように、

 自分の胸元にウィレドの手を引き寄せるようにそっと触れて、

 それだけ言い遺して、その身に溜め込まれた瘴気と共に、身体を黒い塵と変じて、消えた。


「……ユイ=ハクタイの剣は確かに間に合った」


 ウィレドは、大地に突き刺さったままの魔女の剣に寄り添うように、ユイから預かった剣を突き刺した。

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