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ビルの中は静かだった。
まるで人の気配がない。さすがは歴史深い建造物。こんな古びた建物に間借りしている職場なんかで働こうって物好きは、当然のごとく少ないようだ。
大学生活を通してぶしつけな人の視線に慣れてしまったからか、こうした静かで誰の目も向けられない空間というのが逆に新鮮に思える。でも、これは静かすぎ。自分の足が奏でる靴音でさえやかましくフロアにひびいてちょっと落ち着かない。
わたしは静かなフロア内に大きな靴音を鳴らしながら「受付」とプレートの掲げられたカウンターに向かい歩いて行った。
受付には一人の中年女性職員が眠そうな目で椅子にもたれていた。
「治安維持機構からの要請で派遣されてきました。今月付けでこちらで勤務させていただきます。レイカ・ハインラインです」
そう言いながら事前に受け取っていたIDカードを見せる。
「ああ、はい。レイカ・ハインラインさんね」
受付譲は、あまりやる気の感じられないだるそうな声でカードを受け取ると、わたしの顔とカードに記載された写真とを見比べて、「ちょっと待ってくださいね」と言いながら内線電話をかけ始めた。
短い電話でのやり取りを終え、受付嬢はわたしに向き直り、最上階にある所長室へ向かうように告げてきた。
軽い会釈を残し、あまり愛想が良いとはいえない受付嬢に背を向けると、エレベーターに乗って六階のボタンを押した。エレベーターが上昇を続ける間、吹き抜けになった壁から見えた月世界の都市風景を感慨深く眺める。
二十三年という月日を過ごしてきたこのセカイ。
この景色の中で生活することになるのもあと僅かと思うと、不思議とちょっと名残惜しい気持ちになってしまう。もうじきしたら、わたしはしばらくの間この月世界から離れることになるはずだ。
灰色に塗り固められた月世界の景色。行政区画に連なる高層ビルの合間を多くの人々が歩いている。完全に管理された社会システムの中では、人間は急ぐという行為を忘れ、道行く人々の歩行速度は緩やかなものだ。
だが、人はのほほんとしていても、技術は違う。
緩やかに上昇を続けるエレベーターからは見ることのできないビル群の先。そこでは強迫観念に迫られたような急激な都市開発が進み、旧い景色は五年と経たずに新たな技術の街にバージョンアップする。
かつてガソリンで走っていた車は消え電気自動車が主導になり、それも数十年前に廃れ、現在ではエーテルという新たな動力資源が世の中を席捲している。行政都市区画から少し離れた若者が多い繁華街では、「さあ、新しい服を着ましょう!」という広告が貼り付けられ、半年という刹那の人気を獲得した若手女優が笑顔を振りまいている。
多くの人は新技術によって変わっていくこの灰色のセカイを、
このセカイは常に未来へと、新しい何かへと向かっている。それが正しいことだと、理想の世界だと信じて。……
けれどわたしは過去へと向かう。
そして、今日はその一歩目。ミリアから遅れること五年が経ち、わたしはかつてあの娘が通ったであろう道をなぞっていく。
かつて約束した人間の故郷へ。──
懐かしい友人の姿を思い浮かべ遠い目をするわたしの思考を断ち切るように、エレベーターが微かな浮遊感とともに止まった。
いくつかの用途不明の部屋を通り過ぎると、所長室と書かれた部屋に行き当たった。躊躇うことなく二度軽いノックをすると、すぐに返事があり入室を促された。
室内には二人の女性がいて、わたしがドアを開けるなり鋭い視線を投げかけてくる。
窓際のデスクに座っているショートカットの女性がおそらくこの施設の長だろう。若作りメークで三十路程度の見た目をしているけど、首筋や目尻に浮かぶ小皺は隠せていない。
そしてもう一人の女性。デスクの前方に置かれた二つのソファーの片方に、凛と背筋を伸ばし座っている。こっちの女性はメークなんてしなくても十分なほどに若々しく綺麗な顔だ。でもどこか冷たさを感じるのは、たぶん感情を隠した無表情のせい。
「ようこそ、レイカ・ハインラインさん。あなたを歓迎するわ」
と言って微笑みを浮かべたのは、正面に座る年長女性の方だった。
わたしは彼女の言葉に「はい」と「ありがとうございます」の二言で答える。目上の人との会話は苦手だけど、この二つの言葉さえスムーズに話せればたいてい何とかなる。
「かけなさい」
と再び三十路メークの女性は微笑む。わたしの実に適当な処世術が功を奏したのかどうか、とにかく第一印象では無難な印象を残せたみたい。
「さて、まずは自己紹介といきましょうか。わたしは、この施設の所長を務めさせてもらっています。ラクーナ・ティプトリーです」
にこり。わたしが空いていたもう一方のソファーに腰を下ろしたのを見計らってラクーナ所長は笑う。それに対しわたしも社交辞令的な笑顔を頬に浮かべておく。
「そして、こちらがこの治安維持機関の上級隊員……」
「コーディ・マクラーレンです」
とラクーナの言葉を引き継ぎ、わたしの対面に座っていた無表情の女性が口を開いた。
張り付いた無表情と同じような無感情な声だ。なまじ顔立ちが整っているからか見つめられると妙な圧力を感じる。
コーディと名乗った人形じみた美女の名乗りが終わると、ラクーナ所長は立ち上がって移動をする。
「あなたの噂は聞いているわ」
とわたしの前──コーディの横に座りながら、所長は静かに口を開く。
「なんでも、月世界の過去に興味がある今時稀有な学生だとか」
「いえ、稀有だなんて……」
そう言ってわたしは謙虚に否定をする。
たしかに生まれてからずっと、親や教師から過去を振り返る愚かさを教えられてきたいまの若者たちは、それはもう立派な未来主義者になっているし、そういう社会の中ではわたしは稀有な変人扱い。
それはまぎれもない事実。けれど。──
けれど、この施設に勤務している人間の中で、わたしを稀有と言える人間がいるのだろうか。いや……
「わたしは人間が生来的に持つ知的好奇心に身をゆだねているだけですよ。ここの特別なスタッフと同じように」
わたしはそう言って優雅に足を組む所長にからかい交じりの目を向ける。
月世界でも稀有な、バージョンアップを怠った外観を維持するこの施設。月世界治安維持機構の下部組織のひとつとして名を連ねる特殊機関「ルナ・フォース」の職員たち。彼らはみんなわたしと同類の人間だと聞いている。つまり、この月世界の過去に興味津々な
ですよね、所長?
わたしは和やかな微笑を浮かべながら目だけでそう伝える。所長はそんなわたしの反応を見ると少し目を細め、
「わたしたちの仕事について、少しは調べてきているみたいね」
と称賛の言葉をもらす。
わたしは当然とばかりにうなずく。
ええ、それはもう十年も前からこの組織のことは調べつくしています。
「よろしければ、あなたの自慢の知識をここで少し披露してもらえるかしら?」
眠り眼の小学生相手に意地悪な質問をぶつける先生のように、ラクーナ所長の唇が薄く引きあがる。
わたしはすかさず、大学で独自に学んだ月世界の記録、そして過去に聞いたミリアの高説を思い出した。
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