第2話:春の倫理とコペルニクス的転回

 ペンローズの三角形、その表面を追いかけていくと、四重に折り重なったメビウスの帯になっていることが分かる。それはある種の不可能図とも言えるものだ。一見すると、どこが不思議なのか気づかないのだけれど、よくよく見てみると、現実にはありえない構造体であることが分かる。


 僕らの認識は、印象による世界の把握が第一義的であり、理性的に注意深く観察をしていかないと、その在り様を細かく把握することはできない。


 テレビをつけても、インターネットのブラウザを立ち上げても、そこから発信されている情報は、一昨日から変わり映えがない。どのメディアも必死で、この星に迫る危機的絶望を伝えている。


『潜在的に危険な小惑星とは、地球近傍小惑星の中でも、特に地球に衝突する可能性が大きく、なおかつ衝突時に地球に与える影響が大きいと考えられる小惑星のことを指します。現在、1800個ほどの天体が確認されていますが、これは危険な小惑星全体の10%にも満たないと言われています』


――。そんな報道が街を駆け巡っているんだ。


 公共交通機関は一部を除き、全線が運休している。現在運行されている列車は、全て防衛省市ヶ谷庁舎中央指揮所Central Command Postの管理下にある。


『一昨日、小惑星探査衛星  ”ソラカゼ” によって発見された小惑星は、直径が25メートルほどあり、このままの軌道で地球に接近すると、東京都南部を直撃する可能性が非常に高いと見積もられています。直撃した場合の最大被害予測はご覧の通りです……』


 日本の政治経済中枢が、あと数時間で消滅する。そんな報道にリアルさが持てないのは、小惑星が地球近くを通過し続けていたことを過去数千年にわたって知らずにいたということがありうるのか、という問いに集約されているのかもしれない。


 テレビは、東京駅のプラットホーム上空の映像に切り替わる。衝撃波警戒区域外へ向かう人々が、特別ダイヤで運行される列車に吸い込まれていく様子が映し出されていた。


 僕らはあまりに平和な日常に慣れきっている。そんな日常に不思議さを見出すことの方が難しい。せいぜい、異常気象や地震などの災害が起こるたびに、人間の振る舞いや思考なんて、世界を形成している物理法則に比べたら、どこまでもちっぽけな存在なんだと思い知らされる程度だ。


 一見すると不思議でも何でもないけれど、でもよくよく見てみれば不思議なことなんて沢山ある。モノの見方や考え方は、だいたいにおいて特定の価値観に支配されている。


――すべての科学、すべての哲学は、啓発された常識である。


 だれが言ったか知らないけれど、常識とはそういう仕方で成り立っている。


優樹ゆうきくん、小惑星はね、火星と木星の間にたくさんあるのよ」


 はるかは小学校の理科専任教師だった。大学では宇宙物理学を専攻していたらしい。物理学があまり得意でない僕には、彼女の難しい話はよく理解できなかったのだけれど、星座の話や、惑星の話はとても興味深かった。


「プトレマイオスは知っているでしょう?」


 毎月のように二人で通ったプラネタリムの帰りに、遥とそんな話をした。それは付き合いだしてちょうど一年の月日が流れた頃だったと思う。四月初め、夜の風が少し暖かい、そんな日だった。彼女を自宅まで送る途中、住宅街から少し離れた場所を流れている川沿いを歩いたんだ。そう、この日は河川敷に植えられた桜が満開だった。


「ああ。知ってるよ」


 クラウディオス・プトレマイオス。地球は宇宙の中心に存在していて静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているという天動説を唱えた人物だ。


「天動説で観測できる天体運動を説明するには、なかなか厄介なことがあったの。惑星って、“迷える星”って書くでしょう?」


 風が緩やかに吹くと、木の枝が小刻みに揺れ、桜の花びらが湿気を含んだ空気の中をゆっくり舞い降りてくる。月の光を反射しながら、それは薄いピンク色というよりはむしろ紫に近い色だった。


「プラネテス……ギリシア語で迷える人を意味する言葉だよね。惑星の語源って」


 惑星は英語でプラネット。元をたどれば、それはギリシア語のプラネテス。


「そう。例えば金星のような惑星の軌道を地上から観測すると、進行方向とは逆に軌道が変わってしまうことがあるの。まるで夜空を迷っているかのように見えるのよ」


 惑星は恒星の間を西から東へ運動、つまり順行していくように見える。しかし、ある特定の時点で、東から西へ逆戻りするように観測される。天空をさまよう星。惑星とはそんな星の姿に垣間見える、ある種の不思議さをまとった言葉。


「単純に地球の周りを回っているわけではなさそう、ということは経験的に理解できるんだけど、天動説の理論体系でこの現象を説明するためには、周転円と呼ばれる惑星軌道をつけ足したり、もういろいろ面倒なことになったのね」


 学生時代、科学哲学を専攻していた僕には、科学史の話はわりと身近だった。現象を説明しうる理論はシンプルな方が優れている。


「地球を中心に天体がその周りを回っている。そうではなくて、地球がそもそも動いている、ということを理論体系に含めると、どうにも惑星の軌道がシンプルに説明できるようになったのよ」


「コペルニクスだよね」


「そう、コペルニクスの地動説」


 物事の見方が180度変わってしまう事を比喩したなんて言葉がある。まあ、それほど大げさな話ではなくとも、科学理論は本質的に暫定的なものであり、認識能力が僕たち人間よりも優れた宇宙人であれば、同じ現象を別の理論で説明するかもしれない。どのみち人間に認識できる現象には限界がある。だから現象を説明するための理論は常に不完全なんだ。


 はらはらと舞い落ちる桜の花びらを手で救ってみる。透きとおる紫色の向こう側で、遥の笑顔と季節外れの暖かい風が、造り物ではない春の美しさを形作っていた。


『東京駅発、最終列車のご案内です。各路線ともに、ダイヤの大幅な乱れが予想されます。最新かつ正確な情報は駅係員にお問い合わせください。宇都宮線、宇都宮行は、16時30分、東海道線、熱海行は16時18分、中央線特別快速……』


 地球に接近する可能性のある小惑星は、分かっているだけで16000個。いつか衝突する可能性のある小惑星が1800個。さらに、衝突リスクのある小惑星が毎日、五個以上のペースで発見されている。未発見の小惑星が地球に落下する可能性なんて十分にあり得る話だ。人の認識能力に限界があるだけ。それは技術的な問題も含めて……。実際、ロシアのチェリャビンスク州の隕石落下は未然に発見されていない小惑星だった。


 小惑星が与えるインパクトは、この日常に慣れ親しんだ世界を、コペルニクスが描いた景色のように転回させていくのかもしれない。


 退去命令は、小惑星が東京南部に落下することが判明した一昨日より断続的に発令され続けている。疎遠だった家族からの連絡はない。きっと、もう東京にはいないだろう。

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