丘の家(2)
梅雨の季節が始まる少し前、良く晴れたある午後の話だ。
俺は、東京中目黒の駅近くにあるスーパーで買った食料品を左手に
中目黒商店街を抜けて、さらに三百メートルほど住宅街を歩いた場所に、俺の寝ぐらはある。
鉄筋コンクリート打ちっ放しの古ぼけた三階建てアパート。
灰色の建物表面に雨だれの跡が
住宅街特有の狭い道が交差する十字路を曲がると、
地味な色のありふれた国産SUV。
何となく直感が働いた。
……やつら、か……
俺は、そのエクストレイルにゆっくりと近づいた。
車の窓は前後左右四枚とも全開になっていた。
若い男が、運転席の背もたれを倒して昼寝をしていた。
「おい、根本、起きろ」
その男……
「ここは駐車禁止だ」俺は根本に言った。「ここから五百メートルほどの所にコイン・パーキングがあったはずだ。ナビで調べろ。そこに車を置いて来い。話はそれからだ」
「ええ? 五百メートルも先ですかぁ? そこから歩いて戻って来るんですかぁ? 面倒くさいなぁ」
「つべこべ言うな。お前、一応は官僚だろう? 国家公務員だろう? だったら法律は遵守するんだな。それに、法律うんぬん以前に、こんな狭い路地に車を
根本は面倒くさそうにシートベルトを締め、「〈レーダー〉が〈特異点〉を見つけました」と、エクストレイルのイグニッション・ボタンを押しながら言った。「ガンさん、仕事ですよ」
「ああ。だろうな……お前が俺のアパートに来る理由は一つしかないからな」
「車を駐車場に置いたら
「けっ、誰が逃げるか……さっさと行けよ」
表向きの仕事は知らないが(たぶん、全国のトンネル周辺の地質を調査して回るとか、そんな感じのダミー業務だろう)根本たちの本当の仕事は、別の世界からやって来て、この世界の運命を勝手に改変してしまう物どもへの対応だ。
別世界から来た〈魔獣〉を殺し、この世界へのインパクトを最小限に抑えるのが仕事……と、言っても、奴は
そして、俺は〈ゲート・クローザー〉。
実際に武器を持って〈魔獣〉どもと闘い、この世界と別世界を繋ぐ「門」を閉ざし、トンネルを
根本は『依頼者』で、俺は『実行者』、と言うわけだ。
俺の名は、
根本が俺を訪ねてこの中目黒のボロアパートに来たということは、この日本のどこかに〈魔獣〉が出現したと言うことだ。
別の世界からやって来て、歴史と人の運命を勝手に
駐車場を探しに根本のエクストレイルが動き出し、俺はアパートの階段を登った。
三階にある自分の部屋の鍵を生体認証で解錠し、スチールドアを開けて中に入った。
入居した時にはボロアパートに相応しい安っぽくてレトロな鍵が付いていた。そこだけは、自費で最新式の高級品に取り替えさせてもらった。
居心地は悪くないが、ほとんど物の無い殺風景な部屋だ……ほとんど物の無い殺風景な部屋だが、居心地は悪く無い……とも言う。
スーパーから買って来た食料品を冷蔵庫に入れ、代わりに冷凍庫からジンを出してコップに指一本分注ぎ、一気に飲み干した。
冷たい液体が食道から胃に落ちていき、流れた跡がカッと熱くなった。
都会暮らしの一番の利点は、
流し台の前に立って、二杯目のジンをコップに注いだ。
〈ゲート・クローザー〉は自営業だ。
国の役人に言われて〈魔獣〉を退治しに
しかし、別に〈ゲート・クローザー〉は国家の官僚組織の中に組み込まれている訳じゃない。あくまでフリーランスとして案件ごとに契約しているだけだ。
持ち込まれた個々の案件について、引き受けるも断るも〈ゲート・クローザー〉の自由だ。そこが国土交通省の役人として国から毎月給料をもらっている
魔獣退治の依頼を引き受け、運よく成功すれば、たっぷり二年は贅沢に暮らせるだけの報酬が支払われる。
俺が断れば、その案件は別の
そうは言っても、正式な契約の他に「暗黙の商慣行」があるのはどの業界も同じだ。
別世界の〈魔獣〉が、なぜ時空の門を開いてわざわざこちら側の世界に来て、人間を喰らうのか……理由は分かっていない(たぶん、こっちに住んでいる人間は脂が乗っていて旨いんでしょ、と、根本が役人らしからぬ不謹慎な冗談を言ったことがある)
とにかく〈魔獣〉は人間を喰らう。そして、人間が魔獣に喰われるたびに、この世界の過去現在未来が少しずつ狂っていく。
誰かが喰われた瞬間、こちら側の世界ではそもそもそんな奴は生まれていなかった、という形に過去が書き換えられる。
『歴史が改変されてしまう』という言い方は
例えば、人類にとって何らかの重要な発明をした人物が、時空の狭間で〈魔獣〉に喰われた場合、『そんな人物はこの世に生まれて来なかった』という形に歴史が改変され、そいつの人生、そいつの業績、そいつの関わった人々の記憶まるごと、きれいさっぱり消滅してしまう。
最悪、人類の文明レベルが何十年分も後退してしまうこともあり得る。
魔獣が我々の歴史に与える影響を最小限に抑えるためには、一刻も早く現場に駆けつけ殺すことが重要になる。
国は、今回、
どういう基準か知らないが、とにかく連中は俺を選んだ。
〈ゲート・クローザー〉の能力を持つ者は、この日本に俺以外にも何人か居る。
俺が断れば、国は別の〈ゲート・クローザー〉を選び直し、そいつの所に根本のような役人を派遣するだろう。そのぶん時間が無駄になる。
だから、俺たち〈ゲート・クローザー〉は理由もなく仕事を断るなんて事はしない。
一種の職業倫理だ。
二杯目のジンを飲み干して、隠し金庫の鍵を開け、コルト・エージェントとインサイド・ウェストバンド・ホルスター、スピードローダーを出し、金庫を閉めて、ホルスターをズボンの内側に
しばらくして、ドアベルが鳴った。
モニターを見ると、ドアの前に根本が立っていた。
端末の解鍵スイッチを押し、ドアフォン越しに「鍵は開いている。入れよ」と言った。
「お邪魔します」と言って、根本が入ってきた。
俺は、二脚ある椅子の一方に座るよう根本を
「コーヒーでもどうだ……と、言いたいところだが、あいにく最近コーヒー断ちをしていてね」
「えっ、
「カフェインは体に良くないって本に書いてあった……人間、四十にもなると健康に気を使うようになる」
「はあ、そういうもんですか……」
「そういうもんだ。根本、お前、何歳だ?」
「二十八です」
「お前も、四十になれば分かる」
「はあ……」
「さて、仕事の話をしてもらおうか。どこだ? どこに〈特異点〉が現れた?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます