2-1
わたしの旅立ちの日が決定した。
それはつい数か月前のこと。その日のわたしは、毎日代わり映えしない曇った空を眺めながら、つまらない大学教授の話をさざ波のような遠いBGMとして聞き流し、襲い掛かる眠気に耐えていた。そんな大学での授業の最中に、わたしの脳に直接コンタクトを取ってくる人間がいたのだ。
脳内に直接テレパシーを送れる、そんな
だから、わたしがその信号を受信したとき、思わず驚いて声をあげてしまったことは仕方ないことだろう。何せあんな風に突然誰かの声が自分の頭にひびきわたる経験なんて、久しくしていなかったのだから。
ヒト科生物孵化センターでつくられる赤ん坊たちは、必ず何らかのタレントを与えられてこの世に生を受ける。そして、そのタレントはセンターが設置された地区の長が決めることで、当然生まれてくる子供が自分で自分のタレントを決めるなんてことはできない。
知り合いの中には、日常生活で何の役にも立たないタレントを授けられた人もいるけど、その中でも数少ないテレパシー能力の才能を持っていたのは同年代の知人の中では一人だけ。
ミリア・ブラッドベリ。
この月世界での生き方を憎んでいて、いつかわたしと二人で本当の人間が生きるセカイを見に行こうと誓った親友だけだった。
でも、その日わたしの脳内に投げかけられた言葉は、ミリアが持つ耳に心地よいソプラノ声なんかじゃなくて、とても無機質で事務的なものだった。
『月世界治安維持機構からのお知らせです。レイカ・ハインライン様の派遣日程が確定しました』
脳内に届く直接的な電波の声。その声がささやいた内容に、わたしは内心で唾を飲み込んだ。
ついにこの日が来たんだ。
かつて誰もいない放課後の教室でした約束。
ミリアと二人でこのセカイから逃避行しようって誓いを、あの日から七年経ってようやく叶えることができるようになった。
堪えきれない喜びが口角の肉を吊り上げているのがわかる。
同じ講義を受ける生徒のうち、何人かがわたしのそんな奇妙な表情を見ていることには気づいていた。
なぜって。わたしはこの学校では少し偏屈な変わり者というレッテルを貼られているから。わたしの一挙手一投足には自然と視線を集めてしまう異質感があるらしい。それは、おそらく、かつて中学生だったミリアがクラスメートから向けられていた視線と同じものなのだろう。
ミリアがわたしの前からいなくなって五年。レイカ・ハインラインという女は、どんどんミリア・ブラッドベリに近づいていっている。──
そして、わたしの脳内にテレパシーでの通知が送られてから一週間後の今日。
──『月世界治安維持機構米支局特殊任務科』。門の脇の看板にはそう書かれていた。
かつて権威ある人がたち建てたというこの局舎は、月世界の他の建造物と同じく彩りの少ない武骨な灰色に覆われた建物だ。
ただ、地上十階にも満たない階層の低さもあり、このビルはどうも左右に連なる他のビル群に埋もれてしまっている感がある。もっとも、建物自体の歴史が古いからそれも仕方ないのかもしれないが。……
──まあ、わたしは嫌いじゃないけど。
わたしは現在ではすっかりみすぼらしくなった、かつての偉人たち、彼らにとっての夢の城を好ましい目で見ながら内心で思う。
いまの月世界は「高かろうよかろう」だ。
建物というのは高ければ高いほどいい。なぜならビルの高さは技術の進歩を意味するから。日々未来への進歩を考える月世界民にとって低い建物は過去の象徴で恥ずかしいもの。月世界政府は過去を振り返ることを奨励しない。だからこのセカイの建築士が新たな建物を建てる時、その高さは常に既存の建物を越えるように設計される。
でも、わたしはそういった何でもかんでも革新に持っていこうっていう思想が好きになれない。
人々が忘れ去った過去の遺物。歴史にこそ人間本来の姿があるって知ったから。
温故知新。過去から学べ。……そういう考え方が大学でのわたしの立ち位置を変わり者としてしまったのはわかっている。でも、この思想は、ミリア・ブラッドベリという少女の声を伝って与えられた大切な
わたしが思い描くミリアの残像。彼女にはいろいろなことを教えられ、わたしの心にはあの心地よいソプラノ声と思想が染みついている。
きっと、彼女もこの古臭い建物に興味をもったんじゃないかな?
そんなことを考えながら足を踏み出す。
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